碧い瞳と慈悲なき拳
潮の退潮とともに港湾街へと流れ込む、生臭い湿気。
それら、に混じって倉庫内の重い空気を支配していたのは、積み上げられた無数の木箱の隙間から漏れ出す、特有の甘く腐敗したような不快な異臭だった。
天井の梁から吊るされた裸電球が、打刻印を偽造された無銘の木箱を白々と照らしている。
その両側に、ふたつの影が揺らぐ。
一方は仕立ての良い上着を纏った密売の仲買人。細い指先が木箱の縁を撫でる仕草には、計算高さがそのまま滲んでいる。
もう一方は、樽のような胴体を厚手の革鎧に押し込んだ男――犯罪組織「黒い錨」の幹部、ボージュ。油で固めた髭の下から覗く唇が、歪んだ弧を描いていた。
「これの精製度は従来品の二倍を越えます。自我のタガなど一瞬で吹き飛び、死ぬまでその誘惑から逃れられません。次回は今回以上の対価を用意しておいてください」
仲買人が薄い手袋越しに木箱を叩く。声は静かで、抑揚がない。
ボージュは喉の奥で笑いを転がし、太い指で顎の無精髭を撫でた。
「品質と数量は確かに検めた。全ては組織繫栄のため、今後もよき取引相手でいようじゃないか」
「ええ。金さえ渡してもらえれば、私は何でも売ります。これからも、ご贔屓に」
目配せひとつ。手下が革袋を持ち上げる。
金属の擦れる重い音――双方の損益計算が噛み合い、不法な契約が成立しようとした、その瞬間。
頭上から、大気そのものを叩き割るような衝撃波が落ちてきた。
「――そこまでだ」
甲高い破砕音とともに、天窓のガラスが内側へ炸裂する。
舞い散る硝子片、そして蒼白い月光を背負って降ってきたのは――ルカだった。
落下の勢いをそのまま「硬化」させた拳に乗せ、石畳へ直接叩き込む。
ドォン、と鈍く重い音が響いた次の瞬間、指向性を持った衝撃波が八方へ吹き荒れ、粉塵が津波のように倉庫内を呑み込んだ。
天井の闇から降ってきた破滅の光景に、周囲を固めていた構成員たちが悲鳴を上げる。
「な、なんだ……敵襲か!? どこから――」
「慌てるな。迎撃態勢だ、取引を見られた以上、生かして帰すな」
ボージュの声は、動揺する部下たちを一瞬で平静に引き戻した。
白煙と瓦礫の粉塵が渦を巻く中、崩れた石塊を静かに踏み越え、ルカが立ち上がる。
その碧い瞳に、乱れひとつない。
ただ、目の前に散らばる敵の配置を数えるような、澄んだ静けさだけがあった。
――普段の彼を知る者なら、この静けさの底に何が沈んでいるかを知っている。躊躇いは、最初から選択肢にない。
そして、ルカの強襲と寸分違わず同期して、正面の大扉が外側から蹴破られた。
ギィン、と金属の悲鳴が空間を震わせる。
月光の差し込む開口部から雪崩れ込んできたのは、アイン率いる突入隊だった。
銀髪を揺らし最前線を走るアインの紅い瞳に、感情の色はひとつもない。
群がる「黒い錨」の男たちが振るう無骨な斬撃を、彼女はただの軌道――空間に引かれた幾何学の線として処理する。
紙一重で躱し、刃を受け流し、呼吸を整える隙すら与えず、手首の関節へ、膝の支点へ、正中線へ。最短距離で骨を折る剣が、間断なく閃く。
「がッ――」
悲鳴は最後まで形にならない。骨の砕ける音だけが続けざまに響き、雑兵たちが石畳に転がっていく。
その動きに無駄がない。まるで、感情という機能そのものが最初から実装されていないかのように。
「怯むな! 所詮は、ガキの集まりだ、数で押し潰せ!」
ボージュの怒声が飛ぶ。
「炎属性、初等理術――業火拳」 「風属性、初等理術――風撃」
重装甲と大剣で固めたボージュ直属の部下ががルカを囲み、理術を放ちながら間合いを詰めてくる。
だが、その連携速度をルカの知覚は軽々と超えていた。
理術を躱し、大剣を振りかぶった男の懐へ踏み込む。
地面の反発力を骨格ごと拳へ伝え、硬化させた前腕で斬撃を弾く。火花と、澄んだ金属音。体勢を崩した敵の隙へ、死角から拳を滑り込ませる。
ゴキリ、と鈍い音が骨を揺らし、巨体が跳ね、背後の柱へ叩きつけられる。
左右から迫る挟撃も、最小限の体捌きで軸をずらし、硬化した脚と拳の一撃で関節ごと沈黙させた。
肉の壁を瞬く間に切り開き、ルカはボージュの目前へ肉薄する。
「ちッ……使えない雑魚どもが」
だが、追い詰められたはずのボージュの脂ぎった顔に、焦りの色はない。
醜悪な笑みを深め、分厚い指先がポケットから小指の先ほどの金属筒を抜き出す。
「身の程を知れ、ガキが。邪属性・封刻――原型解禁」
理術『封刻』が発動する。
掌上の筒が高密度の光を帯びて一瞬で膨張し、次の瞬間、ルカの至近距離に凶悪な砲口を持つ超重量級の大砲が顕現していた。
逃げ場のないゼロ距離での照準固定。
「死ねェッ!」
ズドンッ――!!
鼓膜を直接殴りつけるような爆音が倉庫を揺らす。
至近距離から放たれた高熱の砲弾が、空気を焦がしながら視界を紅蓮に塗り潰したが、ルカの碧い瞳は、どこまでも冷たく冴え渡っていた。
「邪属性・超越体技――硬化」
積層装甲のごとき理術の壁を全身に纏わせ、迫る砲弾へ迷いなく掌を突き出す。
ガァンッ――!!!
高エネルギーの衝突が閃光と衝撃波を撒き散らし、周囲の木箱が木粉と化して舞う。
煙が薄れた中心に立っていたのは、片膝すら折らずに地を踏みしめるルカの姿だった。
右手は熱を帯びて赤く、蒸気を噴き上げている。
しかし、皮膚に傷ひとつなく、運動エネルギーも熱量も、硬化した表面が余さず散らしていた。
「な……何だ……砲弾を、素手で……!?」
絶対の切り札を完封され、ボージュの顎が外れたように止まる。
「お前の悪行は、今日で終わりだよ」
穏やかささえ滲む声だだが、その言葉に慈悲はひとかけらもない。
相手の思考が完全に停止した一瞬を、ルカは見逃さなかった。
爆風の余韻を裂いて間合いを詰め、軸足の蹴り出しから右ストレートを叩き込む。
ボージュの顔面に寸分違わずクリーンヒットし、巨体が宙に浮いて石畳へ叩きつけられた。
痙攣の後、白目を剥いて意識を失う。
「くそ、中は全滅だ! ずらかるぞ! ……何だこの霧、いつからこんなに――」
倉庫の破壊音を察知し、裏口から逃走を図った構成員たちを待ち受けていたのは、退路ではない。
炎・雷・水――複数の理術が同時に牙を剥く狩場だった。
屋根の上から逃走者たちの人数と足取りを数えていたエンジが、鬱陶しそうに小さく息を吐き出し飛び降りる。
「逃走経路の遮断は基本だぜ。あと、これは、霧じゃない煙だ」
風の指向性を得た灰色の煙幕が爆発的に広がり、数十メートル先の視界を瞬時に塗り潰す。
「ぐあッ!? 濃くなった、てめえの仕業か!」 「目が……ゴホッ! 息が……! 落ち着け、壁伝いに――」
視覚を奪われ咳き込む敵を、エンジは音と風の揺らぎだけで正確に捉えていた。泥を蹴る足音、衣擦れの摩擦、煙の乱れから重心と向きを逆算し、足音もなく間合いを詰める。無駄のない一撃と力学に忠実な足払いで、次々と沈黙させていく。
「まあ、ざっとこんなもんだろ」
軽口を叩きながら、最後の一人を沈める。数十秒後、路地には呻く男たちだけが積み重なっていた。
一方、迷路のようなコンテナ群を、必死の形相で駆ける男がいる。
ボージュの側近で、水路際に隠した小型艇での逃走を図っていた男だ。
計画の完璧さを確信し、角を曲がった瞬間――足が、凍りついたように止まった。
月光が落とす、巨大なコンテナの深い影。その漆黒の輪郭が滑らかに立ち上がり、少女の姿を象る。
レーシェだった。
「何だ、てめえは!?」
「野良犬を捕まえる狩人、ってところかな」
「ガキが一人で、粋がるんじゃねえ」
「あはは、それは違うよ、オジサン。こっちは十人だから」
言い終わるより早く、男の背後の闇溜まりから、音もなく複数の人影が滲み出した。
レーシェと同じく同じ「黒泳」の遣い手たち――。
「な――!? どこから――」
突如出現した影の群れに男の意識が引き寄せられた、まさにその刹那。
レーシェは、足元の闇へと沈んでいた。
「消えた……!?」
疑問に答えが返る前に、影から影へ、彼女は音もなく跳んでいた。
「黒泳」。
着地の瞬間、双刀がすでに構えられている。表情は、先ほどの快活さを塗り消したように静かだった。
「鼠一匹、逃がさない」
闇を裂く小さな閃光がふたつげ急所を正確に外し、両脚の腱と上腕の神経節だけを的確に断つ。
男が悲鳴とともに崩れ落ちた。
「外周、退路の封鎖――完了っと」
煙を消しながら倉庫内へやってきたエンジが、拘束と武装解除を終えたルカとアインに歩み寄る。
「外は片付いた。そっちも終わったみたいだな」
「ああ。見ての通り全員伸したよ。意識を絶って拘束済みさ」
ルカが足元のボージュと捕らえた仲介人たちを顎で示す。
感情を波立たせない声だった。
「なら、俺の出番だな」
後方から、シュナンが緩慢に、しかし油断のない足取りで進み出る。
「さてと――手早くすませようか。おい、起きろ」
側腹への蹴りで、ボージュの意識を強制的に浮上させる。
うっすらと開いた目が、自分を取り囲む少年たちの視線を捉え、憎々しげに歪んだ。
「フン……喋ると思うか、ガキどもが」
「強がりは結構。お前の意志は関係ない。俺の理術は、脳内に刻まれた記憶の深層を直接『閲覧』できる。しゃべる必要なんてないよ」
シュナンの手が、ボージュの額に静かに翳された。理術が発動し、意識の深部へと沈み込む。
時間にして――数秒後。
「あ……カハッ……!?」
瞳孔が限界まで開き、表情が怨念に塗り潰されていく。喉から金切り声が迸り、全身が痙攣した。
「どうした!? おい、落ち着け!」
シュナンの制止も虚しく、ボージュの口から黒ずんだ血と泡が溢れ、眼球が裏返り、全身が跳ねる。
床に突っ伏したまま、腐敗臭の混じる息をひとつ吐き出すと、そのまま動きを止めた。
重い沈黙が、倉庫を満たす。
シュナンは表情を硬くしたまま手を引き、頸動脈へ指を当てた。
「……脈拍、なし。脳機能も完全に沈黙してる。自害したのか、あるいは口封じか」
「自害の線はないだろうね。そんな狂気が、この男にあったとは思えない」
ルカが淡々と言い放つ。その声には、抑えきれない苛立ちがひとすじ滲んでいた。
捕虜の口を封じるためだけに、構成員をここまで機械的に――しかも凄惨に殺す。その底の見えない冷酷さに、腹の奥が焼けるような怒りを覚える。
「どっちでもいい。俺たちには調べる術も時間もない。……シュナン、記憶は探れたのか」
エンジが不快感を隠さずに話を進めた。
「ああ。アジトとボスの居場所は突き止めたよ」
「十分だ。ハクラ、全隊に繋げ」
エンジの背後に控えていたハクラが、無言で主核晶を取り出す。
「敵のアジト、並びにボスの所在を特定した。これより殲滅作戦へ移行する。各隊、これから指示する座標へ移動しろ」
これから始まる戦いを予見するように、その場にいた全員が、もう一度、静かに気を引き締めた。




