静かな鼓動、決行の夜
扉を押し開けた瞬間、頬を撫でたのは凍てついた空気だけではなかった。
紙とインクの匂いに混じって、鉄錆にも似た緊張の匂いが鼻の奥に張り付く。
作戦会議室――基地の奥に設えられたその部屋の中央には、大机が黒々と沈み込むように据えられ、アルセリアの地図が皺一つなく広げられていた。
壁のリジク灯は瞬きもせず均一な白光を放ち、集った者たちの影を床に濃く縫い留めている。
すでに各小隊の代表と、駐在隊員のネイトが、険しい顔つきのまま壁際に立ち並んでいた。
マルクを先頭に、ルカ、エンジ、シュナンが敷居を跨ぎ、室内の空気が一段階、密度を増す。
先刻までの軽口の残響は、扉が閉まる音と共に跡形もなく消え去っている。
ルカは胸の奥で何かが切り替わる感触を覚えた――遊びの回路が落ち、実戦の回路が音もなく灯る、感覚。
「待たせたな」
マルクが机に歩み寄りながら、低く言った。
「まずは情報の共有といこう。組織名は『黒い錨』。構成員は武装した密航者、元傭兵を含めておよそ二百。これが我々の持ちうる情報だ。――君が尋問で何が引き出したことを教えてくれ」
腕を組んだマルクの眼差しが、シュナンへと突き刺さる。エンジが顎をしゃくると、シュナンが一歩前に出た。刈り込んだ髪の隙間から覗く顔つきは、酷使され続けた機械の関節のように強張っている。
「……捕らえた偵察兵の記憶から拾えた中で、最も重い情報がひとつ」
掠れた声。喉の奥で何かが軋むような響きがあった。
「三日後の深夜、港の第四倉庫。麻薬の取引に、幹部の一人が直々に立ち会います」
「幹部が、現場に」
マルクの目が細まる。瞳の奥に鋭利な光がよぎった。
「間違いありません。記憶の映像は鮮明でした。新しい販路を打ち立て、この地域一帯を麻薬の温床にするつもりのようです。警備体制、配置される連中の理術属性――粗方、掴んでいます」
沈黙が落ちた。分厚く、張り詰めた沈黙だった。誰もが息を潜め、この情報の重みを測っている。
――この穏やかな港町に巣食う病巣を、根こそぎ抉り出す唯一無二の好機だ。
「――よし」
エンジが両手を机につき、地図に覆いかぶさるように上体を倒した。
「作戦目標は決した。取引の阻止、麻薬の押収、そして敵幹部の確保」
異論を挟む者はいない。エンジの指先が淀みなく駒を並べていく。
木片が地図を叩く乾いた音だけが響いた。
「倉庫内は狭く、荷が乱雑に積まれ、死角が多い。純粋な白兵戦で押し切るべきだろう。――突入は、ルカとアインお前たちの小隊だ」
「任せて、エンジ」
ルカは短く、吐き出すように頷いた。
「分かったわ。それから、確認なんだけど、幹部以外も生け捕りでいいのね」
アインの瞳がエンジを射抜く。硝子のような透明さの奥に、獲物を見定める獣の光がある。
「できれば、そうしてくれ。無理強いはしない。残りの小隊は、倉庫を円で囲むように散開。退路を断ち、駆けつける増援を食い止める」
言い切ってから、エンジは再びマルクへ視線を戻した。
「あんたらは民間人の誘導に回ってくれ」
「了解した。しかし、懸念が一つ、捕らえた捕虜はどうする――このまま拘束し続ければ、奴らに動きを勘付かれる恐れがあるぞ」
「その点に関しては問題ない」
エンジの目がシュナンへと流れる。シュナンは肩をすくめ、ため息をひとつ落とす。
「俺の理術は、記憶を読む以外にある程度の改竄も可能です。偽の記憶を植え付け解放しましょう。」
締めくくるように、口の端だけで笑ってみせた。
「マルク基地長あんたに渡しておくものが。――ハクラ」
エンジの傍らに控えていた少女が、静かに口を開く。
感情の色を一切滲ませない、硝子細工のような声だった。
「邪属性・幻晶宝珠――連環宝珠」
差し出した掌に、小さな赤い宝石が音もなく現れ、マルクの手のひらへと渡される。
「それは随伴晶。私が持つこちらの主核晶を介して、遠隔での会話を可能にします」
ハクラは青く光る宝石を掲げてみせた。
「随伴晶は、彼らにも」
一瞥だけをルカたちに向け、続ける。
「ただし――随伴晶同士の通話はできません」
言い終えると、感情の読めぬ瞳のまま深々と一礼し、音もなくエンジの背後へと退いた。
作戦の全容が決まる。
緊迫した議論の果て、代表者たちはそれぞれの配置を胸に刻み、会議は解散となった。
* * *
会議を終えたルカとシュナンは、夜の帳が降り始めた街をセーフハウスへと急いだ。喧騒はすでに沈黙へと沈みかけている。人気の絶えた裏路地を抜け、錆びついた扉を押し開け、空き家の闇へと身を滑り込ませる。
床板をめくり、湿った土の匂いが立ち込める地下階段を下りると、すでに騒がしい気配が満ちていた。他の班が先に到着していたらしい。当初よりも空間は狭く、体温と息遣いで満ちている。
戻ったルカたちは、会議で決した方針を包み隠さず語った。
* * *
翌日。
ルカ、シュナン、キリックの三人は、地元の商人や旅人に成りすまし、第四倉庫周辺の地形確認と索敵のために街へ繰り出した。ルカは粗末なリネンのシャツに茶のベスト。シュナンは荷を担いだ行商人の小僧。キリックは頭巾を深く被り、懐に水晶を忍ばせている。
表通りの露店からは香ばしい匂いが立ち昇り、人々の往来が賑やかな風景を編んでいた。だが港湾エリアの奥へと足を進めるにつれ、潮の香りは徐々に、腐敗した湿気へとその色を変えていく。
「キリック、空からはどう見えてる」
ルカが荷を整えるふりをしながら、声を潜めて尋ねた。
キリックは布越しに水晶へ指先を這わせる。
肩に止まった灰色の鳥が送る視界が、その瞳の奥で共有された。
抑揚の薄い、平坦な声が返る。
「倉庫の周囲に見張りは四人。表通りには出てこない。路地の角ごとに、死角を作るように配置されている。……その手前の区画に、不自然な人だかりがある」
言葉に導かれるように、三人は物陰から路地の奥をひっそりと覗き込んだ。
日の光すら届かぬ、湿った裏路地だった。ゴミと壊れた木箱が散乱する地面に、無数の人間が横たわっている。老いも若きも、痩せ細った体に破れた布を纏い、虚ろな瞳を宙に泳がせていた。ある者は不気味な笑みを浮かべ、ある者は幻覚に怯えるように己の腕を掻きむしっている。皮膚に走る赤黒い傷は、まるで爪で刻んだ呪詛の文字のようだった。
「……何だよ、これ」
ルカの喉から、掠れた声が漏れた。
路地の隅では、若い男が震える手で紙包みを大切そうに抱え、そこから立ち昇る粉末を吸い込んでいた。次の瞬間、瞳孔が開き、口の端から泡を吹いて、そのまま地に崩れ落ちる。誰も駆け寄らない。誰もが、己の快楽と苦痛の檻の中に閉じこもったままだった。
「麻薬の乱用者たちだ」
キリックが感情を殺した声で呟く。だが、その手の中の水晶だけが、微かに、鈍く鳴りを潜めていた。
「……ひでえな。ここまでやるかよ」
シュナンが低く吐き捨てる。普段の軽薄な調子は、跡形もなく消えていた。
倒れ伏す人々の中に、ルカと同年代と思しき少年の姿があった。虚ろな青い瞳が、通り過ぎるルカの足元をただ見つめている。そこには何も映っていない。意志も、感情も、未来すらも削がれた、ただの肉塊としての器だった。
「――っ」
ルカの胸の奥で、何かが灼熱の火花となって弾けた。拳が意思とは無関係に固く握り込まれ、鼓動が耳の奥で乱打する。
「落ち着け、ルカ。これすべて虚構だ。本気になるな」
シュナンが静かに肩へ手を置いた。冷えた指先の感触が、暴走しかけたルカの意識を、辛うじて現実の縁に繋ぎ止める。
「――分かってるよ」
理解はしている。これは試験のために組まれた作り物の光景だと。
だが、眼前で踏みにじられる命の尊厳、その凄惨さに対する怒りだけは、紛れもない本物だった。
仮初めの世界であろうと、この憤りを偽物と切り捨てることだけは、どうしてもルカにはできない。
ルカは長く息を吐き出し、強張っていた肩から力を抜く。碧い瞳に宿る光は静かだったが、決して消えることのない熾火のように、その奥で確かに燃え続けている。
三人は足音を殺し、静かにその暗がりを後にした。
* * *
そして、決行の日。
雲が月を厚く覆い隠し、港湾地帯は完全な闇に沈んでいた。波音が不気味なほど大きく反響し、引き潮が桟橋の柱を黒く濡らしていく。
倉庫を囲む影の中――積み上げられた木箱と錆びついたコンテナの陰に、気配を闇へ溶け込ませたルカたちの姿があった。ルカはハクラの作った宝石を取り出す。表面には、淡い赤の光がじわりと滲んでいた。
『――こちらルカ。準備完了、いつでも行けるよ』
『こちらエンジ。各小隊、配置についた。敵の増援ルートの遮断も済みだ。存分に暴れてこい』
耳を澄ませると、ハクラの持つ主核晶を介したエンジの声が、極限まで絞られた音量で届く。
ルカは宝石を強く握り込み、深く、深く息を吸い込んだ。心臓の鼓動は、驚くほどに静かだった。緊張がないわけではない。それを凌駕する覚悟が、すでにルカの肉体の隅々にまで行き渡っていた。




