仮想の街アルセリア
入り江を抱くようにして、港町は陽の下に広がっていた。
潮の匂いが鼻先を擽り、波が砕けるたびに陽光が破片となって海面に散る。桟橋には大小の船が肩を寄せ合うように並び、舳先に積まれた木箱の影が、規則正しく水面に縞模様を描いていた。
――平和な町。
そう評してしまえば、それで済む。
だが、この穏やかな景色の下に犯罪組織が根を張っていると知っている者の目には、潮風の甘さすら、どこか饋れた匂いを孕んで映した。静かすぎる町は、いつも何かを隠しているのだ。
「まずは指揮官を指揮官を決めておいた方がよくないか」
森の入り口、木々の合間から町を見下ろす位置で、エンジが声を張る。
「どうやって決める。多数決にするか?」
「まどろっこしいわね」
即座に切り返したのはアインだった。視線すら寄越さず、腕を組んだまま言葉だけを投げる。
「あんたがやんなさい。私たちの中で最も作戦立案能力にたけているのはあんたでしょ」
「異議なーし」
ルカが軽く手を挙げる。
誰も反対しない。むしろ、最初からそうなると分かっていたような、ゆるい頷きが連鎖した。
「お前の命令に従うのは癪だが――まあ、仕方がない」
ミヨクが肩を竦め、サダリもそれに続いて頷く。
「よし。決まりだな。今からは俺を指揮官殿と呼べ」
エンジが口角を上げ、芝居がかった調子で胸を張った。
「もう、すぐ調子に乗るんだから」
レーシェが冷ややかな目を向ける。気の抜けたその視線は、三年もの間、数えきれないほど目にしてきた光景に対するものだった。呆れすら、もう慣れの一部になっている。
「全員で固まって動くのは目立ちすぎる。数人ずつの小隊に分かれて行動しよう」
エンジの声が一転、低くなった。遊びの気配が消え、指揮官の輪郭がそこに立つ。
「――待って」
ルカが言葉を切り、目を細めた。視線の先、町から伸びる小道を、白い影が一つ近づいてくる。
「誰か来る。あれは……もしかして」
確かめるよりも先に、足が動いていた。
崖を下りながら見えてきたのは、白銀の外套を纏った人影――オーダーリロジアの隊員だ。
向こうもこちらの気配に気づいたらしく、足を止める。
「あなたが、本部からの援軍ですね」
「はい。あなたは、街駐在の隊員の方ですか」
「失礼、自己紹介が遅れました。オーダーリロジア・アルセリア基地所属、ネイトと申します」
ルカより一回りほど年を重ねた、落ち着いた声の男だった。所作の一つひとつに、長く現場に立ってきた者特有の静かさがある。
「百五十名が増援と聞いておりますが、他の方々はどちらに。指揮官の方にもお会いしたいのですが」
「皆、森の入り口付近にいます」
「ルカ! お前、いきなり飛び出していくなよな!」
息を切らせたエンジが追いつく。
「ごめん、ごめん」
苦笑いを返してから、ルカは視線をネイトへ向けた。
「それで、彼が現地駐在の隊員か。俺が指揮官のエンジ・ユベンだ」
ネイトが小さく頭を下げる。
「場所を移そう。ここでは通行人の邪魔になる。向こうで話を聞かせてくれ」
ルカとエンジ、ネイトを伴って一行は森の入り口へと引き返した。
広げられた地図の上に、ネイトの指がするりと滑る。彼を中心に、自然と人の輪ができていた。
「町へ入る方法は二つ。この山道を下った先の入り口から入る方法と、港側から入る方法です。現状、港側には連中の拠点一つがあり、常に見張りが立っています。山道側から入るのが得策かと」
「オーダーリロジアの基地はどこにある? 俺たちは小隊ごとに分かれて町へ入り、駐在所で落ち合う算段だ」
「基地の場所は町の東側、石門を抜けて三十分ほど歩いたあたりです。小隊で移動するのであれば、セーフハウスを活用してください」
ネイトの指が地図に載っているセーフハウス位置を示していく。
「おおよその地理は把握できた。これより各小隊、間隔を開けて町へ入る。まずは第一陣――バーダ、お前たちだ」
「了解、指揮官殿」
短く、迷いのない返事だった。
「私が先導します」
ネイトが立ち上がり、最初の一団が森を発つ。
それから一定の間隔を置いて隊が減っていき、やがてルカたちの番が来た。
「よし。じゃあ、行こうか」
ルカを含めた十人が、踏み慣らされた山道を下りはじめる。
「旅人や商人に混ざって町に入れば、案外うまくいきそうですね。ルカ隊長」
短く刈り込んだ髪の少年――シュナンが、隣で軽い調子で言う。
「今のところはね。っていうか、隊長って呼ぶのやめてくれない? むずがゆいよ。僕じゃなくて君がやればよかったのに、シュナン」
「いーやだよ。お前がくじ引きで負けたんだろ。俺は、どこまでもついていきますぜ、ルカ隊長」
「からかわないでよ。それに、試験中なんだから、もう少し緊張感を持たないと」
「分かってないな。こういう時こそ、いつも通り気楽にやるのが一番なのさ。しっかしまあ――ネイトさんやこの人たちが、あくまで作り物にすぎないなんて、改めて聞くと信じられないよな」
軽口を交わせるほどの呆気なさで、一行は町へ入ることができた。
通りは賑わっている。
人々が往来し、露店の幟が風に揺れ、片隅では大道芸人が火の輪を回していた。
誰もが、この穏やかさの裏に何が潜んでいるかを知らないかのように、明るい声を上げている。
「そうだね。――ところでキリック、僕たちを見張っているような怪しい人影はある?」
数歩後ろを歩く、水晶を手にした少年へ、ルカが声をかける。
「いや。今のところは確認できない」
キリックの持つ水晶には、空から町を見下ろす映像が映り込んでいた。彼が指笛を一つ吹くと、灰色の鳥が一羽、肩先に舞い降りる。すぐさま、その小さな足元に干し肉が差し出された。
「その鳥の見てる景色が、水晶を通じて見えるってわけか。相変わらず便利だよなそれ」
シュナンが感嘆混じりに覗き込む。
「お前の理術ほどじゃない」
キリックは興味なさげにそれを受け流した。言葉は短く、抑揚も薄い。だが、その淡々とした口調こそが、彼の警戒心の高さを物語っていた。
「敵組織の偵察がいると思ってたんだけど、今のところはいないみたいだね。このままセーフハウスに移動しようか」
「ルカ、その前に腹を満たそうぜ。この空間に入って、もう三時間は何も食ってないだろ」
シュナンが懐中時計を覗き込みながら言う。
昼時の露店からは、油の弾ける音と、香ばしい匂いが立ち上っていた。
鼻先を擽るその匂いに、思わず喉が動く。
「仕方ない。手早く済ませよう。それから、携帯食の確保も忘れずに」
「さっすが、ルカ隊長。部下思いの隊長を持てて、俺はなんて幸せ者なんだ」
「くだらない冗談言ってないで、さっさと食べに行きなよ」
シュナンの緊張感のなさに、ルカは思わず溜め息混じりの苦笑を浮かべた。
呆れているのか、それとも安心しているのか、自分でもよく分からない。
「空腹を感じるってことは、最悪、餓死もありうるってことだな」
キリックがぽつりと指摘する。
「そんな縁起でもないこと言わないでよ。君は平気なの? 理術の使いすぎで疲労してるんじゃない?」
「心配には及ばない」
「そっか。でも、少しだけ休憩して。僕が何か買ってくるから」
「それぐらい、自分でできる」
「だめ。隊長命令だよ。これぐらいさせてよ――さっきから、周囲の索敵は君に任せきりだったから」
短い沈黙の後、キリックはそれに従う。
十分ほどで、各々の腹は満たされる。
セーフハウスは町の外れ、人気のない裏路地にあった。
オーダーリロジアの隊員が秘密裏に使用するこの施設は、町の規模に応じて数が決められている。
アルセリアにある三つのセーフハウスのうち、ルカたちに割り当てられたものは、外から見れば、ただの空き家でしかなかった。
軋む床板の下、隠された階段を下りる。冷えた空気と、湿った土の匂いが鼻を突いた。
他の小隊もここを使うはずだったが、一番乗りはルカたちのようだ。
「ルカ、他の隊からの連絡はどうなってる」
キリックの問いに応じるように、ルカは胸ポケットから赤い宝石を取り出した。
表面に淡い光が滲んでいる。
「エンジ、聞こえる? 僕たち、セーフハウスに到着したよ」
宝石越しに、苛立ちを含んだ声が返ってきた。
「さっきから呼びかけてたのが分からなかったのか。今さら連絡してきやがって。まあいい――俺の隊と先鋒のバーダ隊で、入り口付近にいた敵組織の偵察を捕縛した。これから尋問する。シュナンも基地に連れてこい」
「了解。――だそうだ、シュナン。オーダーリロジアの基地に向かうよ」
「人使いの荒い指揮官殿だな。少しはくつろがせろよ」
「うだうだ言わずに、行くよ」
急ぎ足で、二人は基地へと向かう。
基地には、小隊ごとに代表二名が選出され、すでに集まっていた。
「増援、感謝する。私がこの基地の司令官、マルク・イスパイヤだ」
外套をマントのように羽織った中年の男が、低く落ち着いた声で言う。
眼差しには、長く前線に立ってきた者特有の静けさと重みがあった。
「作戦会議は、捕虜の尋問を終えてから始める。今しばらく待っていてくれたまえ」
「それなら、適任者が一人いる」
エンジが進み出る。
「こいつはシュナン。尋問にうってつけの理術を使う」
「ほう。ならば、存分に力を発揮してもらおうじゃないか」
マルクはシュナン、ルカ、エンジを伴い、捕虜の取り調べが行われている部屋へ赴いた。
扉を開けた先――椅子に縛りつけられた五人が、揃ってこちらを睨みつけてくる。
憎悪と諦めの混じった、乾いた目だった。
「進展はあったか」
マルクが、尋問にあたっていた部下へ問う。
「ほとんど、何も話そうとしません」
予想通りの、味気ない返答だった。
「見ての通り、手を焼いている。君たちの力を借りたい」
シュナンが、ゆっくりと捕虜の一人に歩み寄る。
「拷問でもしようってか。正義の味方が、ようやく本性を見せたか」
「はい、はい。そういうのはいいから」
挑発に乗る気配は、欠片もない。シュナンは形式通りに捕虜の頭へ手を触れ、目を閉じて低く呟いた。
「邪属性、追憶廻廊――歴史の告発者」
「味方にとっちゃ、これ以上ない頼もしい理術だよな」
脇から、エンジが感心したように言う。
「そうかな」
ルカの声は、重さ含んで空気に沈んだ。
「残虐な所業を、見ないといけないんだ。シュナンにとっては過酷でしかないよ」
便利さは、エンジの言う通りだろう。だが、その力を使う術者が背負う重みは、誰にも測れない。
しばらくの沈黙の後、シュナンは捕虜の記憶の辿り終えたらしく、肩を小さく落とした。
「これで、一通り終わった」
「感謝する。詳細は作戦会議で話してくれ」
マルクに続いて、三人は部屋を後にする。
「お疲れ様、シュナン。変わりないかい」
「大丈夫さ。俺は、そんなに柔じゃない。――今からお前の記憶を覗くこともできるんだぞ」
「それは、ちょっと勘弁してほしいかな」
ルカの背筋に、冷たい汗が一筋伝う。
「残念。でも、お前の考えてることなんて、記憶を見なくても分かる。どうせ、アインのあんな姿やこんな姿を、頭の中で好き勝手に想像してるんだろ」
「そんなこと、してないよ!」
ルカの顔が、見る間に赤く染まった。
「おいおい、噓つくなよ」
エンジが横から割り込む。
「お前の寝言から、アインの名前、何度も聞いてるんだぜ」
「ちょっと、エンジ! なんてこと言うんだ!」
「恋人でもないのに、それは流石に引くな」
シュナンがケラケラと笑い声を上げる。
その笑い声は、いつまでも基地の通路に響いていた。




