境界線
月末になるたびに、寮の廊下が少しずつ広くなった。
正確には廊下の幅が変わるわけではない。ただ、扉の前に置かれた私物が消え、聞こえていた物音が消え、名前を知っている顔が消えていく。その積み重なりが、空間そのものを変質させていくのだ。
「今月は70人かまた、増えたんだね」
ルカが窓の外に目を向けたまま呟いた。荷物を抱えた同期たちが、正門へと続く石畳を歩いている。俯いた背中。引きずるような足取り。入学した日、あれほど張り詰めていた肩の線が、今は水を吸った布のようにただ垂れ下がっている。
「力のねえ奴から振り落とされる。ここはそういう場所だ。卒業までいったい何人残るのやら」
エンジの声は低く、感傷を押し込めたような平坦さだった。
誰も答えることはない。
オーダーリロジア隊員育成校。入学時、千人を超えた同期は、三年という歳月をかけてゆっくりと削られてきた。
最初の月に去ったのは10人。翌月は20人。数は増えるばかりで、止まることを知らない。
打ちひしがれた背中を見送ることしか、残った者にはできなかった。
そして今、残っているのは150人。
「残すところ最後の試験のみとなった」
フィークスの声が講堂の天井まで届き、石造りの壁に反響して返ってくる。
生徒たちの間に張り詰めた沈黙が広がった。
「この試験を通過後お前たちは、オーダーリロジアの正式隊員として認められる。試験の詳細は追って説明する。それまでは休息をとれ。以上、解散」
帰り道、生徒たちの間で憶測が飛び交う。
護送任務だの、人質奪還だの、仮隊員として実地派遣されるのだと声高に主張する者もいた。
ルカはその輪の少し外を歩く。
足が重い。靴底に泥でも詰まっているような、そういう重さではなく、もっと内側から来る重さだった。入学式の日、人いきれで熱かったこの廊下に、今は自分たちの足音だけが響いている。
生き残ったという事実と、まだ終わっていないという事実が、胸の中で互いに押し合っていた。
月が高く昇った頃、ルカは寮の裏手にある空き地で拳を振っている。
夜風が頬を撫でる。虚空に向かって繰り出す拳、流れるような回し蹴り。
動き続けることで、頭の中の雑音を追い払おうとしていた。
「おい、少しは休めよ。明日に障るぞ」
背後から声がした。
振り返らなくても分かる。エンジだ。
ルカは拳を下ろした。
「眠れなくて、こうして動いてないと、不安になるんだ。エンジは怖くないの。明日の試験、失敗したらって思うと」
エンジはしばらく黙っていた。夜風が、二人の間を通り抜けていく。
「びびってないって言ったら嘘になる」
やがてそう言って、隣に立った。
「でも今更ジタバタしてどうにかなる話でもない。疲れ切って本来の実力も出せないまま臨むことが一番まずいだろ。ここで三年かけてやってきたことをぶつけてやろうぜ」
ルカは空を見上げる。月が、薄い雲の向こうに滲んでいた。
「そうだね」
少しだけ息を吐く。
「少しだけ付き合ってよ。この場所で二人で修練のも、今夜が最後だろうから」
ここは二人だけの秘密だった。寮からそう遠くない、消灯後の闇の中に溶け込んだ空き地。
三年間、寮から抜け出して二人で毎日特訓した。
今日が最後だと思うとルカには少しだけ寂しく思える。
「しょうがねえな、5分だけだぞ」
ルカの気持ちが伝わったのか、エンジが口角を上げ、背中の薙刀をゆっくりと構えた。
翌朝の空気は冷えていた。
冬と春が入れ替わる端境期の、まだ迷いのある寒さ。
最終試験に臨む生徒たちが集められたのは、校舎地下へと続く巨大な扉の前だった。
普段は幾重もの鎖に封じられているその扉が、年に一度だけ開かれる。
それ自体が、この学校における一種の通過儀礼だった。
扉の前に立ち並ぶ顔を、ルカはそっと見渡した。普段、見かけるたびに絡んでくるミヨクとサダリですら、今日は押し黙ったまま正面を向いている。その静けさが、かえって胸の中の何かを乱した。
あの鬱陶しさが恋しいと思う日が来るとは、想像もしていなかった。
ギィ、と重い音を立てて扉が開く。
一本道を進んだ先に、広い地下空間が広がっていた。
白衣の人員が忙しなく行き交い、ルカが見たことのない機械類が壁際に並んでいる。
しかしそのすべてが、部屋の中央に浮かぶ一点に向かって奉仕しているように見えた。
青い光を放つ石。
人の背丈ほどの多面体が、床から数十センチ、音もなく宙に浮いている。完璧な対称を描くその輪郭は、光を受けるたびに微妙に色を変えた。美しいというより、触れてはならないものを見ているような、静かな圧迫感があった。
「あいつら、理術工学局じゃねえか。なんでこんなところに。あの石と試験、何か関係があるのか」
エンジが低く言う。
無理もない驚きだった。オーダーリロジアの理術研究機関である理術工学局が、本部を置くヴァルクライア帝国から数十人規模で出向くことは、まずない。
「準備が整いました」
白衣の集団を束ねているとおぼしき男が、フィークスに耳打ちした。
「ご苦労」
フィークスは短く応じ、生徒たちへと向き直る。
「この石の名は、ルミタシア。遥か古代に栄えたリュクシオン文明が遺したものだ。触れた生物を内部に吸収して内部へと取り込み、石の中ある仮想空間へと送り込む。お前たちには、その仮想空間に入り、一週間以内に犯罪組織を討伐してもらう。それが最終試験だ」
ざわめきが広がった。
書物の中でしか目にしたことのない古代文明の遺産が、今、目の前で青く光っている。
白衣の男が一歩前へ出た。
「ルミタシア内部の仮想空間は、外部から自在に変容させることができます。私たち理術工学局が、その空間を人々が生活する街として構築しました。住人がいて、日常があり、そしてその日常を脅かす犯罪組織も存在しています」
一呼吸置いて、フィークスが続ける。
「仮想空間で死んだ者は、現実に戻っても息を吹き返すことはない。選択の時だ。試験を受けるか、辞退して失格となるか、今ここで選べ」
その言葉が、空気の温度を変えた。
誰も動かなかった。意気盛んだった者たちでさえ、足が床に縫い付けられたように立ち尽くしている。
周りの出方を窺う視線が交差した。
——文字通りの、命がけ。
ルカが踏み出しかけた瞬間、その横をひとつの影が悠然と通り過ぎる。
アインだった。迷いのない足取りでルミタシアへと近づく。
「やはり、お前が一番乗りか。もうちょっとためらったどうだ」
フィークスが静かに言った。
「私が死ぬことなんて、万に一つもあり得ないわ」
振り返りもせず、アインはルミタシアに手を触れた。次の瞬間、その姿が青い光の中に溶けて消える。
「意外と拍子抜けだな。あんたのことだからもっと無理難題を出してくると思ってたぜ。俺たちを過小評価し過ぎなんじゃねえのか、主任教官殿」
エンジが片頬を上げた。
「言ってくれる。お前の言葉遣いを矯正できなかったのは、儂の数少ない汚点だな」
フィークスが低く笑う。
それを合図にするように、生徒たちがルミタシアへとなだれ込んでいく。
最後に残ったのはルカだった。
目を閉じた。息を吸い、ゆっくりと吐く。掌が、石の表面にそっと触れる。
光の中に、匂いがあった。
湿った土と、青い草と、どこか遠くを渡ってきた風の匂い。瞼を上げると、木漏れ日が揺れる森の中に立っていた。葉の隙間から差す光が、足元の地面にまだら模様を描いている。鳥が鳴き、風が梢を揺らす。ここが石の内側だと告げられなければ、幻に過ぎないと思うことはないだろう。
「すごいや。これが全部、数千年前の古代文明の力なんだなんて。まるで奇跡みたいだ」
「あ、やっときた。ルカ君、こっちこっち」
明るい声が木々の間から弾んできた。レーシェだった。
「レーシェ、みんなは」
「この先の森の出口。ついて」
しばらく歩くと、見知った顔がちらほら見え始め、やがて木々が途切れる。
開けた場所に出た瞬間、眼下に街が広がっているのが見えた。
煙突から煙が立ち、通りを人が歩き、遠く鐘の音が聞こえる。
石の内側に、ひとつの世界が存在していた。
その時、頭の内側に直接声が鳴る。
『あ、あ、聴こえるかお前たち』
フィークスだった。
『察しの通り、眼下の都市が試験の舞台だ。お前たちの身分は、現地駐在の隊員から要請を受けて派遣されたオーダーリロジア隊員ということになっている。試験終了まで、こちらから接触することはない。——試験開始だ。健闘を祈る』
声が、ぶつりと途切れる。
街からの風が、高台に立つルカの髪を揺らした。




