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信頼

土の壁の向こう側。エンジとレーシェは着地と同時に身構えた。

壁の頂上からふわりと降り立ったのは——バーダだ。

長身を微塵も揺らさず、まるで空気と親しいかのように着地する。


「風属性 初等理術——風撃」


腕を一振り。それだけで、圧縮された風の塊が弾け、エンジとレーシェは地面に叩きつけられた。

受け身を取って衝撃を散らすが、その一瞬で距離と有利はバーダの手に渡ってしまう。


「黒泳」


レーシェが影に溶けた。

漆黒が地面を滑る。

影の内側を泳ぎ、真横まで肉薄し——跳躍。双剣の切っ先がバーダの首元を狙う。


「残念。風撃」


バーダの掌から迸った突風が、レーシェの体を弾き飛ばした。


「影に潜って移動できても、攻撃の手段は近接に限られる。君じゃ僕には届かないよ」


バーダの声には棘がない。ただ、数学的な正確さで事実を述べている。それがかえって、剣呑だった。


「得意げに——それで勝ったつもり?」


レーシェは双剣の切っ先をバーダへと向け、鋭い眼差しでバーダを射抜く。

エンジが理術を発動した。灰色の煙が空間を満たし、視界が消える。


「風属性 初等理術——風乱(ヴェルリア・ゼファ)


バーダを中心として旋風が炸裂した。煙が払われる。


「これで分かっただろう」


バーダが静かに言った。


「君たちと僕の相性は最悪だ。勝ち目はないよ」


エンジが口の端を上げる。


「慢心は身を亡ぼすぞ。それと、教えてやるよ。勝ち筋は、自らで作り出すものだってことを——な。レーシェ」


エンジは自分の掌を、レーシェの顔の前に翳した。


「任せて、エンジ君」


レーシェの口元に、意味深な笑みが浮かんだ。

エンジは視線をバーダから外さないまま、地面へと手を向ける。


「邪属性 煙理操術——白煙満ちる表層(ルーエン)


今回、エンジが行使した術は違った。

煙は宙に舞い上がらず、地面に這いつくばるように充満する。密度が高く、重い。

まるで霧のように視界の下半分を塗り潰す。


「何がしたいのか、まるで読めないな——風乱」


旋風が再び炸裂した。しかし今度は——煙が晴れない。


「煙の密度を上げた。その程度の風じゃびくとしねよ。今だ、レーシェ」


「黒泳」


レーシェが影へと消えた。

バーダは即座に分析する。


「煙を濃くしただけなら、風の出力を上げれば済む話——」


旋風の強度を上げた瞬間、煙は散った。

すぐに周囲を見回す。影の移動を警戒して。

だが、奇襲の兆候がない。


(——まさか)


「なるほど」バーダの声が、僅かに変わった。


「あの煙の散布は、彼女を逃がすためか。僕に勝てないと判断して——他の二人の援護に向かわせたわけだ」


「ご明察恐れ入った。俺が時間を稼ぎつうことだ」


エンジが薙刀を構えながら、清々しいほど無遠慮に笑った。


「立場が逆転したな」


「相性が覆ったわけでもないのに、よくも強気でいられるな」


「俺は実際、お前よりも強い。それだけのことだ」


その高飛車な断言は、バーダの静謐な表情に、わずかな亀裂を入れた。


「人をおちょくるのも、いい加減にしろ」


「図星を突かれたくらいで、キレるなよ。優男」


エンジが踏み込んだ。正面から、一直線に。

迂回する気が微塵もない。


「愚かな——風撃」


突風が迸るその刹那。

エンジの影が、分離。


「なっ——」


影からレーシェが現れた。エンジが真正面からバーダの意識を釘付けにしていた、その盲点から。

双剣がバーダのがら空きの側面へと振り下ろされる。

痛みが意識を奪った一瞬——術の発動が揺らぐ。


エンジはその瞬間を見逃さなかった。薙刀の柄でバーダを弾き、追撃の刃を叩き込む。

二人の攻撃は止まらない。連打が、連打を呼ぶ。

バーダは防御に回り、優位は完全に覆った。


「この詐欺師め」


「はっ。もっとましな捨て台詞を吐いたらどうだ」


エンジが勝ち誇る。


「エンジ君。嫌みは控えめにね」


「こいつの意識から、お前の存在を消す必要があった。無意味に煽ったわけじゃねよ」


倒れているバーダに目を向けて言った。


「はいはい。そういうことに、しといてあげる」


レーシェが苦笑する。

あの時、掌に造られた煙の文字を思い返しながら。


——『俺の影に潜れ』


この一手こそが、勝負をひっくり返した。


「にしても、バーダへ間合いを詰めた瞬間に、俺の影から飛び出す。完璧な不意打ちだった」


「奇襲はあたしの十八番だからね」


レーシェが胸を張る。


「合流するぞ」


エンジとレーシェはこの場を去る。

瞬間の勝利に浸る気配は、もうどこにもない。



演習場の外れ、廃倉庫の骨組みが影を落とす区画。

アインはキナの猛攻を、紙一重で凌ぎ続けていた。


「誘い込む場所を間違えましたね、アインさん」


キナの声は穏やかだ。戦場には似つかわしくない、静かな確信がある。


「自身で生み出した植物だけじゃなく、周囲の植生まで操れるなんて——流石に誤算だったわ」


廃倉庫の壁を這う蔓が、まるで目覚めたように蠢き始めていた。


「植属性 初等理術——緑操(グロリア・ドライア)


建物の骨格を覆う蔓が、意思を持つ怪物のようにアインへと殺到する。

十数本の緑の鞭が縦横無尽に迫る中、アインは剣を旋回させながら切り開き、

一歩また一歩と前へ踏み出す。


——その足首に、異物の感触。


「ちっ——」


地中を這い進んできた蔓が、アインの足首を絡め取っていた。

すぐさま刃を入れて断ち切る。

しかし、その一瞬の停滞が致命的だった。


「チェックメイトです、アインさん」


気がつけば、蔓に囲まれていた。四方から迫る緑の壁。深緑の監獄だ。

アインは沈黙した。

外見上は静止している。

しかし剣の柄に手をかけ、抜刀の構えを取った。


この状況で——取るべきでない行動。


キナには、それが奇妙に映った。包囲を完成させながらも、次の術の発動に、わずかな躊躇が生まれる。


「え——」


自分の体が沈む。

膝が折れ、地面に叩きつけられる。痛みが、一拍遅れて届いた。


足払いをされたのだと、理解する前に——後ろを振り返る。


青い瞳が、自分を見下ろしていた。


「なぜ——あなたが」


ルカだ。


混乱する思考の中で、アインが動いていた。

刹那の隙。剣の峰がキナの首を打つ。


静寂。


キナは、伏せたまま動かなくなった。


「遅くなってごめん。地下通路抜けるのに手間取った」


「些細なことよ。いちいち謝るんじゃないわよ」


「エンジが言った通り、分断された時の合流地点を決めておいて正解だったね」


ルカが微かに微笑んだ。


「レーシェとエンジを待ちましょう」


「そうすべきだけど——」


ルカの眼光が、鋭く変わった。

次の瞬間、石礫が視界を埋め尽くす。

ルカが硬化した腕を翳し、全弾を砕く。礫の破片が舞い散り、その向こうに二つの影が立った。


「レアルド」


ミヨクが声を張り上げる。その眼に、もはや高揚はない。ある種の静かな殺意だけが残っていた。


「あんた、あいつ等を倒してこなかったの」


「君と合流することを優先したんだ」


四人が向かい合う。サダリがアインへと突進した。炎を纏わせた拳が炸裂する。アインは剣の腹で受け流しながら、反撃の切っ先をサダリの喉元へと突きつける。サダリが跳び退く。


「鬼ごっこはおしまいだ」


ミヨクが口角を上げた。

静止。四者が睨み合う、引き絞られた一瞬。


足音が、響く。エンジとレーシェが現れた。


「どうして——お前らが。バーダはどうした」


サダリが低く唸る。


「つまらねえことを聞くんじゃねよ。俺たちがここにいること自体が、その答えだろうが」


エンジはどこか愉快そうに投げ返す。


「二対四だ——ミヨク、どうする」


サダリが後退する。ミヨクの眼が、瞬時に戦況を計算する。


「アレをやる——俺に合わせろ」


「土属性——」


ミヨクの術が発動し、周囲に無数の岩が浮かび上がった。


「炎属性——」


サダリが炎を迸らせる。

岩の一つひとつが、たちまち灼熱の衣を纏い二人の声が、重なった。


統合理術(とうごうりじゅつ)——焦熱崩巌(イグペトラ)


炎を纏った岩塊の奔流が、四人を呑み込もうと殺到する。


「統合理術——いつの間に」


ルカが躱す。岩塊が背後の廃屋へと激突し、轟音と共に炎が広がった。

灼熱が空気を揺らし、爆炎の光が演習場を染める。


「アイン、エンジ——いくよ」


ルカが踏み出した。

怯まず。止まらず。

炎の雨の中を、真っ直ぐに。

アインとエンジが続く。


先頭を行くルカの身体に衝撃と灼熱が絶え間なく叩き込まれる。


「燃やし潰してやる」


ミヨクとサダリが確信した、その瞬間。


「あたしを忘れてもらっちゃ、困るな。ルカ君たちは陽動だよ」


レーシェが、ミヨクとサダリの足元から現れた。術の発動に全力を注いでいた二人の意識は、正面の三人に釘付けになっていた。気配を消して這い寄る影など、端から眼中になかった。


双剣が閃く。

術の出力が急落する。

ルカ、アイン、エンジが到達。


ミヨクとサダリが最後に目にしたのは——迫る三つの影と、その背後で燃え盛る炎だった。


「はー……疲れたよ」


ルカがその場に座り込んだ。

全身に鈍い痛みが走る。

石礫の直撃による打撲が、動悸の度に主張してきた。


「立てるか」


エンジが肩を貸す。


「ありがとう。助かるよ」


曇天の隙間から、薄い光が差し込んでいる。炎の残熱が漂い、煙の名残が蔓を描く。

勝利の余韻の中で、ルカはひとつのことを、静かに反芻していた。

多数を相手取るとは——こういうことだ。分断され、各個に追われ、一方で仲間の声も届かない中で、それでも信頼し、委ね、自分の役割を全うすること。


ルカは、今日その本当の意味を初めて理解したのかもしれない。

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