それでも、前へ
この課題を達成した班は、これまで一つもない。
そして——今日最後の班が、模擬都市へと踏み込んでいる。
「それは作戦か。あるいは、己の力量差すら測れない愚か者の独断、どちらだ」
フィークスの前に、アインは毅然と立っていた。
強者の気配に晒されても、彼女の何一つは変わらない。
視線も、呼吸も、足の重心も。
「あんたの足止め。それが今、私がすべき最優先事項よ」
「気でも触れたか。生徒同士の個人戦で無敗だからといってつけあがるなよ小娘」
「慢心も謙遜もしていないわ。力を制限して戦ってるあんたと私の実力。差があるとは思えない。それだけの話よ」
アインは静かに言った。
構えた模造刀の刀身に反射した光が、一筋の閃光を走らせる。
フィークスの掌に、青く冷たい水が輪を描き始めた。
「青刃輪」
放たれた水の刃が地面を滑り、加速しながらアインへと迫る。
アインは剣を一閃した。
接触した水の輪が四散し、飛沫が無数の光点となって宙を舞う。
アインは最短の軌跡でフィークスへと踏み込んだ。
「青穿」
フィークスの指先が、わずかに動いた。
次の瞬間、無数の水の針が空間を縫って走る。
一本一本は細く、しかし数百を超えるそれらが三次元の網を形成し、逃げ場を消していく。
アインは逃げなかった。
問答無用の正面突破。
剣閃が光の残像を残しながら、飛来する針を次々と打ち落としす。
その動きは守勢ではなく、攻勢だった。
防ぐことを目的とせず、消しながら進む。
「迎撃するか……面白い。ならば数で押し潰すまで」
青針が、倍以上の密度に膨れ上がった。
数本がアインの頬と肩を掠め、制服に赤い線を刻む。
それでも彼女は止まることはない。
進み続ける選択肢以外、彼女の中に存在しなかった。
アインは自身の間合いと到達する。
「無駄だ——水獄」
水の球体がアインを捕捉した。
次の瞬間——フィークスの全身に、悪寒が奔る。
背後の影が、動いた。
レーシェが姿を現す。
影に潜って移動し、死角を完全に制していた彼女の接近を、フィークスは察知できなかった。
しかしフィークスは、反射的に身体を翻し、攻撃を躱しす。
膨大な実戦経験が骨肉に刻み込んだ、思考を経由しない反射。
「あたしの本命はこっちよ」
レーシェの刃が、水の球体に掠る。
外部からの圧力に脆弱な水の檻が破裂した。
アインが、自由になる。
「それが狙いか——」
フィークスが水獄を再展開しようと腕をかざす。
アインの剣速が、それを許さない。
振り下ろされた模造刀がフィークスの肩を捉えた。
フィークスは、肩を押さえながら二人を見る。
その目に浮かんでいたのは、驚愕と、それを上回る賞賛だ。
「してやられた」
その言葉には、一切の棘がなかった。
老いた武人が、若者の一手を素直に認める——そういう種類の、飾りのない言葉。
「お前、わざと儂に捕まったな。そして、躱されることを前提とした奇襲。全てこの一撃を浴びせるためか。見事だ、これが実戦なら儂は死んでいた」
二人へと向けられた視線が、変化する。
監督者のそれから好敵手に向けるべきものに。
「どうやら、お前たちには、手心を加えてやる必要はなさそうだ。」
「水属性・高等理術——暴流」
解き放たれた濁流が、アインとレーシェを飲み込もうとする。
二人は瞬時に跳躍し、瓦礫が積み上がった高所へと飛び移った。
「どうするアインちゃん。本気になっちゃったよ、あの人」
レーシェが息を整えるながら話す。
その声音は緊張と、しかし奇妙な高揚感を孕んでいた。
「かと言って引くわけにいかない、応戦するわよレーシェ。作戦はこのまま、私が陽動、あんたが奇襲」
「了解」
フィークスが仕掛ける。
「水属性・高等理術——天水空路」
空中に構築された水路。
フィークスはその中に入り込み高速で移動する。
さらに水の道から圧縮された水の弾丸が放たれが、二人を襲う。
「前言撤回——いったん退くわよ」
「もう、襲い」
両人の間にフィークスが降り立つ。
向けられた掌。
「水獄」
アインとレーシェは囚われた。
夕暮れが、整列する生徒たちを照らす。
橙色の光は長く影を引き、瓦礫の街を金色に染め上げる。
その中で生徒たちはそれぞれの沈黙を抱え、フィークスの前に立っていた。
ルカは、自分の内側を振り返る。
「総括する。課題を達成した班は、一つもない」
フィークスの声が、夕暮れの空気を静かに割った。
皺の刻まれた顔に、感情らしい感情はない。ただ、長い歳月を経た者だけが持つ、静かな重みがあった。
「お前たちに足りないのは、才でも体力でもなく、極限の中で、最善を選び続ける胆力だ。」
「我々は時に命の選別をせざるを得ない状況へと陥る。」
聞き入る者達に戦慄が走る。
フィークスは、それを意に介さずに続けた。
「事態が刻一刻と変化し続ける危険地帯において、理想は無意味。正解のない場所で最善を尽くすこと。そして、悲惨な光景、目を背けたい現実に向き合い対処する冷静さが何より重要だ。」
一拍の間。風が、粉塵を運んで通り過ぎる。
「それでもなお、理想を貫きたいのなら、強くなれ。くだらない正論を打ち負かせるように」
フィークスの言葉が落ちた後、しばらく誰も動かなかった。
ルカの瞳の中で、何かが燃ゆる。
根源的な、熾火のような何か——それが、静かに、確実に熱を帯びていた。
解散の声がかかる。
「あの時は、悪かったな。偉そうなこと言って」
エンジが、口を開く。
紅に染まった太陽を背景に、二人は並んで歩いていく。
エンジの声は低く、少しだけか細かった。
「課題の達成にばかり目を向けすぎて、本質を見誤った。」
ルカは足を止める。
「君が謝ることは何もない」
静かに、しかし確かな重さで応えた。
「あの状況では、実際に君の判断が最善だったと思う。でも——どうしても譲れなかった。綺麗事と言われようと、これから先も変えない。それだけだよ」
重い空気が二人の間に漂う。
「あなたたち、らしくないんじゃない」
明るいレーシェの声が、空気を軽やかに割った。
「たった一度の失敗で、そんな顔をして。似合わないよ」
「お前の図太さが、心底羨ましい」
エンジが、ため息交じりに言った。
「ふーん、皮肉を言う元気はあるんだ。なら、あとは」
レーシェはいたずらっ子のように笑い、エンジへと近づいた。
両手でその頬を掴み、無理やり口角を押し上げる。
「なっ——何するんだよ」
「笑顔を作ってるの。へこんだときはね、とにかく笑ってみるといいんだよ、エンジ君。顔が先に動くと、気持ちが後からついてくるから」
「あはは——エンジ、すごい顔」
ルカが笑った。声に出して、盛大に。久しぶりの感覚だった。
「何をやってるのよ、あんたたち」
アインが、呆れ顔で後ろにいる。
「アインちゃん!」
レーシェが嬉しそうに振り返った。
「しょぼくれた男の子たちを励ましてたんだよ」
「落ち込むことは、悪いことじゃないわ。自分と向き合ってるってことじゃない」
ルカは、少し不思議そうにアインを見つめる。
「なによ」
「アインも、そういうこと言うんだね。もっととげとげしいことを言われると思った」
エンジがからかうように口の端を持ち上げた。
「だな、冷徹女の癖に、気の利いたことを言えるじゃないか」
「私をなんだと思ってるの」
「そうだよ二人とも。アインちゃんは、とってもいい子なんだから」
レーシェが誇らしげに胸を張る。
「ぶん殴るわよ、あんたたち」
「ルカ君、エンジ君——逃げるよ!」
三人が駆け出す。
走りながら、ルカは気づいた。
いつの間にか——胸の奥に立ち込めていた黒い霧が、跡形もなく消えていたことに。
それがいつ消えたのか、正確にはわからない。
レーシェの笑い声か、それともエンジの不器用な謝罪か、
はたまたアインの、照れ隠しのような一言だったのか。
あるいは、そのすべてが重なった、あの瞬間だったのかもしれない。
夕日が長く、四人の影を地面に伸ばしていた。




