日常という名の祈り
オーダーリロジア隊員育成校に、ささやかな休日が訪れていた。
第3生徒寮709号室。
整頓されているわけではないが、雑然ともしていない。
人が確かに息をして、笑って、眠っている——そういう生活の体温が滲み出た部屋だった。
「エンジ、僕の特訓に付き合ってよ」
ルカがベランダの物干し竿に衣服を掛けながら問いかける。
指先で布地の皺を伸ばす、その何気ない仕草にも隙がない。
「悪いが無理だ。一人でやってくれ」
エンジは視線を手元の書から微塵も動かすことなく、どこか遠くの空気に向かって喋るように言い放った。
「何か予定でもあるの」
「書庫に用がある。借りっぱなしの本が溜まってるんだ」
ルカは乾いた上着を羽織り、軽い足取りで部屋を出る。
残されたエンジは分厚い書籍を数冊、革鞄に丁寧に収めながら、廊下へ消えていく背中を一瞥。
何も言わなかったが、その目には微かな、気遣いとも呼べない程度の温度があった。
第九演習場。
鉄扉は、重厚な金属音を立てて閉まった。
鉄柵の向こう——深い森が広がり、その奥には巨大な絶壁が空を断ち切るように屹立している。
柵の脇に建つ小屋の森番に軽く会釈して中へ踏み込んだルカは、足元の土の感触が変わった瞬間、静かに息を吐いた。
何度来ても、不思議な感覚がある。
生い茂る木々が頭上で絡み合い、渓流の声が低く遠く響く。
校舎の喧噪はすでに遠く、自分が今も学校の敷地内にいるのだという事実が、感覚の層の奥底に押しやられている。
だが、ルカは迷わない。
幾度も踏み固めた道筋が、足の裏に刻まれている。
目的の場所は、すぐそこだ。
赤茶色の剥き出しの岩肌が、垂直に空へ向かって聳えている。
その一角だけ、明らかに不自然な窪みが穿たれていた——周囲の岩面とは不釣り合いなほど深く、鋭く抉れた痕跡。
誰かが長い時間をかけて、少しずつ削り取っていった場所。
ルカが削り取った場所だ。
「硬化」
低く、ほとんど呼気に近い声で呟き、右腕を突き出した。
衝撃が岩肌を伝播し、鈍い爆音が森の静寂を引き裂き、木々の間を反響して消えていく。
間を置かず、左。また右。また左。
同じ動作を、機械的に、しかし確かな意志を持って繰り返す。
「硬化範囲の拡張と、持続時間の上昇……当面の課題はそこか」
自らの拳を凝視しながら独り言ちる。
皮膚の表面にうっすらと浮かぶ変色——それが彼の能力の痕跡だった。まだ足りない。範囲が狭い。
時間が短い。そして何より、咄嗟の局面で意図した通りに発動できるかどうかが——再び始めた。
夢中とは、こういうことをいうのかもしれない。
思考が凪いで、身体だけが動いている。岩と拳と衝撃と音、それだけが世界のすべてになる瞬間が、ルカは密かに好きだった。
何も考えなくていい、ただ削ることだけを考えていられる——
「ルカ」
聞こえなかった。
「ルカってば」
二度目の声で、ようやく現実に戻もどる。
ルカは身体ごと声の方向へ向いき、そして——固まった。
アインが、立っていたのだ。
彼女は少し離れた場所に立ち、特に驚いた様子もなく、ただ静かにルカを見つめていた。
その佇まいには乱れというものが存在しない。
涼然として、凜として、ともすれば近寄り難いほどの静けさをまとっている。
普段のルカであれば、そういう彼女の立ち姿に、しばし見惚れることを自分に許しただろう。
だが今は——そんな余裕が、どこを探してもなかった。
まずい、と思った。
人がいれば、声をかけられる前に一呼吸置いて、平静の仮面を、間に合わせることもできただろうに。
アインに——よりにもよってアインに、こんな場所で不意に出くわすとは。
誰も来ない場所でアインと二人きりなってしまう。
「え、アイン、何で——ここに」
取り繕おうとした台詞が、呆気なく崩れた。
心臓が不規則に収縮している。顔が、耳が、首の後ろまでが熱を持っている。
「私もたまにこの演習場を使うの」
アインはルカの動揺を気にも留めず、ゆっくりと歩み寄ってきた。
「聞き慣れない音がするから、音源を辿ってみたら——あんたがいた」
一歩、また一歩。手を伸ばせば届いてしまうような距離で、彼女は立ち止まった。
柑橘系の涼やかな香りの奥に、甘さが混ざっている。ルカの胸の内で何かが激しく跳ねた。
「手、見せなさい」
「え——な、何で」
「いいから、早く」
有無を言わせない静かな命令だ。
ルカはおずおずと両手を差し出しす。
岩を打ち続けた結果がそこにあった
——皮が剥け、滲んだ血が乾きかけ、関節のあたりが不自然に腫れている。
我ながら、酷い有様だと思う。
アインは眉をわずかに寄せた。それだけで、何も言わない。
白い包帯を取り出して、ルカの指へと慎重に、丁寧に巻き始めた。
その手つきには練達の痕跡がある。
「……ありがとう」
「気にしなくていいわ。私もよく手を傷めるから、常備しているだけ。あとで医務室へ行きなさい」
柔らかい声色だった。
いつもの凜とした響きの芯はそのままに、その輪郭だけが僅かに丸くなっている。
不思議なことに、その声を聞いていると痛みが引いていくような気がした。
包帯を結び終えたアインは、ルカを真っ直ぐに見つめる。
「あんた、時々危うくて見ていられないのよ」
断定だった。非難ではなく、観察の結果として告げられた言葉だった。
「何が、あんたをそこまで駆り立てているの」
問いに含まれているのは責めではなく——純粋な、真摯な問いかけだった。
ルカは少しだけ黙った。答え方を考えたのではない。答えは最初からひとつしかなかった。
「守りたいものが、あるんだ」
「それって、いったい」
「日常だよ」
風が、木々の間を抜けた。
「笑って、泣いて、怒って——当たり前の、取るに足らない、何気ない日常。誰かが誰かに怒っても、次の日には笑ってご飯を食べているような。そんな日々を守りたいんだ」
アインの目が、わずかに見開かれる。
口元に何かが灯った——笑みとも言い切れない、感情がそっと浮かびかけるような、柔らかい変化。
その表情の熱がルカの胸まで届いてきそうで、ルカは思わず目を逸らしかけた。
しかしその直後、陰りが差す。
アインの瞳の奥、表面の穏やかさの下に何かが沈んでいくのが——ルカには見えた気がした。
見えた気がしたが、確かめる術はない。
アインの指が、ほんの一瞬、首元のネックカバーに触れる。
沈黙が数秒、流れた。
「アイン——」
「何でもないわ」
遮るように、しかし荒々しくなく、彼女は言った。
「少し、昔のことを思い出しただけ」
それ以上は語らない。
代わりに、腰に吊るした鞘から刃のない剣をすらりと引き抜く。
構えをとった彼女の姿は、ついさっきまでとは別の人間のように見えた
——いや、同じ人間が別の面を見せている、というべきか。
「付き合ってあげる、あんたの特訓に」
軽やかな声だった。しかし隠しきれない嬉しさが、その言葉の縁から溢れていた。
「いきなり——さっきまでは」
「手当てくらい、またしてあげるわ。私から行くわよ」
「ちょ、待っ——」
返事を待つ気は最初からなかったらしい。
それから、午後の日が傾くまで、二人は森の中で鍛錬を続けた。
天井近くまで聳える書架が、迷宮めいた通路を形成している。
独特な古紙の芳香と乾いた木材の匂いが層をなして漂う書庫の中、エンジは縦長の閲覧机の端に陣取り、黙々と頁を繰っていた。
傍らには三冊の論述書が積み重なり、手元の白紙には細かい筆跡が几帳面に連なっている。
周囲の静寂を乱すのは、硬筆が紙面を走る音だけだ。
「あれ、エンジ君」
その静寂を、遠慮なく蹴破る声があった。
エンジは筆を止め、顔を上げる。
「レーシェか。珍しいな、ここで会うとは」
「この前の筆記試験、落第しちゃってね」
レーシェは特に恥ずかしがる様子もなく、事実を事実として報告する調子で言った。
「勉強しに来たの。……その本、理術工学の論述書じゃない」
エンジの手元に視線を落とし、僅かに目を細める。
「理術工技士の資格でも取るつもり」
「取っておいて損はないと思っただけだ」
「……世界協連が公認している資格よ。取得難易度は最上位の部類に入る。それを『損はない』の一言で片付けるのね、あなたは」
「まあな、俺は天才なんだ。これくらい片手間でできる」
レーシェの表情が、わずかに引きつった。
「…………」
「なんだその反応は」
「いえ、別に」
間をおいて、レーシェは口元を一度引き結んでから、真横に腰を下ろす。
「一つだけ聞いていい。本気で言ってるの」
「勿論だ」
「……。天才じゃなくて、救いようがないだけだと思う」
「独創的で興味深い意見だな」
「あなたって、ほんと」
エンジは特に気にした様子もなく、再び頁へ視線を戻した。
レーシェはしばらくその横顔を眺め、それからため息をひとつ。
呆れと、どこか憎めない感情が混ざったような吐息だった。
「……ねえ、ここ教えてもらえる。どうしても解けなくて」
手元のノートを広げ、詰まっている箇所を指で示す。
「おい、返事くらい聞けよ」
「お願い、エンジ君」
一言で封じられた。
エンジは軽く息を吐いて、レーシェのノートに視線を落としす。
数秒。
それだけで、どこが根本的な誤解なのかを掴んでいた。
「ここの前提からして間違っている。そもそも——」
教え方は明快だった。
回り道をせず、本質を掴んで言葉にする。
難解な概念を嚙み砕く時も、相手を見下すような色がない。
ただ、構造を見ている。
それがエンジという人間の、才能というより習慣だ。
時計の針が夕刻を指した頃、レーシェが顔を上げた。
「今日は、ありがとう、エンジ君。おかげで霧が晴れた気がする。また頼んでもいい」
「ああ、いいぜ」
エンジは、書を閉じながら、ごく自然な調子で付け加る。
その直後、レーシェの肩に手を這わせた。
「なんなら今夜、二人きりで——」
「それは、遠慮しておくよ」
満面の笑みを浮かべるとレーシェは、迷わず肩に置かれた手を力強く抓み上げる。
第2生徒寮の一室には、果実の甘い香りがかすかに漂っていた。
清潔な気配が室内を包み、調度品のひとつひとつに主の美的感覚が滲んでいる。
レーシェは湿り気を帯びた髪をタオルで丁寧に押さえながら、窓の外を何となく眺めていた。
「遅いな、アインちゃん」
同居人の帰りが、今日はやけに遅い。
心配というほどでもないが、気にならないというほどでもない。
——そういう程度に、部屋の静けさが気になっていた。
扉が、静かに開く。
「おかえり。お風呂、沸いてるよ」
「そう。助かるわ」
「アインちゃん、何かいいことでもあった」
「……別に、どうしてそう思うの」
「なんとなく、嬉しそうだったから」
アインは答えなかった。
ただ、その沈黙は否定ではない。
こうして、何気ない一日が過ぎた。




