第10話②:自由、いや、そんなんじゃないけど
神殿内の段差に足を踏み入れるまであと数歩。先頭を切って歩く睡方をいつの間にか追い越していたタプが、透明な壁に体を激突させる。その一方で彼はそこを難なく通り抜けることが出来た。九華は首を傾げる。どうやら神殿の敷地内外を隔てる境界に、結界のようなものが道を塞いでいるらしい。試しにカムイが助走をつけて体当たりをしてみるも、反動そのままに跳ね返され、後退りする。
「どうやら、本物の神様以外は無理みたいだね」
雲上に置かれたチトセがあっけらかんとした表情で、言葉の後に口笛を付け加える。行きあぐねている部員達に、カムイが黒鉄の鎧の中から冷たくこもった息を吐く。
「俺たちはここで待ってる。何か必要になったら、また伝えに来てくれ」
彼の言葉に後押しされるようにして四人は向かい合って頷き、睡方、由依、想汰が順に結界を越えていく。すり抜けた彼らの体はこちら側から見えない。
神殿を前にして、一人残る。九華はカムイに背を向けたまま足を止めていた。深呼吸をし、もう口など付いていない真っさらな腹を上下させる。
「どうした?」
エコーがかった、でもそれは確かな兄の声。彼女は振り返り、わざと彼の顔より少し下気味の場所を向きながら。
「あり……がとう。これまで色々、心配してくれて」
陽光に反射して、無機質な金属の表面が脈を打つように光る。言葉を受け、微動だにしない黒鎧。沈黙が恥ずかしくなってすぐに立ち去ってしまおうと彼女は僅かに足を動かす。直後。眼前の重々しい甲冑が機敏に動き出し、落ちているチトセの頭を掴む。
「すまん」
「え?」
その瞬間、カムイは腕を大きく振りかぶってチトセの頭を遠くへ投げた。
「おわっ────」
断末魔も半端で、放物線を描いた先生は視線の彼方で雲に跳ねた。カムイは両腕を揺らして力を抜くようにし、それから再び彼女の方へと向き直る。
「もう、心配なんかしてないさ。今のお前は、一人じゃないんだろ」
甲冑で太くなった剛腕を組み、バツが悪そうに顔を横に向ける。その仕草がまるで鏡に映る自分みたいで、思わず笑いが口から漏れた。
「何笑ってんだよ」
「別に」
「ふっ、相変わらず可愛くねぇな」
「あんたも昔から変わらないわよね、ほんと。そういうぶっきらぼうなとこ」
「……別に、って。あ……」
思わず手で口を押さえた彼を見て、また吹き出す。それにつられてカムイも笑みを漏らす。その巨躯に見合わぬ、優しく、そして恥ずかしそうな声色だった。
短くない間を置いてから。九華は彼の顔を覆う面具に視線を向け、その下で浮かべているはずの表情を頭の中で想像してから口を開いた。
「それじゃ、行ってくる」
「ああ」
透明な境界に向かって足を踏み出し、体を沈み込ませてふと思う。
自分の背中は彼にどう見えていただろうか。子供の頃よりも、少しはたくましく見えただろうか。
彼女は歩き出した。先に行った三人の姿が見えて、小走りになった。
神殿内に入ると、その大きさにようやく実感をし始めた。いくら太くても四本の柱で支えるには、正直頼りないほどの巨大な骨格。以前に想汰の社を訪れた時、広々としたエントランスをまるで五十メートル走のレーンと同じくらいの長さなどと例えてみたが、今回はまさしくその二倍ほどの長さ、直線で百メートル弱はあると思われる。柱の高さも、九華の身長のもう十倍ほど。よりによって壁などの類は一切無く、余計に広く感じる。四方と天井が吹き抜けているため、青空が澱みなく神殿内に入ってきており、開放感というよりはもう空と融合しているような建造物だった。神殿の軽い段差を上り、不気味に綺麗な大理石の床を進む。足裏にしんと冷たさを感じる。
「思い描く神殿のイメージそのまま、といった感じだ」
想汰が呟いたのを筆頭に、四人が辺りを見回す。外の空間と完全なる一体化を果たしたそれは、世界の全てが神殿内であるかのようでもあった。
やけに背もたれが天に長く伸びている玉座じみた椅子を通り過ぎ、中心に置いてある机に到着。ツカイが言っていた通りの本が机上に置いてあるのを発見する。
「あ、あれが『しなんしょ』ってやつじゃない?」
由依が指を指したのに遅れて、睡方が机の付近に視線をずらす。
「それもそうだし、なんか色々あるぞ……」
机を挟んで反対側の地面には、何やら卓上型の丸鏡。それも中学生にしては高身長である由依の体躯を優に超える鏡面のサイズだ。日光に照らされ、真鍮で作られた表面が黒ずんだ金色を艶やかに蠢かせる。その隣には、錆びれた金属製のポスト。またのその隣には別の机が置いてあり、その上には、積み上がったメモ用紙の山、ガラスペンとインク壺。
「ひとまず本を確認しよう。そこに説明が載っているんじゃないか?」
「そうしてみた方が良さそうね。みんな、集まって」
四人が正方形の机の一辺に集まる。机上の中心に本が置かれているため、手を伸ばして取ろうとするが届かない。神様サイズの机、という感じだ。九華は上半身を乗り出してそれをなんとか指先で掴む。
見ると、ハードカバーの表紙に書いてある金文字に瞳孔が開く。
『Opera Dei fundamentalia』
九華は思わず目を擦る。すると文字が端々から歪み、異なる文字列を形成する。
『神における基本的御業事項』
ページを捲ってみる。中の文章もラテン語で書かれており、それが目を向ける度に読める言葉に変化していく。どのページも等しくそうだった。九華が本を持ち、他の三人は覗き込むようにして読み進めていく。捲る度に古紙特有の枯れた匂いが鼻を撫でる。図もある程度盛り込まれているため文字の多さで圧倒される感覚は無く、思っていたよりはすらすらと読み進めることが出来た。そして読み進めていくうちに本当に少しずつだが、この場所の多種多様な仕組みが分かってきた。
「で、その机の下にボタンがあるらしいんだけどどうかしら?」
本に目線を向けたまま、九華は机の下でしゃがみ込んでいる睡方に声をかける。彼は四つん這いで進みながら頭を上に向け、記載されていた『ボタン』を探す。どうやら元々指南書が置いてあった机の裏側にあるらしかった。覗き込んでみると、睡方が足を止めているのが見えた。
「どう? 見つかった?」
「多分、これ……か。押していいのか?」
「やってみなさい」
睡方が机の裏側のボタンを押し込むと、突如機械的な轟音が天界に鳴り響き、神殿の床が一時的に揺れ出した。すると、神殿の外に続く雲海に雲間ができ、その下から縦長の本棚がせり上がってきた。それも一挙に五個が間を開けて横並びに、そしてそれだけでは終わらず、その一つ一つの列の奥にも次々と新しい本棚が出現していく。とっくに地平線まで達したように見えるそれは、その後も駆動音の残響を数十分響かせ続け、たったひと作業で天界に書斎を創造した。
「あれが、いわゆる『記録の本棚』らしいわ。あそこにある無数の本を資料として使って仕事をこなせ……的なことだそうよ」
「おーすごーい! めっちゃ遠くまで続いてるよー!」
由依がおでこの前に手をかざし、興奮させながら体を前傾させる。
「ねえねえ、見に行こうよ!」
「いや、後でだ」
「えーいいじゃん。想っちのケチー」
「僕はさっきからあの鏡が気になって仕方ないんだ。部長、あれについては?」
「それは……あ、丁度次の章がそうみたい」
睡方が机の下から這いずって戻ってきたのを確認し、四人は大きな卓上鏡の前へと移動する。
九華がページ上の文字を人差し指で追いながら。
「えー、この鏡は通称『現実鏡』です。これは現実世界の様子を映し出す鏡で、隣の『天啓ポスト』に現実世界へ起こしたい現象を書いて投函すると、五秒後にそれが実行されます、だって」
「なるほど。ということはここに映ってる景色は、以前僕たちが暮らしていた現実世界そのものというわけか?」
本の説明通り、鏡の前で手をスライドさせるような動作を行うと、連動して鏡面に映る景色も移動した。二本の指で間を狭むような動作を繰り返せば、ズームアウトの末に地球の表面が鏡面に映され、逆に広げればズームインとなり道路の側溝の中まで確認可能、と見る範囲を自由自在に操ることも可能であった。
「ねえねえ、じゃあこれで芽留奈のとこ見に行ってみようよ!」
由依の要望に、九華は手を動かす。俯瞰で見た日本地図の確かこの辺だろうとズームしていき、細かく調整しつつ故郷の芽留奈市の郷土に辿り着く。時間は夕方で、街には雨がしとしとと降っていた。見慣れたはずの景色でも、空中から俯瞰して見るとまた印象が違う。
画面を動かしていると、見覚えのある家が目の前を通る。実際に見たことはないが、それは創界で見た社と酷似していた。
「あ、これあんたの家じゃない?」
声をかけられた睡方が鏡面を覗き込む。
「……ほんとだ。じゃあ晴滝中も近いんじゃないか?」
「すぐそこね。これ、建物の中も見れるのかしら」
「あ、ちょっと待って!」
二本指で画面を動かそうとしたところで、由依が呼び止める。彼女が指で示す場所を見ると、路地を歩く一人の老人の姿が映っていた。そこまでの豪雨ではないとは言え、傘もささずにタンクトップと半ズボンの軽装。目立つ格好だが、それよりもその顔にどこか見覚えがあった。
「この人、ツカイさんじゃない?」
由依に言われて、点と点が線になる。そうだ。この額に集まる怪訝な皺の数々。
「あ〜、今日は何もない一日じゃったの〜」
天を仰ぎ、ポケットに手を入れながら歩く彼の呟きが鏡面を通して響く。声を聞いて確信する。間違いなく、彼だ。九華は目を見張る。
「た、確かに……」
「でも、もう背中に羽も生えてないし、頭の上に黄色の輪っかもないぜ」
睡方の指摘に、想汰が答える。
「恐らく彼は地上にいた頃の元の人間の姿へ戻ったのだろう。ほら、僕たちも本来は四人の中の誰かが神になり、それ以外は現実世界へ戻ることとなっていたじゃないか」
「そういう……ことでいいのか。じゃあその理論だと……今のツカイは天界にいた頃の記憶とか全部忘れちまってるってことだよな」
「あ〜、スーパーでも行って、また寝るか〜」
鏡一枚挟んでも伝わってくる蕩けた口調が、雨音に混じってぼんやりと消える。
「まあ、そうでしょうね……」
強く息を吐くのと一緒に、九華は発した。ほのかな寂寥感が一瞬場を包む。
同時に、なんだか嫌な予感がした。画面を移動させる。先ほど話題に上がっていた自分達の母校、晴滝中学校を捉えると、自分が所属していた2-3の教室に向かってズームしてみる。校舎の壁、続いて教室の壁をすり抜け、クラス内の様子が映る。整頓して並べられた机と椅子。その一式には隙間なく生徒が座っていた。そして生徒の視線が向かう先は等しく、教卓に立つ先生。長髪を靡かせ、黒板の半分ほどの背丈の女性教師がバインダーを片手に。
「それじゃあ、今日のホームルームを始めるわね。まず明日の連絡なんだけど、」
「尾崎先生じゃ……なくなってるな」
「……そうね」
睡方の呟きに、九華は眉をひそめつつ静かに頷く。座り込む生徒の面々は、見覚えしかない馴染みのクラスメイトのみんな。だが、尾崎先生がいないその教室に疑問を持つ者は天空から見据えている二人以外に誰もいなかった。そして、本来なら九華と睡方が座っていたはずの座席には、見たことのない小柄な生徒が二人、隣り合って座っている。
「……そうよね。私たちって、最初からいないことになってるのよね……」
九華は口を細め、おでこにツンとした痛みを感じる。天界の記憶を持つ者は、地上には存在しない。反対に、地上にいる者は天界の存在を知覚することが出来ず、もし以前に会っていたとしても今天界にいる者のことは記憶から抹消される。
背後で立ち尽くす想汰と由依もまた、自分たちの運命を悟るように黙り込んでいた。指を動かし、隣のクラスの2-4の中も覗いてみる。案の定、彼らがいたはずの席にもまた見た事のない生徒が平然と着席していた。
学校からズームアウトし、芽留奈の風景に戻った時、九華は自分の家が鏡面の端にふと見えたのが分かった。だが、彼女は指で画面を動かし、その家を画面外へと追いやった。
怖かった。自分や兄が最初からいなかったことになった、家族の姿を見るのが。例えそれが幸せに包まれた団欒の様子であったとしても。世界の修正力によって自分たちの代わりに置換された、別の子どもたちと日々を楽しんでいる姿だとしても。
私は自分でこの選択をした。だから、今更粘着性のある後悔を胃の中で煮立たせるようなことはしたくなかった。なのに。
柏手を打つ。四人の中で静かに張り詰めた空気が、手の中で爆ぜた気がした。
「とりあえず! 一度、そのポストを使ってみましょうか」
わざといつもより高い声色で言い放った。項垂れ気味だった由依が顔を上げる。
「……そ、そうだね九っち! じゃあ、ウチ、最初やってみたい!」
「いいわよ。と言っても、まずは小手調べと行きたいところよね。あんまり壮大にしすぎたら何が起こるか……」
思案する四人の中で、一番初めに睡方が顔を上げる。
「それじゃあ天気を晴れにするとかは? ほら、丁度雨降ってるし」
「いい塩梅かもしれないな」
想汰が顎から手を降ろす。九華も首を縦に振り、本を片手に由依をポストの前に誘導する。もう一度、ページに視線を下ろし。
「えっと、まず実行したい天啓を頭の中で一度明確に想像してください、ですって」
「想像ね〜。えーと……晴れだから、太陽がぴっかぴかで〜、日光が体に当たって〜」
「で、それが出来たら机の上に置いてあるペンを使って、紙に天啓の内容を明確に書いてください、と書いてあるわ」
「おけおけー。そ、し、た、ら〜、」
積み上げられた紙の山から一枚を剥がし、由依がガラスペンにインクをつけ、文章を書いていく。
「じゃじゃーん、できました〜!」
芽留奈市の天気が晴れになりますように。
丸文字で書いてあるその文字列は、名前を伏せても由依と分かるような字面であった。まだガラスペンには慣れないようで文字が掠れる部分もありながら。
「そしたら、それをポストに入れてみて。で、入れてから五秒後にそれが起きる……らしいわよ」
「ほーい。じゃあ、入れてみるよ〜」
由依の白く長い指が、青く錆びたポストに紙を投入する。底に落ちた音はせず、そのまま四人は鏡面の前に戻る。先ほどよりも強くなり、ざあざあと降り頻る雨。黒雲がその色を濃くしている。
「五、四、三、二、一……」
由依が零を言い終わる前。あまりにも唐突に雨が止み、淀んだ色の雲は迅速に流れ出した。雲間が開き、陽光が差してくる。路上の水溜まりに青空が反射し、学校の裏山には虹も架かっている。
「おお、すげえ」
「すごーい! 本当に晴れになったー!」
声を出す睡方と由依を横目に、九華は指先を無意識に痙攣させた。この力は、本物だ。自分が神様になったと自覚するには、十分すぎる力。それゆえに強大すぎる責任を今、負った気がした。震える手は、怯えか、それとも武者震いか。それを決めるのは、もっと後になると直感で思った。
そんな思考を深めている間。沈黙を続ける想汰が後ろから鏡面に近づき、画面を少しだけ動かしていた。見ると、近くの地域の上空にはまだ黒雲が渦巻いているのに、芽留奈の周囲だけは不自然なほど満天の青空に包まれているという光景が映っていた。彼はその様子をじっと注視し、再び顎に手を置いていた。能力に感動する他の二人の近くに佇む彼のそんな様子が、九華はどこか引っかかった。
鏡面の景色を指で移動させながら、睡方は振り向く。
「これってさ、知らない人の家の中とかも……見れんのかな」
座りながら本を見返している九華は、その質問に腕を組んで鋭い眼光を返してくる。彼は焦ったように苦笑いをしつつ、言葉を続けた。
「いや……! 別になんかそういうんじゃなくて……ほら、神様の力ってどこまで出来るんだろうなって……!」
過剰に泳ぐ彼の目に、九華はため息を溢した。想汰と由依が本棚を散策しに少し遠くへ行ったからこんなことを言い出したと思っているのだろう。
「ほどほどにしときなさいよ」
ぶっきらぼうに返されると、彼女は膝に乗せている本のページを再び捲り始めた。
「分かってるよ……。それぐらい」
口を尖らせつつ、鏡面にかざした指を動かす。芽留奈よりは幾許か発展した都市部の街並みを堪能しながら、適当な一軒家を選び、その家に向かって人差し指と親指を広げてみる。画面がズームしていく。モダンな外装をすり抜け、中の様子が見えた。清潔感のあるダイニングキッチン。広さは子ども含め三人暮らしなら不足無い程度。そんなことがすぐに思いつけたのは、リビングに父親と思われる男性、母親と思われる女性──双方同年代の雰囲気だ──、そして五歳程度の彼らの娘であろう子どもが集まっていたからだ。だが、それは決して円満という雰囲気では無かった。
騒がしくなってしまうからという理由で、九華が鏡面の音量を零にしてしまったため彼らの声は聞こえてこない。にも関わらず、両親同士の表情が強張っているのと口の激しい動きにより、言い合っているのだと鏡越しでも即座に理解できた。娘は涙ぐんでいる。音量操作メニューはどこだったかと睡方が手間取っていると、口論は次第にヒートアップし始め、母親が近くにあったリモコンを父親に投げつける。加えて、その後に母親が追撃のように喰らわした何らかの一言を受けた父親が、糸を切れたように顔を俯かせた。
睡方は額に汗を垂らした。どうなるかと思った矢先、父親はおぼつかない足取りでキッチンへと移動する。呼び止めているであろう母親を無視し、彼が次にリビングに戻ってきた時は右手に包丁を持っていた。ついに激しく泣き出す娘。母親が緊迫した表情で娘を抱き上げ、向けられた刃先に体を震わせている。父親の目にはもはや正気は無かった。彼女へと静かに近づいていく。
「これは……まずいぞ。九華!」
振り返って言うと、本に顔を向けていた九華が顔を上げる。
「何よ」
「見ろよこれ!」
彼女が鏡面に視線を移す。すると、すぐに顔色が変わり、本を持ったまま急いで立ち上がって駆け寄ってきた。遅れて椅子が倒れた音がした。
「ちょっとこれ……!? どうなってるのよ!」
「わかんない! なんか喧嘩みたいになってて、そしたら……ああ!」
父親が包丁を振り翳し、避けた母親の隣を掠める。恐怖に怯えつつも娘を守ろうとする母親の眼光が強く彼へと向けられる。しかし、父親は本気だった。怯むことなく、包丁を握る力を強めていき、腕を震わせる。
「やばいやばいやばい……! このままじゃ殺されちゃうじゃない!」
「でも……どうすれば……。こういう時、どうするか本に書いてないのかよ!」
九華は思い出したように、指南書の後半部分のページを捲る。
「そういえば! こういう、人間が悪事を起こした時には、『倫理』の本棚のNo.187を参照したら良いって、確か……! あんた、ちょっと取ってきて今すぐ! 私、ここ見てるから!」
「わ、分かった!」
勢いよく走り出し、遼遠に見える本棚のビル街へと必死に足を動かした。瞬間、背中の羽が開き、驚異的な速度で全身が押し出される。
「うおっ!?」
体が空中で一回転するも、歯を食いしばり腕で重心を操作する。頭の中に浮かんだ滑空のビジョンが自分の中にすぐに投影され、睡方は羽ばたき、空を駆け抜けていった。いわゆる勘の良さは健在で、『頭』の能力はどうやら失っていなかったらしい。とにかく今は緊急事態だ。余計なことを考えずに立ち並ぶ本棚の近くへと着陸し、該当の棚を探す。
五つ並ぶ本棚は左から、『文明』『自然』『諸学問』『闘争』『倫理』にそれぞれ分類されていた。それらの中で一番右端に聳える『倫理』の棚を奥に進み、三つ目の棚の前に来ると、丁度想汰と由依もそこで話していた。
「おー! 睡っちどしたー?」
「187! 187番の本は!?」
気迫のこもった声に狼狽える二人。想汰が冷静に答える。
「No.187は、僕が今持ってるこれだ」
「それ貸してくれ! これが今すぐ必要なんだ!」
想汰は悟ったように、持っていた本を睡方に渡しながら。
「何が起きてる?」
「俺の後に付いてきてくれ! 見た方が速い!」
言葉が余韻を残す頃には、翼を広げた睡方は走り出していた。そのまま滑空し、神殿の中へと飛び込んで降りた。後から追ってきた二人も着地し、鏡面の様子を見る。睡方は貧乏ゆすりをしている九華に持ってきた本を渡した。
「まだ、間に合う……! ええっと……」
貰った本を乱暴に弾いてページを捲りながらもう一つの指南書とそれを交互に見やり、該当箇所に辿り着こうとしている。鏡面には、腕に加えられた傷から血を流している母親の姿があった。九華が音量設定を戻したのか、悲痛な叫びが聞こえてくる。
「あなた……私が悪かったから……! だからもうやめて!」
「…………」
もはや恐れの感情を飛び越え、我が子を守ろうとする親としての顔。頬の傷が血の涙を流す。一方で無言を貫く父親も、まくった袖から腕に打撲の跡が見えていた。母親と揉み合ったのだろうか。それとも、もっと前から付いていたものなのだろうか。
想汰と由依も、事態をなんとなく把握した。母親は家の壁にもたれて座り込み、逃げることはほとんど叶わない状況でただ娘を抱きしめ続けている。壁に追い詰めた母親の元に父親がのっそりと近づき始め、刻一刻と起きてはならない結末への終末時計の針が着実に動き出す。
「あ、あった! ここ……だけど……!?」
九華がやっと開いたページは小さな文字で埋め尽くされた、まるで石碑のような様相だった。二つの本を見て、鏡面を見て、視線が動きっぱなしの彼女に集中して読み込むことなど出来ず、更に焦燥も重なり、他人目からでも文字が滑っているのが一目瞭然だった。
「九華! 早く!」
「分かってる! ああ、何これ!? 何を言ってんのよこれ!」
「僕に見せろ! 速読は慣れてる」
割り込んできた想汰に九華は本を渡し、鏡面の近くで流れる光景に意識を集中させる。父親が徐々に母親との距離を詰めていく。それでいて逃げ場もなく、警察が来る気配もない。九華の貧乏ゆすりが秒単位で速くなり、落ち着いた様子で読んでいる想汰をしきりに見ては、鏡面に目をやってと、とにかく落ち着きを失っている。だが、それは全員がそうだった。睡方も由依もただ傍観以上のことは何も出来なかった。
「……もう、全て終わりにしよう」
父親の影が母親と娘に覆い被さる。座り込む彼女のほぼ直前まで接近した彼は包丁を持つ手を極限まで震わせていた。母親は待って、と必死に漏らす。勇敢を繕っていた彼女は最期を悟ってか無意識に涙を流しつつ、命乞いのような言葉をしきりに繰り返した。しかし父親は静かに首を横に振った。鏡面の光景に目を奪われている全員が直感で危機を悟る。もう時間は無い。
「想汰! まだ!?」
「あと少しで把握する! 待て!」
だが、九華はそれを聞いた二秒後に、ポストへと走り出していた。隣の机の紙をちぎり、ペンで必死に書き殴る。
「おい! 何を!」
想汰が呼びかけても彼女の手首の動きは止まらなかった。そしてそのまま何かを書き終わるとすぐさまポストに投函し、走ってこちらに戻ってくる。
「さよなら」
父親が一言、か細く呟く。そしてそのまま、彼女に向かって鋭く尖った包丁を大きく振りかぶる。九華は両手を鏡面につけ、酷く顔を近づけて父親の動きに注目していた。そして彼女の口が息切れ混じりの微かな声で、三、二、一、とカウントダウンをしていたのが分かった瞬間。
父親が振り下ろした包丁を、彼女の頭の寸前で止めた。そしてゆっくりと指を開き包丁をフローリングの上へと落とす。
「……う、うぅ…………! あぁ……!」
そのまま胸を押さえながら全身を痙攣させ、父親は床に倒れこんだ。そこから微動だにしなかった。
「…………はぁ……!」
九華は安堵からか膝から崩れ落ち、神殿の床に尻餅をついた。由依がほとんど吐息の、掠れた声を吐く。
「よ、よかった……」
鏡面に映る母親は力が抜けた様子で、それでいて娘の顔をちらと見やる。突然の出来事に困惑しながらも未だ涙で歪む表情を纏いつつ、彼女は泣きじゃくる娘を強く抱きしめた。それを見て、睡方は遅れて現実感に襲われた。母親は助かったのだ。現実に生きる母親が。ここに映る景色は、ゲームやドラマのそれなどではなく、間違いなく現実世界で起きていることなのだ。今初めて、本当に理解した。
母親が、溢す。
「あなた……。ごめんなさい……。ごめんなさい……」
胸を撫で下ろす三人の後方で、一人本を閉じる想汰は鏡面を見たまま呟いた。
「本当に……これで良かったのか」
小さく呟いた彼の言葉の意味を、理解しようなどとは思わなかった。
今思えば、あの時の自分たちはよっぽど無知だったのだと、悔やんでも悔やみ切れなかった。




