第9話③:九華
九華の腕も元に戻り、北上して遂に向かうは兼ねてからの目的地。創界の東の際のへりを平行に走る。残骸都市の前兆を掴むには、相当な僻地にまで行かなければならないとシコウから通達されていた。言葉通り、一行は世界の端へ、端へと現在進行形で進んでいる。とっくに飽きたと思っていた平地の景色と基本的に変わりは無いのだが、それでも森の奥地や深海へ足を踏み入れる時の大自然に対する畏怖に近い感情が、つま先からじわじわと四肢全体に伝わってきたのには、正直怯えつつも心が踊らなかったと言えば嘘になった。
ある時から、光景の中に瓦礫の小山が増え始めた。この世界にまだ作者がいて、自分の本意を超える速度で読み進めてくる読者のために、大至急書き足したような、そんな顕著な変化だ。蛇行を強いられるほどの数はない。
下半分だけになったノブ付きのドアの遺骸が立ち続けている。逆にそのドア以外にそこに建物があったことを表す手がかりは皆無だった。他の場所も同じような感じで、むしろ残骸がある方が珍しいくらいだ。そんな状況から見て、どうやらここの崩壊はつい最近のことなんかではないらしい。ラックやテーブルが置いてあったであろうことを表す地面の凹みにはどこか切なさを感じられ、メイブツが掘っていたあの隠し穴の凹みにはまだ生きている存在が手をつけた温かさが少なからず含有されていたのと気付かされた。
雰囲気に圧倒されつつも、めげずに歩みを続けていた一行の瞳孔に、共通して大きく映ったものがあった。かろうじて形の残っている唯一の建物だ。壁や天井の一部が大きく欠損し、室内がほとんど外界と同化してしまっている石造りの平屋。開放感がある物件とでも紹介すれば、どこかの物好きが何かの間違いで契約してくれるかもしれないギリギリのラインだ。
そのこじんまりとした平屋の中に、人影があった。それも、よく見ると純白の調理服を着ている。頭にはコック帽。棒立ちでただずっと同じ方向を向き、膝の横に手を置き気をつけの状態で硬直したまま。四人はお互い顔を見合わせ、あれだと確信する。
向かっている途中、一度だけ睡方、いや正確には新聞部全体と、シェフは目を合わせた気がした。その数秒後ぐらいだろうか。カミは油を差されたように、突然自身の体を素早く動かし始めた。遠目でも分かるほどの変わりようである。
建物の前に到着し、タプから降りて四人と一匹は入店──扉すらなく、壁の隙間から入るそれは侵入に近い──する。そもそもここが店なのかどうかの疑問すらまだ浮遊したままだが。
入ったらすぐに、キッチンが目の前にあった。シェフが備え付けのコンロの上でフライパンに具材を投入している真っ最中である。そんな状況下で調理場に客が入り込むのは幾分失礼に思えるが、ここ以外に入口が無かったのだから仕方ない。
「すいませーん、五名なんですけど」
具材を炒める、喝采に似た音がこだまする。九華の声が届いているのか心配になる。一人で忙しそうにキッチンを駆け回るシェフは頃合いを見ると、無言で手を隣の部屋へと指した。どうやらそちらに行けということらしい。四人と一匹は足を進める。指示が通ったと分かるや否や、シェフはすぐにまた調理へと戻った。
案内された部屋に向かうと、一つの大きな机と人数分の五つの席が用意されていた。少し足が長い高めの椅子に座り、丸机を囲むようにしながら部員たちは隣から聞こえてくる食欲をそそる音に期待を膨らませる。調理場とホールを仕切る壁すらも半壊で、動き続けるシェフの後ろ姿がよく見えた。改めてアシスタントや他のスタッフなどの姿は無く、全ての作業を一人で行っているようだった。
机上にメニュー表なるものは見当たらない。これも、シコウから聞いていた通りだった。基本的に作られる料理はシェフ次第、それも一来店につき一品しか提供されることはないらしい。そのため、シェフの裁量に多大なる命運がかかっているというわけだが……。
「…………」
来店した時からだ。彼はまだ一言も言葉を発していない。職人気質と言われればまあ納得しなくもないが、睡方の中ではどちらかというと刺々しい緊張感が滲んできてしまっていた。手がじわと湿り、膝に押しつける。もし、厳格な人であったら取材に応えてくれるだろうか。厳守すべき食べる際のルールが実はあって、それを破れば怒られてしまうのではないだろうか。平常時の自分には考えすぎだと一蹴出来る、杞憂が次々と先走る。明らかに雰囲気に飲まれていた。全てが未知数なのだ。現実の常識範囲内でも、外でも。
見慣れた人型の体躯に反してシェフの顔は、大小異なるサイズの四つの金属の輪が組み合わさって構成されている。純白な調理服の襟から浮いて中サイズの輪、上に大サイズの輪、その内側に小サイズの輪が空中で回転しつつ、そしてその上にはまた中サイズの輪で、その更に上部に輪に触れないまま浮かぶコック帽、という天球儀じみた複雑な構造。故に、表情を読み取るは尚更、生物の持つ反射的な顔面の強張りや目の泳ぎのような僅かな感情の機微さえ捉えることが不可能に近いのだ。
シェフが料理を皿に盛り付け、それを持ってこちらに向かってくる。睡方は食欲とはまた違った唾を喉を鳴らして飲み込み、肘の関節を曲げぬまま体を縮こまらせた姿勢で深呼吸をした。
清潔感に満ちた白い長袖に包まれた腕が、テーブル中央に静かに皿を置く。置かれた料理から湯気が立ち上り、調理場から漂っていた油の良い匂いがより直接的に鼻腔を刺激する。化粧石を削って作られた丸い大皿の底面に浅く溜まる汁と、上に乗るそれは炒め物の類。細切りにされた具材が三種類。角ばったものと、縦に長いものと……恐らく脂身のついた肉と思われるもの。こんな馬鹿らしい指差し確認をしているのには理由がある。使われている具材の色がどれも灰白色なのだ。
なので、まずこれが何の料理なのか把握するには、形に注目するしか無い。細切りの具材。一つは厚さが薄く、どこか野菜のように見える。そして肉が入っているとすれば、この角ばったものは、筍か? 考古学者のような気持ちで探っていると、なんとなく分かってくる。野菜、筍、細切りの肉。恐らく……青椒肉絲だろう。にしても調理場から聞こえてくる音から得られた初めの好感触とは裏腹に、正直食欲を一切そそられない様相である。軽く目を瞑る度に、漂ってくる匂いをキャッチした嗅覚が勝手に頭の中の料理に色をつけ出す。そしてまた目を開けて、その看過できない淡白さに新鮮に驚く。他の三人と一匹も、口には出さないがどうやら睡方と同じ道を辿っているようだった。
それぞれの前に、シェフが食器と小皿を一つずつ置いていく。由依には箸を、九華にはフォークを、想汰にはスプーンを、睡方には……全体に螺旋状の溝が入った針のようなものを。そして、タプにはエプロンを取り出し、シェフ自ら桃色の鼻に結びつけている。睡方は思わず金属の針を指で摘んで、首を傾げながら隣のシェフに恐る恐る尋ねる。
「すいません、これ、な、なんなんですか」
布手袋に包まれた指が器用に動く中、シェフは頭を一度上下に動かす。ここでも何の言葉を発さない。
「……エスカルゴピックじゃないのそれ」
「え? エスカルゴ?」
見かねた九華がフォークを手に収めながら。
「海外ではよく食べられてるカタツムリのことよ。それを食べる時に使うのがそれってわけ」
「あ、あぁ……なるほど」
隣でシェフも静かに頷いている。まあなぜそんなものがここに用意されたのかが一番気になるところだったが、余計に聞くのも怖い気がしたのでやめた。タプにエプロンを結び終わったシェフが一歩下がり、どうぞ、という感じで手を料理の方へ向ける。
シェフは腰の前で両手を組みながら棒立ちでこちらを注視していた。どうやら、我々の食べる姿が気になるようだ。視線が全身に浴びせられる。気まずさから腕を伸ばし、頼りないエスカルゴピックを使って料理を自分の小皿に取り分けようとすると、九華がそれを制した。
「待って、まずは写真。想汰」
想汰が頷いて腰のスイッチを押し、彼の顔が伸びて料理にフォーカスを合わせる。すると、引っ込んだばかりのシェフが九華と想汰の間に歩いてきて、止まるなり頭を下げ、両腕を使って大きく胸の前でバツ印を組んだ。
「あら、ここってだめなのね。失礼したわ」
もう一度スイッチを押してすぐに顔を戻すと、シェフは深く頭を下げた。その際、彼は人差し指を立て、何やら調理服のポケットを漁り始めた。中からメモ帳を取り出し、そこから五枚の紙をちぎって部員それぞれの前に置く。そして胸ポケットに挿していたボールペンを一本、机上に。
彼は物を口に運んだ動作を大きく見せた後、空中で書く動作をした。数回繰り返した後。
「食べた感想をここに書くってことかしら?」
シェフが手のひらで九華を優しく指す。どうやらそういうことらしい。そうと決まったら、と四人は目を合わせ、自分の腹の口の中に手を突っ込み、各々持っている筆記用具を掲げる。
「へへーん。シェフさん、実はウチたち新聞を書いている新聞部なのです!」
由依の言葉にシェフは指先の小さな拍手で返す。おおー、という驚嘆が聞こえてきそうな上半身の仰け反りをさせながら。
なんだろう。寡黙なだけで、そこまで怖い人ではないのかもしれない。睡方は握っていた拳が緩んでいくのを確かに感じた。四人が自分の小皿に料理を盛っていき、タプの分は由依が手伝った。元々量はそこまで多くないため、全員の一盛りで大皿の上は空になった。
一行が様々な器具で掴み、掬い、刺し、口に近づける。と言ってもお腹の口だ。中にしまっていた余分なものは床に置かせてもらった。やっと、口としての本来の役目を果たす時が来たのだ。
後に感想を書くと決まっている食事の一口目は中々緊張感がある。誰もがタイミングを見計らってるのを感じつつ、その間に既に口をつけ始めてしまったタプを見て、他の四人もすぐに口走る。
「い……いただきます」
お腹に料理を落とし、腹式呼吸と同じ要領の動きで口を開けたり閉じたりさせる。創界での初めての咀嚼、咀嚼、咀嚼、そして嚥下へと導かれていく。原理は不明だが、舌に乗せた時とほぼ同じ感覚できちんと味が脳へと伝達されてくる。睡方は意識を集中させ、現れた味覚の中に身を投じた。
奇妙な味だ。青椒肉絲の具材たちの織りなす巧みな食感は顕在でありながら、それを知覚してきた幾多の経験から連想されるあの塩辛い味のイメージとはかなり遠い場所に来ている。中心は甘みか。いやまた変わった。今度はどこか磯臭い。
掴みかけた味の輪郭がぼやけ始める。口の中で溶かしていき、段々と具材同士が柔らかく融和する。瞬間、小さな爆発がゆっくりと膨らむ。柔らかな痺れが味に纏う。
情景が広がった。青椒肉絲を食べたと思われる、全人類の。家庭に出され、安心感を与える存在の温かみの味。何ごとかで涙を飲んだ日に出され、鼻が詰まって息苦しい味。今日は楽しようとレンジであっためた、怠惰で簡素な味。もう食べることはなくなった、別れ人の味。
美味しい、という次元は当に過ぎていた。それはもはや体験の域であった。睡方も十分に全てを享受出来ていない。あまりに膨大に広がる宇宙。この潤沢に用意された人の残り香が、目の前で無数の選択肢を並べてくる。その中でどれをかいつまむか。これが恐らく人それぞれの持つ、食器、食べ方によって変わってくるのだと感じた。
エスカルゴピックは、酷く食べづらい。しかし、誰よりも長くそれを楽しむことが出来た。食べる度に紙に感想を綴っていく。他者を見る余裕などは無く、部員たちがそこにいると再び気づいたのは完食後だった。
シェフが中央の大皿に残っていた汁を小指につけ、自分の顔の輪に付着させる。数秒経つと、ポケットから取り出したメモにボールペンで吐き出すようにずらっと感想を書き出し始めた。四人の筆記も終わり、タプも口で鉛筆を保持し苦戦しつつメモに感想を残した。
睡方含め部員たちのメモをシェフが一つ一つ見て回っていく。顔を紙に近づかせ、そこに書いてあることを更に自身のメモに書き込んでいるようだった。自分の番が段々と近づいてくる感覚は緊張したが、全員分を見終わった後、彼は深々と頭を下げてから『ありがとうございました』と一言書かれた紙をテーブルの中心に置き、皿を下げに行った。
感想を書いたメモは持ち帰って良いとのことだった。記事を書くための唯一の資料として重宝するだろうと、椅子から降りた部員たちは若干の会話を交わす。水が流れ、皿同士がぶつかる音が厨房から聞こえてくる。
顔を上げると、半壊した平屋の割れ目から平坦な空が見えた。
睡方はふと思った。
あれを食べた時、自分以外には何が見えたのだろうか。
思えば、この世界でも相当な経験をしてきた気がする。現実世界で生きてきた期間に比べれば、それはもちろん短すぎる時間だけど。知らない場所に飛ばされて。知らない奴らに会って。九華とか、想汰とか、由依とか。知ってると思ってたみんなの知らないところも知って。それが、良いことだらけじゃなかったことも十分把握している。でも、なんか。
やっぱり、知れて良かったと思う。父さんと母さんは、多分こうなることを望んでなかっただろうけど、母さんが継承者の血筋を持ってくれたから俺は今、ここにいれるんだ。ありがとう。……うん。そう。
だから。
もう俺のことは、心配しなくていいよ。
「ん? ちょっと、見てあれ!」
九華が指した部分に全員が視線を向ける。平坦だったはずの空に、ヒビが入っていた。雲が退き、差し込む光芒だけが先に創界に降り注ぐ。一瞬の発光。その割れ目から誰かが降りてくるのが見えた。背中に生えた羽根。白装束。姿を捉えた瞬間、新聞部の全員が直感的に気づいた。九華が居丈高に叫ぶ。
「やっば! タプ! 今すぐ出発できる?」
「タプ!」
「あれってもしかして……」
「やっぱツカイっちだよね!?」
「期限の終了が近いということだ。急ごう」
四人がすぐさまタプに乗り込み、出発と同時にシェフに挨拶をしてその場をすぐに離れた。一瞬で遠くまで来てしまったためぼやけていたが、彼はこちらに手を振ってくれているように見えた。
「記事は!」
「あと少し!」
芽留奈の残骸が遂に姿を現す。九華の呼び声に睡方は顔も上げずに、手の動きに集中したまま返事する。最初にツカイと会った時は彼が自分たちを追っていたのに、最後には彼を必死で追うとは何の因果か。鉛筆が新聞紙の上を荒々しいステップで踊り、その足跡が文字となっていく。自分の二の腕が悲鳴を上げているのはもう十分分かっていた。だからこそ耐えてくれ、と祈っていた。
ツカイの羽ばたきで先の地面の塵が舞う。彼が空気抵抗を大いに受けつつ空を左右にゆっくりと滑っていく様は、紅葉を終えて落葉するイチョウがまるで一段ずつ透明な階段を降りるようで。
「おい、渓翠!」
想汰に肩を強く叩かれる。
「僕は全てを終えた。君は?」
下を向く。視界の端でいつの間にか書かれていた最後の句点を見て、想像だにしなかったほど軽く漏らす。
「あ、俺も────」
瞬間、タプの三馬身先でツカイの足が遂に地面と触れ合う直前だった。タプは前足で大地を勢いよく蹴って飛び上がる。四人はその衝撃で桃色の背中から揃って腰を浮かし、それから全身を投げ出すようにして。
声も出ず。
気づいたら、四人と一匹は地面に転げ落ちていた。頬に砂利が食い込み、よく目が醒める。塵が辺りに揺蕩う中、そのカーテンを隔てて見える人影が手を天へと向けた。すると、落雷。周囲の靄は瞬く間に一蹴され、険しい目つきのツカイが新聞部を見下ろして立っている。白装束についた汚れを投げやりに手で叩きながら、ため息混じりの彼は口髭を小さく動かした。
「時間じゃ。まずは神聞紙を渡せ」
四人が立ち上がるのを待たずして、彼は手を前に出した。あくまでも救いの手を差し伸べたと勘違いされたくはないといった、控えめな関節の動き。
「ほら! 早く出しなさいよ」
九華に肩を叩かれ、睡方は持っていた新聞紙を膝立ちの状態で慌ててツカイに差し出した。羽の生やした翁は一瞬満足げな皺の寄り方をするが、紙面に目を通すと再びこちらに視線を返してくる。
「なんじゃこれ、こんな無駄なもの頼んでないわい」
半ば憤慨と落胆の混じった手首の振りが、その紙を睡方の胸元に押し当てた。見ると、それは確かに無駄なものであった。新聞部全員が協力し、時に笑い、時に悲しみ、時に無力感に苛まれた、この世界でのそんな多くの日常が列挙されている、極端に考えれば日記とまで矮小化できる存在。しかし、それこそが求めていたものだと、やっと紙面全体を落ち着いて見れるようになってようやく分かった。他の三人が隣から覗き込んでくる。
「完成したのね……! やっぱり……間に合うと思ってた!」
歓喜の声を上げる九華の両手に、睡方はその新聞紙を渡した。想汰と由依が彼女の隣へと回り込み、自分も自分もと紙面に意識の火を焚べる。そんな部員たちを横目に、睡方は口の中に腕を突っ込み、その中から青く光る神聞紙を取り出した。
「これだろ。お前が欲しいのは」
眼前にそれを差し出すと、素早く強奪され、今度は紙面に一通り目を通してからツカイが上半身の力を抜いた。
「あるじゃないか。まったく……ひやひやさせるな。コホン。それで、みなまで言わなくても分かるじゃろうが。お前たち、もう、決めておるだろうな?」
九華が新聞紙を畳んで手のひらの中に収める。睡方が彼女の隣に佇むことで、立ち並ぶ四人の横一列が完成した。まるで、その言葉を合図とするかのように。
「ええ。もちろん」
自信ありげに言い放つ九華含め、その新聞部の表情には等しく微笑が浮かんでいた。もはやお互いの目を見ることすら無い。
ツカイが喉を鳴らす。
「それじゃ、聞こうか。名誉ある神の地位を継承し、その役目を全うする者の名を」
創界にしたたかに響く、号令。
それに応えようとする吸気音は、一つの、大きな開闢に聞こえた。




