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しんぶんしぶ  作者: 氷星凪
最終章
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34/41

第9話①:九華

 小学校の頃。誰と喋るでもなく机に体重を預けているだけの休み時間に、ふとクラスの誰かが言ったのが聞こえた。親元から離れてしばらく経った後の少年少女たちが、学校内を自分の箱庭にしていいのだと知ってから留まらなかった喧騒と喧騒と喧騒。それらを擦り抜けて、むしろ囁かれているかのように。

「死んで天国に行けばさ、宿題なんてせずに遊んで暮らせるのにな」

 睡方が両腕を乗せていた机の天板。その一枚を隔てたすぐ下では、前々から溜め込んでいたプリントやらドリルやらが体を折り畳ませていた。

 だからその言葉に、彼は内心首を縦に振った。しかし、その論理は今になって思わぬ形で否定された。それも紛れもない睡方自身によって。

 白銀の荒野を勢いままに駆けていく一つの影が、砂塵を舞い起こしながら更に加速を強める。タプに乗る四人の最後尾に位置する睡方は無意識に奥歯を噛み締めていた。走る桃色の背中の上に置いた新聞紙が激しく揺れる。片手でそれを必死に押さえつつ、もう一方の鉛筆を持った手を近づけたい……のだが。

 その紙面の上を先ほどから老人の杖突きのように鉛筆が近づいて離れてを繰り返す。あと一つ残る自分の担当記事、それを書き上げるための最後の試練だった。進行方向と逆側を向き、睡方と対面するような格好で書いている想汰もまたその苦しみを共有している。まるでお互いが陣取りをするように、一枚の紙の上で執筆にあくせくしている中。由依が不意に手を天に上げた。

「ほらあそこ! もう結構降りてきてる!」

 特定の一点を指しているようだが、彼女含む乗員全員が疾走の反動によって体を揺らしておりその指示先が一切掴めない。しかし、そんな気遣いなどもはや必要無かった。遠方の空の上から、一つの眩い発光体が明らかに地上へと降下しているのが見える。

 ツカイだ。着陸場所は、恐らくあの芽留奈の街並みがあった付近。彼が地面に足を付けた瞬間、遂に期限は終了を迎える。迎えてしまうのだ。

 それまでに俺たちは芽留奈へ辿り着かねばならない。そして、今眼下でくしゃくしゃになっている新聞紙も完成させなくてはならない。これは部長の命であり、部員たちの矜持でもあった。

 まさか神様の候補になっても締め切りに追われるなんて思わなかった。そしてそれを遂行しようと全員が息巻いている光景も、結局学校にいた頃と変わらない。あの頃から変われたことって果たしてあるのだろうか。

 吹き付ける風で後方に持ってかれる腕を無理やり紙に押し付けて文字を書く。汚くてもいい。とにかく綴る。頭の中に浮かんだ言葉を忌憚なく書き出す。手の甲が脳になって、指先を直接動かしているような感覚を覚える。

「やばいやばいやばい、タプ! もう少しスピード出せない?」

「タプ……! タプゥ……!」

 既に風が柔肌を抉り取るほどの速さであった。しかしタプは、九華の呼び声に唸りつつも応えようとする。その姿勢は、単なる移動手段には存在するはずのない命の鳴動を孕んでいた。奔り出す。今までの最高速を、なんと余興にし始める。一歩が二歩分に、三歩分に、四歩分に、限界などまだ教わってないと意気揚々に謳う幼き四脚が一行の体を更にのけ反らせる。睡方と想汰の二人が荒ぶる紙を押さえながら、執筆は最終段階へと向かっていく。

 降臨するツカイが、空の中腹にまで来てしまっている。急がなければいけない。そう思った最中のこと。この極限状態で突然、睡方は自分の意識が宙に浮いたのが分かった。腕は執筆のために動き続けているのに、なぜか頭は紙面上に載せられた他の部員たちが書いた記事を読んで楽しんでいる。睡方の筆箱から筆記用具を分け合って、四人がそれぞれ担当の区画を一心不乱に文字で埋めた、そんな記事達の群れ。どこか浮世離れしたこの創界での出来事が良い意味で生々しく、温度すら感じられるような佇まいでこちらに顔向けしている。

 部室を出発してから、約一日が経つ。一日といったら、起きて、学校に行って、帰ってきて、寝て。それくらいこなせれば満足の数十時間。そんな時間の流れの中で、自分達は一体何個の記事を書いたのだろう。ああ。急がなければならないのに。記憶が脳内を回遊する。ただ目的も無しに駆け回った、つい先程までの自分達に思いを馳せて。



 白化した部室を飛び出し、四人は南東方面へ舵を切った。特に理由はない。進む方角に真っ当な理由を考える時間すら惜しかった。一行は勢いそのままに走り出した矢先、それぞれ異なる方向に首を向かせ、辺りを見回した。虚無が続く世界で記事の話題を探すには、多少なりとも滑稽でならねばならない。

 その成果として得られた記念すべき最初の出会いは、あろうことかナメクジの兄弟だった。タプから降りた四人が彼らの側でしゃがみ込む。兄の一匹が地面をゆっくりと進み、その後ろを弟の一匹が付いていく。いずれも新品の鉛筆の半分ほどの体長しかなく、二匹の頭から生えている触覚が全身の大きさを超している。

 四人は彼らに取材を始めた。早速何をしているのかを問うと、二匹は、一二〇〇年もの間この地べたを這っている、と言ってきた。その故を尋ねたところ、兄の方が先に威信をかけた声で言った。

「帰るんだぜ。俺たちの故郷に」

 現実世界の構造をそのまま受け継ぐ創界、そのだだっ広い空間のどこかに自分たちの帰る場所があるはずだと彼らは信じていた。知らない場所で放浪しているかもしれない家族、ダチ、世話になった奴、そいつらが心配で、と口から溢す兄の触覚は微かに揺れていた。

 重ねて質問を続ける。様々なことを聞き込む中、その取材の間も彼らが足を止めることは無かった。真摯に、進み続ける。しかし、同時に問題はそこに表面化していた。

 取材の始めに睡方の右足の小指辺りの地面を歩んでいた兄弟たち。彼らは質疑と応答の交えた短くない対話を重ねたのにも関わらず、進行速度としてはまだ睡方の中指にすら到達出来ていなかった。鈍足、ナメクジ生来のそれ。

 この進行速度では、仮に睡方の隣に座る九華が故郷だとしても辿り着くのにあと一日以上はかかってしまう。そして当然ながらこの四人の隊列を何日もかけて二匹が超えたとしても、そこに故郷など無いのはもう俺たちには見えている。二匹には遠くに見える箇所も、自分達には目と鼻の先だ。

 無関係な他者から見ても、ナメクジ兄弟の未来は明るくなかった。彼らが進む度にその直感が現実感としてじわじわと襲ってくる。その現実感は無力感へと変わっていき、睡方は愁眉を寄せることしか出来なかった。だが隣の彼女は違った。

 九華が唇を強く噛み締める。いつの間にか顔は体の正中線より前に出ていて、喉奥まで上ってきたであろう言葉がひとりでに転げ落ちる。

「あなたたち……私たちと一緒に来ない?」

 憐れむ、と言ったら少し厚かましすぎるかもしれない。でも、それに近い感情を四人が共通して抱いているのは各々の視線から確かで、その中で代表して声を上げたのが九華だったというだけであった。

 二匹のナメクジが触覚を揺らした。兄が九華の言葉にほんのりと微笑を落とす。だが意外にも、返答は兄の後ろを追う弟がした。謝罪から入った彼は、嫌味を感じさせない物腰の柔らかさを織り交ぜつつ、それでもきっぱりと言い切る。

「ごめんなさい。でも僕たち、この足で行きたいんです」

 続けて兄がタプのことを、あいつは良い馬力してるよ、と褒めて、その後四人にもう一度謝罪をした。決して仰々しいものではない。一言、悪いな、とだけ。

 二匹は進み続けていた。それから睡方も、九華も、他の二人ももう何も言えることは無かった。

「……そう」

「何しおらしくなってんだ。良いんだよ。俺たちがそうしたいんだ」

 兄の言葉に、沈黙が降りた。九華の瞳が右往左往しているのが、睡方には捉えられた。彼女はゆっくりと喉を鳴らし、唾を音立てて飲み込んだ。

「……あなたたちの写真だけ撮っていいかしら。私たち新聞を書いていて、その記事に使いたいの」

「いいぜ。ばっちり写してくれよ!」

「くださいね!」

 想汰が腰のスイッチを押し、顔の中心部分のレンズを伸ばしてから、何枚かパシャパシャと撮った。被写体になっても彼らは足を止めないため、上手く撮るのには少し時間がかかった。無事に写真が現像されるとそれを兄弟が見たいと言うので望み通りにしてやると、初めて客観的に見た自分の体があまりに小さかったことに彼ら自身驚きを覚えていた。そんなこんなで四人は取材の礼をして、二匹の元を去った。兄弟たちの一助になれなかったことを睡方はどこかで悔やみつつ、自分たちの役目は彼らの存在を文章に残すことだと自らに鞭を打った。

 タプが再び走り出す。時間が無い中、一行はタプの背中の上で早速あの兄弟の記事を書き始めた。事前に分担していた役割で、ここはまず睡方と由依が執筆を行う。

 腹の部分にある口の中から取り出した筆記用具を共有しつつ、執筆者以外の他の二人は次の話題を探すためにまた顔を左右に向け続ける。そんな中、九華だけはまだ、どうすればよかったのだろう、と横顔の延長線上で言葉を漏らしていた。無味無臭の光景に、それはすぐに溶けた。

 蛇行しつつ、進んできた南東の方面から更に南下していく。辺りを歩いていた黒い毬藻(まりも)のカミと、取材とは名ばかりの戯れを行い、記事のネタもまた一つ増えた。そのすぐ後だった。

 遂にこの創界の端へ着いたのが分かった。永遠だと思っていた地面が途切れ、眼下に断崖絶壁が広がっている。いつかの教科書で見た平面だと信じられていた頃の地球の図、あれに近い。下を覗き込んでみる。だが、白い靄が全体的にかかっていて底は見えない。今度は地下が永遠に続いているんじゃないかというような、そんな底無しの怖さが顔を出した。

 一行はその(きわ)を沿うようにして今度は西へと舵を切った。途中、棒グラフから蛸足が生えている巨大な異形との邂逅を経て取材を行ったこともあり、記事は埋まりつつあった。四人を乗せた桃色の列車はカーブを繰り返し、次は北上していく。


 走っている最中、突然後ろから物音もさせずに並走してきた者がいた。

「お手数おかけします。みなさん、一つワタクシの話を聞いてくれませんか?」

 合成音声のごとく清廉な発声で一文字一文字を繋いで、文章を()()()()()()というような口調。真っ白な中華服を上半身だけ着こなし、下半身は見当たらない。両袖を胸の前でくっつけ、中に腕を通したままのような様相の彼は一切の摩擦と空気抵抗を感じさせないほとんど等速直線運動に近い動きで進んでいる。服の裾が地面に勢いよく擦れ、靡いていた。

 襟の上に浮遊する、ホワイトボードを全面に貼り付けた立方体の頭がこちらを向く。正面を向く一面にのみ、棒状の黒い磁石が二個貼り付いており、それが目のように見える。頭の上からは前側に垂れる腕が三本。左から石膏、大理石、象牙を素材にしたと思える。いずれの色も白、表面に凹凸は無く、自分達の肌と比べて整っているというのが第一印象で、まるで彫刻家の作品のようだった。

 九華が返す。

「奇遇ね。丁度話を聞ける人を探してたのよ」

「左様でございますか。ワタクシ、シハイニンと申します。以後お見知り置きを。したい話というのはですね、この先にあるコースターについてのものです。ワタクシ、そのコースターの支配人をさせてもらっておりまして」

「え!? コースター!?」

 由依が一番最初に食いつく。九華が冷静に。

「コースター……っていうと、いわゆるジェットコースターのようなものかしら?」

 シハイニンが頭だけを動かし、深く頷く。

「いかにも、そうでございます。実はワタクシ、コースターを作ることが長年の夢でして遂にそれを完成させることに成功したのですが……。見ての通り、ここら一帯は閑散としており、乗ってくれるお客様方は未だに一人もいないのです。そこで、ここで会いました縁もありますし、是非みなさんに第一号としてワタクシのコースターに乗っていただけませんかとご提案をしに今まさに並走しているのであります。いかがでしょうか?」

「そうね……」

 言い淀む九華が後ろを振り向いてきて、三人の様子を確認してくる。最後尾の睡方は先頭に座る九華との間を挟む由依と想汰に視線を送る。

 想汰はともかく由依がいかにもやりたそうに腕を揺らしていたので、軽い頷きを部長に返した。それでもどこか自分の頬を撫でながら勘案を続ける彼女がいたので、睡方は焦ったくなって我先にシハイニンへ顔を向けた。綺麗に造形された立方体の頭が、心配そうにこちらを覗き込んできている。

「ぜひ、やらせてください」

 彼の言葉を聞くと、シハイニンはほんの少し天を仰いだ。袖口で顔に付いている磁石の角度を動かし、縦から横にする。睡方には彼の顔がわずかだがどこか朗らかな表情に見えた。シハイニンがタプの先を走る。

「感謝します。ワタクシの後に付いてきてください。と言っても、そう遠くはありません。喜びというのは、いつの時代も思っていたより近くにあるものです」

 言葉通り、それから体感数分で目的地に辿り着いた。タプを降り、四人と一匹でシハイニンの元へ向かう。

 彼の隣の、たった二段の石造りの階段が目に入る。その奥には、先ほど話題に出ていたばかりのコースターが一台、佇んでいた。遊園地にある連なったコースターの先端車両だけを切り離した様相。背中を空にして今か今かと乗客を待っている。

「さあさあ、どうぞ」

 新聞部の面々が階段の前で横並びになると、シハイニンは嬉々として乗車を上品に急かした。

 九華の手を引いて、由依が階段を上っていく。実はジェットコースターに乗ったことがないのだと移動中に漏らしていた九華の心情を汲んでの、由依なりの気遣いだった。奇しくもタプに乗っている時と同じ、九華が先頭、次に由依といった並び。想汰が階段を上り、続いてその後ろに乗車する。

 最後に睡方が……というところで、彼はせっかく上った階段の上で足を止めた。目の前のコースター内の空気が、明らかに三人で埋まってしまっていたのだ。想汰の背中とコースターの後方の壁との間には、片手がやっと入るぐらい隙間のみ。一応足を上げて入ろうと挑戦しようとするが、それはすぐに下げることとなった。

「想汰、もうちょっと前詰めれないか……」

「これ以上行けば僕は時原にめり込む」

 淡々とした顔で不可能を伝えられて睡方は頭を掻く。確かに乗車時点で想汰と由依とのパーソナルスペースの境界線はもうとっくに融解してしまっていた。自分が彼の立場だったとしても、恐らく同じことを言うだろう。

 睡方のどきまぎした様子に流石に違和感を感じたのか、シハイニンが目の磁石を点のものに差し替えて顎を上げる。事態を把握すると、今度は目の磁石を横棒に差し替え、眇めるような表情をして口をもごつかせた。

「ええとですね。そうですね。それほど体が大きいとは。……どこか少しでも足を入れられる隙間はございませんか」

「い、いや、多分ないっす」

「左様でございますか」

「じゃあさ、睡っちが想っちの上に乗ったら?」

「それはいけません! 安全性の観点から、絶対です……」

 三人と、シハイニンと、後ろに並ぶタプ、全員の視線が睡方に刺さる。沈黙が場を穿つ。

「じゃあ……俺は見てます」

 言って、シハイニンが少し間を置いてから頭を下げる。

「申し訳ございません」

「待ちなさい」

 徐に九華がコースターから身を乗り出して降り、階段上へ再び足をつけた。シハイニンの言葉も遮る形で、睡方と向かい合う。

「あんた、乗りなさいよ」

「……お前は」

「見てるわ」

 視線を逸らしながら言っていた。両腕を固く組む、常の強気の姿勢。自分の吐いた文字の濁流に乗じて、階段を降りようとする彼女の腕を掴む。

「乗れよ。乗ったことないんだろ」

「そう……だけど。楽しみ方を知ってる人の方が、乗ってて楽しめるでしょ。私が乗っても、」

 いや、違う。強気なんかじゃない。強がっている時の彼女だ。こうなると彼女は自分を犠牲にすることを目的に、思ってもいないことをあたかも貫いてきた信条のように話す。

 睡方は、ほんの少しだけ手に込める力を強くした。

「なんでも自分の目で確かめるのが、お前の筋じゃないのか」

 言った途端、手の中から腕が抜け出そうとする力が弱まる。睡方の瞼が一瞬震えた。

「一回ぐらい、知ってみてもいいんじゃないか」

 図星を突かれたのか、九華は目ならぬ顔を泳がせていた。一度は降りようとした足が戻ってきて、また段上で佇む。彼女はコースターをじっと見やっていた。打たれた杭のように動く気配の見せない足に力がこもっているのが分かる。押さえ込められた感情の矛先をどこに向けていいかと、手を宙でくるくると意味なく回してからシハイニンにどことなく覇気混じりの声をぶつけた。

「どうにか全員で乗れないの!? なんか乗り場増やすとか、なんでもいいから!」

「……ワタクシもそうしたいのですが。コースターを形成する際に使った素材は、もう既に使い果たしておりまして」

「ご主人。僕に一つ考えが」

 座っていた想汰が立ち上がる。縁に手をかけ、一度降りるとコースターの後方へと移動してその部分を手で指した。

「ここを削り、連結ジョイントを作ることは可能でしょうか」

 シハイニンは若干顔を俯かせながら。

「削る、こと自体は可能ですが。そこに連結できる物は何も」

「あります。それも、僕たちにとってはよっぽど信頼できる乗られ手ですよ」

 彼はもう一方の手でタプを指していた。タプは体を跳ねさせ、驚きを全身で表現する。

「えー!? タプちゃんをくっつけるの!?」

「す、すいません。誠に恐縮なのですが、本当に大丈夫なんでしょうか。安全性ですとか耐久性の面など諸々……」

 九華が鼻息を深く吐く。

「それに関しては心配要らないわ。だって、伸びるもの」

「伸びる?」

 タプが自分の腰を引き伸ばし、背中の面積を長くさせる。シハイニンは目の磁石を丸いものに差し替えるとタプの元へと近づいていき、その体を興味津々な様子で触診していく。由依が唇を引き結びながらタプに視線を向ける。

「タプちゃんは大丈夫なの?」

「タプ!」

 意外にもその返答は明瞭で、それでいて快活だった。むしろ大きな鼻を微細に揺らし、予想できない未来に身震いしつつもどこか期待を隠せない様子。タプの親代わりのような由依は少し心配げだったが、そんな様子を見て口端を緩ませた。

「全身の弾力性もといクッション性能は抜群。これは、いけるかもしれません」

「ほんと!?」

 九華が思わず大きな声を上げる。シハイニンは厳かに振り返り、立ち並ぶ四人に伝えた。

「そうと決まれば早速作業を始めましょう。善は急げ、です」

「俺たちも出来ることがあれば、手伝います」

「……感謝致します。お客様の期待には全力で応えさせていただきましょう」

 シハイニンの頭から伸びる三本の腕が一瞬背中側へと移動すると、すぐにその手にどこから取り出したか分からない工具類を携えて戻ってきた。

 全員でコースターの後方に集まる。相談の結果、タプの鼻の形に窪みを作り、そこに連結するという結論に固まって、すぐに作業は始まった。四人がタプを持ってコースターに押し当てつつ、その鼻の外周をシハイニンが鉛筆でなぞって型を取っていく。そして周縁からはみ出すことのないよう腕の一つ一つを駆使し、シハイニンは淡々とコースターの掘削作業を行う。時々タプを押し当て、また削り、押し当て、削り、と地道に進捗を重ねていく。火花が飛び散る現場で、シハイニンは作業以外の行動をしない。異形となり、現実世界では不可避だった呼吸の煩わしさからも解放されたのだ。

 成果は実った。コースター後方に新たに生成された溝に、タプの鼻ががっちりと固定されてタプとコースターがめでたく一体化した。コースター自体地面から若干浮いているため、タプは足を空虚にばたばたさせているが、新たな座席としての様相は文句のつけようの無い出来栄えだった。また溝には簡易的なかえしが付いているおかげで四人が全力で引っ張っても溝から取れることもなく、安全性の面もクリア。これはシハイニンの流石の技術力と言わざるを得ないだろう。

「これでみんな、行けるわね」

 腕で額を拭った九華が再び階段を上っていき、清々しい顔でコースターの中に入る。続いて由依、想汰が乗車。そして、連結された部分のタプの背中に睡方がまたがる。この背中の熱の感じ。見知った感覚だ。でも、見える景色が変わっただけで不思議とわくわくしてくる。

「シハイニンっちもどうですか!」

「ワタクシ……ですか?」

「実はタプちゃんの伸びは、こういうことにも使えるんです!」

 由依が名前を呼んだ合図に反応し、タプが体を後方に伸ばすと睡方の後ろにもう一つの空席が生まれた。シハイニンは目の磁石を瞬かせ、四人の顔を見やる。

「良いのでしょうか? こんな水入らずの場にワタクシが」

「もう一緒に作業した立派な仲間じゃない。まあ、ほとんどシハイニンさんに任せっきりだった訳だけど」

 言った九華の方を向いたまま、シハイニンは三本の腕で頭の後ろを掻いた。そして少し恥ずかしそうに階段を上り、睡方の後ろへと乗車した。

「では、お言葉に甘えさせていただきます。自分ではもう何千回と乗っているのですが、これはやはり期待を裏切らないものですよ」

 こうして、正真正銘その場にいる全員が乗車した。睡方の背後から発車のアナウンスがなされる。

「改めまして。本日は誠にご乗車ありがとうございます。まもなく、創界コースター『変転』発車いたします」

 どこからかチャイムに似た音が響く。車体が静かに駆動を始めた。

「そういえば、このコースターって一体どこを走るの? レールも何もないように見えるんだけど」

 先頭の九華の呟きに、最後尾のシハイニンが答える。車体の震えは小さく、だがしかしそれは確実に増大している。

「この『変転』は、車体がほんの少し地面から浮いていることから明確なように、実は下部に透明なレールが敷かれています。これはワタクシが創界中を足で回り、全て手作業で設置したものです。それゆえ今からは少し長旅になりますよ、」

 よ、の接尾語が風に切られて消えた。一瞬音が聞こえなくなって何事かと思うと、コースターが既に直進を始めていた。あまりの反動に上半身を完全にシハイニンの胸に預けてしまう。強弱なんてない。最初から全てを出し切る本物の機関車が、地面を踏み鳴らしていく。ごぉーっ、という腹に響く低音が吹き付ける風と共に全身を駆け巡る。直進。直進。蛇行して、直進。

 一瞬で最高速度に到達したコースターは、天と地の狭間を通って乗客を運んでいく。叫ぶよりも先に目の前の景色が流れていき、もはや誰も声すら出せない。体が東に西に、またはZ軸の上や下に。更には空中で一回転、二回転なんかして、シハイニンの遊び心が歯を見せて笑う。

 これは、夢なのではないかという達観みたいなものを、体の激しすぎる揺れ、目まぐるしく変わる光景から無意識に想起する。しかしそんな非現実感の肩を叩き、睡方を引き留めるのは、時折見える一度訪れた場所の再訪だった。創界中を巡るコースターゆえ、一瞬だが社の上を通ったり、いつかに遊んだ湖の近くを通ったりもした。先ほど会ったばかりのナメクジ兄弟ともこちらから一方的な再会を果たした。恐らく兄弟たちからしてみれば速すぎて何がなんだか分からなかっただろう。

 思い出は、不思議だ。創界という世界は都度構築される刹那的な物ではなく、全てが地続きの断続的な物だと気づかせてくれる。俺たちは自分なりの世界を作ってきたのだ。ただの世界の構成員であるはずの自分たちが、世界を作るなんて少し大袈裟かもしれないが。

 呼び起こされた血が全身を駆け巡っていく。肌がもはや振動を超えて、一切の感覚を無に感じる。速度を上げる度に脅威へと変貌してきた風が、ある一定の段階で完全に体と融和した。今、ここにいる全員が風となり、そして全員がそれを自覚していた。恐らくそのはずだった。少なくとも、睡方は。

 仕組み不明のブレーキが甲高い音を立ててかかり、コースターの停止があっという間の一周を告げた。横には、あのわずか二段しかない階段。帰ってきたのだ。やっと。

 完全に動きが止まった後も、みな半ば放心状態で自然に大沈黙へと移る。余韻に浸るという段階を超えて、もはや余韻に全身を浸かっていた。一つの体験を全員で共有し、今ここに戻ってきたという事実が、少し急ぎ足かもしれないがここにいる五人と一匹を特別な関係にしたのは間違いないだろうと彼は思った。

「あれ? 九っち、腕は?」

 ひと足先に現実に戻った由依の言葉で、他の人々も蕩けていた目を瞬かせた。当の本人も今気付いたようだったが、九華の左腕のコンダクの着ぐるみ部分が外れ、元の人間の若干の肉付きのある腕が姿を表していた。

「もしかして。どっかで落としてきた感じ?」

「……多分、そうかも。てか、さむっ……」

 思わず片腕を押さえる彼女の表情には、うっすらと綻びがあったのを睡方は見逃さなかった。旅に目的が増えることを部長がため息混じりに憂う。そんな彼女を見守る睡方、想汰、由依の三人は目配せだけでお互いの感情をそれとなく理解していた。

 旅のイレギュラーほど胸が高鳴るものはないと、内心大歓迎だった。

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