第7話①:七寸
机の端を無意識に人差し指で叩く。コツンコツンと、木と爪のぶつかる冷たい音。九華の貧乏ゆすりはホームルームが始まったばかりから酷く、陽光が当たって鮮やかな黒色が表面に映るポニーテールが大分長い間揺れていた。頰杖をついたまま、隣にいる睡方とか言うやつの顔を見やる。
パッとしない男だ。小学校が同じでクラスも一緒になったことはあるが、初めて話したのは中学校になってから。それも授業中のグループワークとかいう義務的な枠組みでしか。
たまに思う。青春って一体何なのだろうか。何気なく友達と駄弁ったり、放課後になっても学校に居残っていたり。そういう無駄の積み重ねみたいなものを、青春なんて言うのだろうか。
九華には、その良さが全く分からなかった。だから今も机を叩きながら先生の話が早々に終わるのを期待して、背もたれにめいいっぱい体重を預け続けている。
「よしこれで今日の話は終わり。それじゃあ、日直、号令!」
「きりーつ!」
端に座る名前もよく覚えていない女子が声を上げるのより、一足早く立ち上がる。遅れて他のクラスメイトが立ち上がり、椅子引きの喧騒が教室中に響く。
「礼!」
「「「「「さようならー!」」」」」
瞬間、机に置いていたスクールバッグを手に取り、半ば他の生徒を跳ね除けて教室を飛び出す。廊下を小走りで駆け、バッグを背負ったところでやっと担任の尾崎先生の声が後方から聞こえてくる。
「はいさよならー! 気をつけて帰るように!」
廊下と教室を隔てる扉越しゆえこもって聞こえたその声をすぐに頭から振り落とし、九華は何段もある階段を素早く駆け降りて行った。夕焼けで生まれた彼女の影が先を進む彼女に必死に追いつこうとしているように見えるほど。
下駄箱に一番乗りに着くと、外履き用の靴に履き替えて飛び出した。灰色で構成された機能性だけは達者なランニングシューズが、一歩、二歩、と進む度に彼女の体を加速させる。グラウンドを突っ切り、校門を通過してからは早かった。バッグの両方の肩紐をそれぞれ手で押さえつつ、何度も通った無刺激の風景を早送りするみたいに颯爽と走る。信号待ちとなったら足踏み。青になればすぐさま出発。
目指すところは一つだった。
走る度に首に触れるポニーテールの先端の感触が気に障る。その苛立ちが無視できなくなってきた頃、視界の奥に家が見えてきた。もう誰も見ていないだろう。走る片手間にゴムを外して髪を下ろす。黒い髪がほんの少しの間風で靡いた。
着いた。右足を進行方向に直角になるように着地し、そのままの勢いで体を捻る。小じんまりとしたアパートが眼前に広がった。安心感のある自宅だ。全体的に清潔感のある白色でデザインが纏まっており、モダンな雰囲気がよく体に馴染む。
奥に立ち並ぶ多くの部屋の一番手前の扉の前で止まり、息切れしながら鍵をポケットから取り出し解錠する。もちろん扉が開いた。玄関に入って施錠をし、靴を一度脱ぎ捨ててから揃えて置き直す。まだ荒い息が出る状態で、彼女は足音を立てて廊下を歩いていく。洗面所に寄って手を洗ってうがいを。そして、リビングに繋がる扉を開けた。
静まり返った1LDKの室内。誰もいない。
まあ、靴の数を見ていて分かっていたことだ。スクールバッグを部屋の中心のテーブルの近くに置く。大体、この時間兄は仕事をしている。兄は言ってしまえば頭脳明晰だったのに、高校をやめると大学に行くことなくすぐに働き始めた。
彼は口に出していないが、恐らくそれは九華の生活を支えるためだった。この家も、学習費用も、何かあれば兄のお金から出されている。勿体無いと思った。あのまま大学に行っていれば、兄はもっと世の中で活躍出来る存在になっていただろうに。
でも、彼にそれを直接言うことは無かった。今九華が帰れる場所があるのは、彼のおかげなのだから。感謝せざるを得ない。そう、度々思う。
彼が帰ってくるまでに宿題でも終わらせておこう。そう思って、彼女は床に座り込み、ダイニングテーブルの上にノートと筆記用具と化学のワークを広げた。間髪入れずにそのワークに取り組み始める。
学生服を着たままペンを動かし続けるその様は、授業を受けている時と何ら変わりなかった。肩甲骨の辺りまで伸びた黒髪。片側を耳にかけてから解答を吟味し、結局消しゴムを手に取って小さく擦る。新しい答えを書き、次の問題に視線が移る。窓の外から近くの線路を電車が通る音がして、少し目を眇める。
勉強は確かに楽しい。でもどこか、物足りなさも感じる。
なぜこんなことを思うんだろう。そんな自分の中の大きな問いに答える前に、目の前に次々と現れる小さな問いが脳の容量が奪われていく。思う度にその大きな問いは決まって暗闇へと葬られる。ああまた次の問題だ。ここは、えぇっと。
伸びをして、時間を確認する。帰ってきてから二時間経って、今は午後十八時。下校が早かったというのもあるが、大分やったな。
今日の分のワークはとっくに終わっている。だがまだ、兄は帰ってこない。
もう少し進めておくか。
ポケットに入れていたゴムを右手に取り出し、再び髪を結ぶ。取り組むのに夢中で忘れていた。走っていない時はやはりまとめていた方が楽なのに。
筆が進む。う〜ん、と唸りつつ三十分も経たない頃。
玄関が開く音がした。
音に気づいて顔を上げる。だが、年頃特有の恥ずかしさからか、わざと迎えには行かず、その場でワークへともう一度睨めっこする。手をなんとなく動かし、意識の三割は問題へ、だが残りの七割は迫り来る兄に既に向いていた。そして足音通り廊下を進んでくると、スーパーのレジ袋を持った佑哉がスーツ姿で帰ってきた。九華を見下ろしつつ、言う。
「お〜妹〜。ただいま〜」
「……お、おかえり」
もはやほとんど意識を向けていないに等しい問題の文面を、体裁上読んでいるように取り繕う。か細く呟く声にも佑哉は相応の反応を行い、そのまま人二人分しか入れないようなキッチンの小さな冷蔵庫に買ってきた食材やら何やらを詰め始めた。
「宿題やってたのか?」
「まあね。別に他にやることないし。でも、今終わったところ」
ワークを閉じ、筆箱もノートも全てスクールバッグにそそくさと閉まった。冷蔵庫を閉め、かけているジャケットを脱ぐ佑哉が壁面の風呂のお湯張りスイッチを押す。
「お兄ちゃんが帰ってくるまで、待ってくれたってわけだな」
その高い鼻を見せつつ、得意げに言う口ぶりに彼女は眉を顰める。
「そんなんじゃ……ないし。あんたがいると、うるさくて勉強できないから先にやってたの」
「うるさいって、誰が?」
「あんたよ、あんた。分かってるでしょ」
「お前も大概だろ」
「はぁ!? ほんと、ムカつく……」
「ふっ。自分で吹っかけといてそりゃないだろ」
ネクタイを外し、クローゼットに諸々を戻す彼の姿を横目に、嘆息する。はぁ。思ってみれば、いつも兄の前では突っぱねたような態度をどうしても取ってしまう。学校ではほとんど誰とも会話をしないのに佑哉と話す時は思わず馴れ馴れしく、それでいて反抗的な態度が基本的だ。五個も離れているのにそんな罵倒の数々を許してくれる彼の懐の深さというのか、それはどうしても否めない。
「ってかごめん。この前、お前のプリン食っちゃったわ」
「……え!? いきなり!? しかも、え、ちょっと許せないんだけど……」
「いや、すぐバレるかな〜と思ったけど、意外とバレなかったから」
「じゃあなんでわざわざ今言ったのよ!」
「え? それはまあ、お前の怒ってる姿が面白いから?」
言われて、思わず顔を赤くした。これまでにない罵声の応酬を浴びせる。佑哉は、聞こえな〜い、なんて言って耳を塞ぎながら歩き、机を挟んでわざわざ目の前の場所に座ってきた。
そこで思った。前言撤回。兄に懐の深さなど、ない。長年一緒に暮らせて、よく会話が出来るのは、恐らく知能レベルがお互いに同じだからだ。そう考えると、九華は鼻から笑いが漏れ出た。目の前にいる一見凛としている彼は、中学二年生と変わらない脳の質なのだと。それがおかしくなって、思わず口角が上がる。
「おい、何笑ってんだよ」
「……いや、別に……くくくっ」
佑哉は不満そうにしながらもこれ以上突っ込むのは自分も疲れると悟り、床に寝転んでスマホを見始めた。九華はひとしきり笑い、体全体を落ち着かせてから一度深呼吸をする。すー。はー。
あー、幸せだ。
絶対口になんて出さない。でも、感じる。この決して広くはない部屋に、丁度よく散乱する物の数々。生活感溢れる色褪せた家具と、壁のいくつかの傷。凡庸で、呆れるほどなんてことなくて、ただすぐそこにいる兄の机の下から飛び出た足をくすぐれば、おい、という反応が返ってくる、そういうだけの日常。
物足りない、ことなんかない。そう、これさえあれば十分なんだ自分には。
…………そうだ。物足りないことなんて、無いはず。
空気が一瞬止まる。九華はテーブルに手を沿わせると、部屋の隅のテレビ台に置いてある何インチかも分からない小さなテレビに対応するリモコンが小指に当たったのが分かった。ニュースなど興味ないけど。思わず手癖でリモコンを持ち上げ、適当にチャンネルボタンを押そうとする。
その直前。起き上がった佑哉に手を掴まれた。思っていたよりも強い力。突然触られたので思わず目を見合わせて困惑する。
「え? 何?」
「九華、お腹空いてないか」
「あ。まぁ、まだ何も食べてないけど」
「じゃあ風呂が沸くまでに一緒に作ろうぜ。いつもの、あれをな」
いつの間にか柔らかく手の甲を包んでいた彼の手は、ゆっくりとリモコンを彼女の掌から引き剥がしていた。言いながらこちらを見る彼の顔は、どこか乾いた笑顔が貼り付けられている気がした。でも、あれを作るとなると九華の心はすぐに浮ついた。不意に訪れる、生活の中での唯一の楽しみでもあったからだ。
「わ、分かった。やろう」
「ああ」
彼は立ち上がり、満面の笑みを見せた。キッチンに向かう彼の背中を見つつ、今の笑顔が自然なものだと感じ、より先ほどの乾いた笑顔の歪さが際立って彼女はしばらく立ち上がれずにいた。
「よし、完成……。俺一瞬で洗っちゃうから、それ運んでくれないか」
「あれ? どっちがお兄ちゃんのだっけ」
「多い方がお前で良いよ。あとスプーンもここ置いとくから」
両手に皿を乗せて、サーカス団のように歩き出す。キッチンからテーブルなんてそこまで遠くない距離のはずで、過去に失敗したこともないのに、なぜか毎回緊張する。若干の手の震えが皿の中の黄金の衣を揺らし、天井灯に照らされたその光沢のある表面が食欲をそそる。
コトッ。
今回も何の障壁もなく、オムライス二機はテーブルへと無事着陸した。ついでキッチンに戻ってスプーンを取ってくる。机に並べる際、そのスプーンの形がやけに目に入った。
持ち手がプラスチックで、ピンク色のチェック柄が入った子供っぽい小さなスプーンと、顔がよく反射する全身銀色の無骨な通常サイズのスプーン。
……うーん。こっちかな。
二つを比べて、やっと若干小さいと思えるオムライスの近くに小さなスプーンを置く。九華はその対面に座って大きなスプーンを手に持ちつつ、彼が帰ってくるのを待つ。
と思ったら宣言通り、全てが置き終わった瞬間に彼がシンクの下で手を拭いているのが見えた。エプロンを解き、雑に近くの棚に押し込むと、よいしょ、と小さく呟いて眼前に座った。持ってきたケチャップを机にそっと立て、目線を下に降ろす。
「ふっ。まあいいわ」
スプーンを見るなり、鼻で笑った彼はそれ以上言及することなく手を合わせた。九華も同じく合わせて。
「それじゃ、いただきます」
「いただきます」
ボトルを渡される。九華が受け取り蓋を開けて、卵の上に赤い波線を残す。ペン捌きとはまた違う感覚。返して、佑哉がボトルを握る。節約を口癖にする彼だが、この時だけは躊躇うことなく豪快にケチャップをかけるのだ。蓋を閉めて、再びボトルが机に聳える。
お互いに匙を動かし、口に運んでいく。舌の上に広がる甘みと塩味。
「……おいしい」
「うまいな」
食器がぶつかる音がただ響く。部屋の中の一角で二つの湯気が上がり、それを夢中で頬張っている二人がいた。
その日の佑哉の手の進む速度は特に早かった。彼女に空腹感を聞いといて、実は自分が一番腹が減っていたというオチだろう。そんな彼の姿を見ながら、九華は一口一口ゆっくりと味わうように咀嚼する。また電車の通過音が背中を移動していく。
なんだか、静かだ。誰の話し声も聞こえて来ず、騒音すら無駄な音すら一切鳴らない、簡素な食卓。でもこれがいつもの日常だ。日常の、はず。今日はなぜいつもの日常にこんなに違和感を感じてしまうのだろう。
どこか寂しい。なぜだ。こんなに口に入ってくるオムライスは美味しくて、特別で、かけがえの無いもののはずなのに。
「……九華。なんで、泣いてんだ?」
「え?」
頬を指でなぞる。生暖かい一筋が、空気に触れてすぐに冷たくなっていた。無意識だ。焦って、思わず腕で目を擦る。
「あ、え、いや……あはは、なんでだろう。いつもより美味しかったからかな……」
口々に言葉を紡ぐが、涙は自分の意志とは反してぼろぼろと溢れる。いくら手で拭いても、また一つ、また一つと。
佑哉の手が止まり、曇り続ける顔が彼女を注視する。二人とも何も言えなくなって、向かい合うのみの数秒間。
「これが本当に君の望んでいた世界かい? 佑哉君?」
突然、兄の後ろから聞き慣れた声がした。彼女は顔を上げ、彼は振り返る。そこには、授業中の楽観的な雰囲気とはほど遠い神妙な表情を浮かべる、担任の尾崎先生が二人を見下ろすように立ち尽くしていた。
「先生がなんでここに……」
驚く九華とは対照的に、佑哉は気迫のこもった声を上げる。
「いつの間に……いたのか……」
教師服の袖を捲り、大きな身振り手振りを繰り出しつつ目線を九華へと向ける。彼女に向ける顔は微笑混じりで、少し得意げな印象。
「今となっては、こっちの姿の方が逆に馴染み深く無くなったのかな。瀬尾九華、またの名を、コンダク」
空気がしん、と張り詰める。




