第6話②:六連星
大分歩いてきた。部員の存在が点ですら見えなくなり、正真正銘灰白色の平坦な世界がそこにはあった。座り込み、膝を抱え、その膝に顔を埋めて座る。誰かに包まれているみたいだ。変な安堵感と共に、感情が溢れてくる。
必死に我慢していた叫喚、滂沱、嗚咽、全てが入り混じって柔らかな肌を通り、世界に出る。実際に出ているのは、声だけ。でも体の感覚としてはもっとどす黒い膿みたいなものをずっと地面に吐き垂らしている気分だった。
次から次へと湧き出てくる。もう大きな声で喚くことも出来ない。だけど自分の耳には劈かれて聴こえてきてしまう。動物の威嚇みたいな雄々しい唸りばかりを、か細く、汚く、絞り出す。こんな状況なのに、そういう自分の、女子中学生らしい可愛さやあどけなさみたいなのとはいかにも縁遠い、生来の特質に嘆息させられる。現実世界にいた頃ぶりだ。ああ。苦しい。けど、少し楽だ。顔がぐちゃぐちゃに荒れてきた感じがする。涙なんて出てないのに目が腫れた気がする。何も考えられない。短絡的な思考すら浮かばない。唸り声が出る。その流動性に身を任せた。全身がそのまま地面に沈んでいくのを感じた。
頭のかさに塵が積もって、若干の重さを感じる。どれくらい動いていないのか、忘れた。正確にははなから覚える気がなかった。彼らは、恐らく追ってきてない。声がしないからだ。ずっと膝と胴体で挟んで作った暗闇を見続けているから、それだけで判別している。
溢れる感情の爆発には、波があった。山を降りたり、登ったりの繰り返し。今はその沈降した地下世界を歩いている感覚で、非常に静かだ。濁音混じりの自分の泣き声が無いとこれほどかと思えるほど。そういえばそうだったな、とこの世界に初めて降り立った時の事を振り返る。
風が吹く。柔らかな風。全身を通り抜けて、空白だらけの世界の新たな空白へと流れていった。
その時、聞き覚えのある金属音が微かに聞こえた。
九華は、すぐに察した。一呼吸置いてから、顔も上げずに小さく呟く。
「いたんだ」
静黙。
嘆息を一つ。
「……私達を社から移動させたの、あんたでしょ?」
少し間を置いて、先ほど聞こえた金属音が大仰に音を立て近づいてきた。目だけは開けておく。でも、もう前抱えていた恐怖感など今ではどうでも良くなった。
多重の残響を持つ声が、頭の上から落ちてくる。
「見つかっていたか」
「ずっと、付いてきてたのね」
甲冑が揺れ、それも迫力の一部となる凛とした立ち姿。顎を膝の上に乗せて顔を出し、九華は黒光りするカムイの長身を見上げる。首を動かすのが面倒で、胴の上部までしか確認しなかった。
「なんであんなことしたのよ」
「あんなことって?」
「社から移動させたやつよ」
また一瞬、間が開く。
「嫌だったか?」
「嫌っていうか、気になるだけ。ただ純粋に」
カムイが彼女の座っている足を指す。
「足」
「え?」
「あの時、お前は歩けなかった。だからだ」
思ってもない答えが返ってきて、無意識に目を逸らす。未だ残響するその言葉に、なんだか恥ずかしくなって顎を膝に擦り付ける。
「別に……あの時も、歩けたわよ」
光景を思い出す。「耳」の社、最後に行った由依の社の場所だ。儀式が終わり、負のエネルギーに支配されて座り込んでいたあの時。
確かに、一人では歩けなかった。でも、由依が肩を支えてくれたから動けた。彼女だけじゃない。今までもそうだ。睡方も、想汰も、自分の持つ力を最大限使って新聞部を動かしてきてくれたじゃないか。
「心」の能力。遅い発現だったが、由依の社で確実にその能力が成長を遂げていることが感じられた。そして、ここに来る前。想汰に腕を掴まれた瞬間。彼の心内が見えた。意外、だった。でも、どこか嬉々としている自分もそこにはいた。
やはり、自分達は四人でなければならない。四人で共に歩まなければ。
でも。
それを阻む目の前の問題を思う度、呼吸が苦しくなる。全身が細かく振動する。
波が戻ってきたようだ。今にも泣き出しそうになる彼女を見下ろすカムイが、甲冑の音をさせながら腰に携えた柄に手をかけた。
「やはり、お前はここにいるべきではない。俺と一緒に現実世界に戻ろう」
剛健なその体つきに似合わない、酷く、優しい声色。次第に体を小さくして自分の膝への抱きつきを強くする彼女の心中を慮ったような。
「いやよ。前に、言ったでしょ」
ぐずる子供に似た、短い言葉を何個も繋いで拒否を示す態度がカムイを若干狼狽えさせる。その反射的な体の反応とは対照的に、カムイは九華の元へ足を半歩近づけた。
「わかってる。だから、お前の仲間も連れてくことにした」
「…………え?」
思わず顔を上げた。上げてしまっていた。
「……い、いいの?」
「お前が現実世界に戻ってくるなら、俺はなんでもいい」
鞘から刀を勢いよく引き抜く。空気を横に一閃。音を置き去りにする、一刹那の御業。
空間が裂け、紫色のヒビが目立つ小さな黒い渦が四つ生まれた。社から九華達を連れ去った時と同じ、あの渦。
カムイが手を掲げ、風切り音がするほど力強く振り下ろすと、そのうちの三つの渦が自分が歩いてきた方向へと瞬時に向かっていった。残った一つの渦を背に、カムイは刀を鞘に戻す。しゃがんで同じ目線になると、彼女の眼前に装甲が厳めしく一本一本の指が太い、大きな手を差し出した。
「行こう」
この、手を差し出される感覚。なんだか懐かしい気がする。記憶の隅できつく蓋をしていたという訳ではない、うたた寝から起きたばかりの既視感が彼女を包んだ。顔を上げ、その手を掴む。
暖かい。人肌の暖かさだ。鎧のはずなのに、なぜこんなに心が安らぎを感じるのか不思議なほど。
沈んでいる地面の一部から腰を引き剥がして、そのままゆっくりと上げる。倒れそうになる体をカムイが支えてくれて何なく立ち上がると、その眼前に見える渦の意味がようやく自分事に感じられてきた。
「本当に……帰れるの……?」
「ああ」
見上げたカムイの顔は、甲冑に包まれていて何の感情も読み取れなかった。けど、手の温もりだけでもう九華には十分だった。彼が歩き出すのに、呼応して彼女も足を進めた。
その時。
地面が揺れているのが、わかった。地響き。からの轟音。全身が揺れ、カムイですら立っていられないほどの状態で地面に膝をついた。彼女はそんな彼の体に掴まる。
二人の後方の地面が大きく割れると、地下から何やら大きな建造物が迫り上がってくる。その影響で盛り上がって落ちてくる地面を、カムイは引き抜いた刀で斬りつつ、九華に体を被せる。
その建造物が全身を現すまで、最初の地鳴りから一分もかかった。視界のほとんどを埋める四つん這いのポーズ。思わずスフィンクスと呼んでしまいそうになるが、彼は確か、シ、でありチトセだったはずだ。
砂埃を被った彼が、腹話術人形のように口をわざとらしく大きく動かす。
「君達、それ以上行ってはいけない。特にコンダクの君だ。他の三人も。君達には使命があるだろ、神様になるという重大な使命が」
動く度に体に乗っている岩や地面が、どすどすと地面に落ちて煙を舞わせる。その強い眼光と言葉に、九華は顔を俯かせた。
「…………」
カムイが彼女の肩を掴む。
「大丈夫だ。お前がそんなことをする義務なんてどこにもない。あいつに惑わされるな」
「カムイ!」
チトセが呼ぶと、彼は即座に振り返り、綺麗に彫られて整えられた巨大な顔に刀を突きつけた。チトセはその様子に嘆息する。吐いた息で辺りに砂塵が舞い上がり、空気中に散らばっていく。
「君は、他人の選択の権利を奪いすぎだ。彼女の運命というのは、彼女自身の意志で決めるものなんだよ」
「黙れ。お前にとっては、関係無い話だ」
「いいや、関係無い者などいない。これは世界の命運がかかっているんだ。今、現実世界に戻っても、そこは元いた世界なんかじゃないぞ。なにしろ、神様がいないんだからね」
「それって……どういうこと……?」
九華が立ち上がり、チトセへ投げかけた言葉をカムイは背中で制止する。
「あいつの話を鵜呑みにするな! くっ……渦が消えてしまう……! ほら行くぞ!」
刀を振り上げながらの彼に、思い切り腕を引っ張られる。余りの力と速さに抵抗する暇もなく、半ば引きずられる形で渦の方へと連れて行かれて。
「待て! カムイ、コンダク! そっちに行ってはならない!」
チトセは訴えるも、カムイは止まらない。渦へと段々と近づいていく二人。カムイの言葉通り、最初に開いた時よりも渦の円周が徐々に狭まってきており、焦燥感を感じさせる。
スフィンクスとして足を地面に固定されているため、その場から動くことの出来ない自分を恨めしそうに感じながら、チトセは何度も説いてくる。
神分に選ばれた者達の使命。神のいない現実世界。
そんな声がこだまする中、九華の頭の中でも先程の三人の議論が思い返された。現実世界に帰ることを拒んでいた、想汰と由依。彼らはそれゆえに、神様になりたいという信条を抱えていた訳で。
「見えるか? 君達の仲間だ」
カムイに言われて、もう渦のすぐ近くまで来ていたことにやっと気づく。渦の中の暗闇。続く深淵の奥に小さな三つの渦が見え、そこから、睡方、想汰、由依の三人が、白い光に包まれた人間の姿で目を瞑り、仰向けになって静かに落ちていくのが見えた。
九華はその光景を見て、より感じる。
もしかしたら、これ以上進んではいけないのではないかと。足が止まる。なんだか取り返しのつかないことをしてしまったような感覚が本能的に呼び覚まされる。
「カムイ……や、やっぱり……」
「時間がない! 行くぞ!」
彼の体に押されて、九華は渦の中へと落ちた。悲鳴さえすぐに吸収され、闇に体が包み込まれる感覚。コンダクの肌が光に包まれ、細々とした人間らしい四肢が眼下に広がった。
こんな、体だったっけ。
思考が止まっていく。生まれ変わるようにも思えるし、単なる入眠のようにも思える感覚。
意識が途切れる、その一歩手前。九華の後を落ちる、カムイの姿が目に入った。黒光りしていた甲冑が闇の中に白い光として溶けていく。瞬間、彼の顔が曝け出された。光でぼやけてしか見えない。顎まで長く伸びた黒い髪。均整のとれた角度でよく映える高い鼻。
もしかして。
そこで、全身が深淵へと墜ち、彼女も自然とそれに委ねた。
「なんであんな酷いこと言ったんだよ」
再び座り込んだ三人の、一番端。睡方がふてぶてしい声で、地面に手を付けながら先ほどまで取っ組み合った相手に問いかける。視線を向けるが彼はそれに合わせない。だけども自分に言われたのだと確実に理解しており、膝を抱え込む腕の力を強くしたのが肌の皺を見て分かる。
「全部、僕のせいだ」
「え?」
「現実世界からこの世界に送られてきた日。会議の終わった部室で、僕がみんなにお守りを割って渡してしまったから君達がここに来ることになってしまった。今こんな状況になっているのも、全て元を辿れば僕のせいさ。だから、」
「だから、ウチらを突き放して現実世界に帰そうとしたってわけ?」
由依の言葉に、想汰は思わず沈黙した。それは、ほとんど肯定しているのと同じだった。
「ずっと、考えていた。誰が神様になるべきか。でも、考えれば考えるほどその答えからは遠ざかっていた。いつからか誰がふさわしいかなんて前向きな考えから、誰がここに残るべきという消極的な考えに変わった。僕だと思った。君達を巻き込んだことへの、贖罪として背負うべき運命だと」
彼が向き直る。
「睡方、あんな事を言ってすまなかった」
「…………俺は良いけど」
言葉の奥に、意味を残した口ぶりをわざと行う。次に彼は由依の方へと体を向け。
「時原も、すまなかった」
「ウチ、そういうの言われ慣れてるから。大丈夫だよ」
「……尚更だ。すまない」
頭を深く下げる。これほど正直な想汰は初めてだった。由依は自然で柔らかな声色で返事をする。やはり不思議なもので、彼女の顔にはそれを構成するパーツが一切無いのにも関わらず笑顔が見えてくる。息を吐き切った彼を見計らいつつ、睡方はあぐらをかいていた足を組み直す。
「というか。もう一人謝らなきゃいけない奴がいるんじゃねぇの」
想汰はバツが悪いように、顔を俯かせる。ここにはいない、そのもう一人。今、彼女はどこにいるのだろうか。黙ったまま地面の砂の行方を視線で追うわけでもなく、ただ一点を見つめ続けている彼を見つつ、頭に浮かべてみる。タプを撫でる彼女の顔が少し動き。
「ずっと、気になってたんだけどさ。……想っちは、九っちのこと正直どう思うの」
「どう思うってなんだ」
「うーん……。……好きか嫌いかで言ったら、どっち、的な」
間が空く。
「…………今聞くことか」
「今だから、かな。こんなにゆっくり話す機会も現実世界では意外と無かったし、逆にこんなこと今しか聞けない気もするし。感覚的にだけど、想っちは部員の中でも特に九っちと言い合っているイメージが強くて。仲良しなのか険悪なのかわかんない〜って感じなんだよね」
再び、言葉と言葉が途切れる瞬間。九華の話になってからやけに多い。
「部長のことは……嫌いだ。今は」
由依が少し体を前に傾ける。
「今は? てことは、昔は好きだったってこと?」
「別に好きという感情ではない。ただ、尊敬はできた。あの耳にタコが出来るほど聞かされたり、見せられたりした、真実を求める態度が」
顔を下げ続けていた想汰が、天を仰いだ。ほんの僅か、だがしかし彼にとっては大きい、はっきりした声の強弱が言葉の上に現れた。
「物事の本質を常に捉え、大胆かつ冷静に動くその姿。信念の旗を掲げては一度も下ろさずに進み続ける帆船のようで、それは強く、美しかった。中学校に入り、半ば人生に影が指している自分に光をもたらしたのも、その彼女の矜持が書かれた新聞部のビラだった。だから僕はこの部に入部して、部長との対話を望んだ。……だけど、今の部長はもう昔の部長とは違う。真実から逃げ、あろうことかそれを隠そうとまでした。正直、大きな失望をした。そしてそれ以上に悲壮感があった。部長がそんなことを言うようになってしまったという、変化に」
話を聞きながら、無意識に繋いでいた自分の指と指に力が入る。怒りではない。寧ろ、どちらかと言えばその逆だ。
真実への追及心。それは、昔から変わらぬ彼女の全てだった。自分をクラスのいじめっ子から救ってくれた時もそう。授業で先生と論戦を繰り広げていた時もそう。頑固で、意地っ張りで、とにかく前に突き進む。でも、それが良さでもあったのだ。
今は、どうだ。誰よりも弱々しく、迷い続けている。真実なんて、知らなくて良かったとさえ口から溢した。
そんな今の九華は、悪い人間なのか。
「想汰は、九華に昔のように戻って欲しいと思うか」
「そりゃあ、なってほしいさ。でも分かってるんだ。……人は、一度変わってしまえば戻ることなど無いと」
吐き捨てる言葉が、彼の表情の曇りを暗に示す。変わってしまった人間。彼は恐らく彼の父のことを思い返していた。社で見た光景。睡方はフィルムを脳内で再生しつつ、体全体を彼の方に向ける。
「お前のお父さんは、確かに変わってしまった。でも彼は元に戻ろうともしていたんじゃないのか。別れた前の奥さんの写真を、いつも大事にデスクに置いていたように」
目の前の彼が息を呑む。ようやく目が合った。
「信じていた者を失った時が、人が本当に変わってしまう瞬間だと俺は思う。俺達は、四人で新聞部だ。四人でここまで、ずっと歩いてきたじゃないか。もし誰か一人でも欠ければ、それは今までみんなが信じてきた新聞部じゃなくなる。そうなれば、九華ももう真実を追おうとなんてしなくなる。そしてそれは想汰以外の、誰が欠けてもそうだ」
二人の顔を見てから、知らない場所に続く長い一本の足跡の道をも視界に入れた。
「四人は、ずっと一緒だ。今までも、そしてこれからも」
二人が頷き、それに力強く頷き返す。
自分で、神様になるべきは俺だ、と言い放ってしまったほんの少し前の自分を悔やむ。もっと早く気づいていれば、九華が傷を追うこともなかっただろうに。
「…………しかし、どうするんだ。部長が言っていたように、四人で現実世界に帰る方法でも見つけるか? この二日で」
「九っちが帰ってくるまでは、とりあえずウチらで話し合おう。結論は、ちゃんと四人で決めないと」
いつ帰ってくるかなど分からない。でも、三人の心の奥底は確かに通じ合っていた。
今度は、自分達が彼女の居場所になるべきだと。彼女が安心して帰って来れる場所を作らなければならないのだと。
タプが由依の膝の上から飛び上がり、三人の周囲を駆け回る。
「タプ! タプ!」
「タプちゃんも賛成だって」
「よし、そうしよう。あと……もう一つ。もし部長が帰ってきたら静かに教えてくれ。僕が一番最初に言葉をかけに行く」
「…………わかった」
彼の鋭くも覚悟の決まった視線に、睡方は吐く息多くに了解した。
「それじゃ、また話し合いを始めよう。えっと、まずは、」
本当に一瞬、顔を地面に下げ、上げ直した時だった。
向かい合って座っていた由依が、その瞬間黒色の渦に吸い込まれて体を消したのだ。
「なんだ、こぉ」
先に異変に気づいた想汰が声を上げつつも、その声ごと別の渦に飲み込まれてまたもや体を消す。
何が起きている。思わず立ち上がるも、後ろにそれはもう近づいていた。反射的に逃げようと一歩目を踏み出した瞬間。渦は彼の体を飲み込んでいき、創界から綺麗に消してしまった。
「タ、タプ!? タプ! タプ!」
余りに一瞬の出来事。渦自体もすぐに消え、突然、更地に取り残されたタプがその桃色の体で地面を飛び跳ねつつ、半ば混乱状態でとにかく鳴き声を叫び散らかす。タプ、タプ、と何度も呼んでみるがもちろん返事は返ってこない。先ほどの喜びを含んだ柔らかな鳴き声とは異なる、よく研がれた激しめの声が響く。
タプは地面をその前足で謎に掻きむしる。助けようにも方法が分からず、ぶつける気持ちの先も無いゆえの。だがそれは無意味とすぐに理解し、やめた。ただのブタとはこういう所が違う。
すぐにタプはその桃色の体を、ある場所に向かって走り出させた。九華の作った足跡を手がかりに、その隣を平行に駆けて行く。緊急事態だ。彼女に助けを求めざるを得ない。そう思ったタプは、とにかく自分の持てる全速力を出した。進む。進む。大きく進む。通る所に砂塵が吹き出し、それをもろともせず、更に速度を上げ続けた。
チトセは、収縮していく渦を見ながら頭を抱える。
「くっ……! この足がほんの少し動くだけでいいのに……!」
重みで一切動かない体を見て嘆く始末。だがこのまま指を咥えて見ている訳にいかない。渦は今まさに閉じようとしている。何か手を打たなければ。
そんな時。視界の奥で、砂塵の嵐がこちらに向かってくるのが見えた。
「ん? もしかして……」
一縷の望みが、その無駄に大きく作られた頭の中に浮かぶ。彼は手を振って声を張り上げた。
「おーい! タプー! こっちに来てくれー! コンダク……だと分かりづらいか。九華が不味いことになってるんだよー!」
大声を出したのが功を奏して、駆ける桃色の体は速度を目に見えて上げた。どうやら九華の足跡をお利口に辿ってきたらしい。ほとんど突っ込んできそうな勢いで迫ってきたと思えば、前足を器用に地面に食い込ませ、煙を上げてチトセの目の前で止まった。
「タプ! タプ、タプ!」
「あ〜……。やっぱりそっちも全員攫われたのか……! よし、説明は後だ。タプ! 背中に乗って、僕の頭をそこの渦に思いっきり飛ばしてくれ」
「タプ!」
砂に塗れた巨体の足、背中を自慢の脚力で飛び上がっていき、タプはすぐにその広大なチトセの背中に上ってきた。渦が徐々に小さくなる。
「さぁ早く! あれが消える前に!」
言われてタプは、背中の上で助走をつける。ほとんど腰の部分まで体を後退りさせ、そして思いっきり足で蹴って走り出す。背中に感じる蹄の生命感。一歩、二歩と始まってしまえば早く、そのまま飛び上がると勢いよく彼の頭に頭突きをかました。それにより、ほとんど一直線上にチトセの頭が渦に向かって飛んでいく。断末魔を上げつつも入り込むことに成功。瞬間、巨大だった頭が渦の中で収縮し、人間の頭とほとんど同じ大きさになった後タプの方へと向いた。
「さあ、君もこっちに!」
軽薄な声が深淵に飲み込まれる。タプは、簡単に後退すると先ほどよりも半分の助走でもはや単なる砂の像となった背中を駆けていく。そして、飛んだ。縮んでいく渦。ほとんど空気に溶けるその瞬間と共に、桃色の体が中へと入り込んだ。
そして、渦が完全に消える。
生気の失せた首の無い砂像のみが残るそこには、これまでに無い静寂が辺りを掌握していた。




