第7話 じゃあ今する?
和也が夜勤に入ることは、そう多くなかった。普段は夕方から夜までが中心で、夜勤を頼まれるのは人が足りない時くらいだ。その頃は高校時代の友人たちと始めたゲームで朝まで起きていることも増え、気づけば窓の外が明るくなっていた、なんて日も珍しくなかった。
――まあ、大丈夫だろ。
夜中まで起きていること自体には慣れている。頼まれた時も、その程度にしか考えていなかった。
その日は夕方から雨だった。夜になる頃にはかなり強くなり、ファミリーレストラン「ベルシード」の窓を雨粒が絶えず叩いていた。駐車場にもほとんど車がない。
夜勤は和也と副店長のナオの二人だった。ナオは26歳。きれいめな顔立ちで、性格はさっぱりしている。社員だからと偉そうにすることもなく、和也が軽口を叩けば普通に返してくる。多少の下ネタなら笑って流すくせに、仕事には細かい。
和也が入ったばかりの頃にも、皿を重ねながら言われたことがある。
「食器もさ、お客様に出す料理の一部だから。雑に扱わないでね」
ナオ自身、その言葉どおり食器を雑に扱うことはほとんどなかった。だから、その音がしたとき、和也はすぐに顔を上げた。
ガシャン。
「あっ」
ホールから戻ってきたナオの手から皿が一枚落ちた。床に当たったものの、幸い割れはしなかった。ナオはしゃがんで拾い上げ、そのまま洗い場へ置く。
「珍しいっすね」
「何が?」
「ナオさんが皿落とすの、珍しいなって」
「私だって落とすことくらいあるよ」
「いや、まあ、そりゃそうですけど」
いつもなら、ここで何か一言返ってくる。だが、ナオはそれだけ言うとホールへ戻っていった。和也はその背中を見送り、少しだけ首を傾げた。
その日の店は、妙に静かだった。深夜なら客が少ないこと自体は珍しくない。それでも一組くらいは入ってくるものだが、大雨のせいか、夜勤に入ってから入口の自動ドアは一度も開いていない。客がいなければ料理も出ず、洗い物も増えない。
二人で普段なら後回しにするような場所まで掃除し、補充を確認して、それでも時間が余った。
ホールから戻ってきたナオに、和也は今度は直接聞いた。
「ナオさん、今日なんか変じゃないっすか?」
「変って何が?」
「なんかありました?」
「別に」
「ふーん」
そう言われれば、それ以上聞くこともない。和也は布巾を持ったまま厨房へ戻った。
しばらくして、今度はナオの方から口を開いた。
「ねえ、和也」
「はい?」
「私、彼氏いるじゃん」
「いますね」
「たぶん浮気してる」
和也の手が止まった。
「え、マジっすか?」
「知り合いから聞いたんだよね。あいつ、別の女と会ってるんじゃないかって」
「噂とかじゃないんすか?」
「最初はそう思ったんだけどさ」
ナオはカウンターにもたれながら、少し眉を寄せた。
「気になって見ちゃったんだよね。SNS」
「彼氏の?」
「うん。そこに女がいてさ」
頻繁にやり取りしている女がいたらしいが、それだけなら友人とも取れる。だが、書き込みには『この前楽しかったね』なんてものまであったという。
「それだけなら、まだ何とも言えなくないっすか?」
「私もそう思いたかったんだけどね」
「なんかあったんすか?」
「その日、あいつ『職場の人と飲み会だから帰れないかも』って言ってた」
「……あー」
「それがちょうどその日なの」
「それはだいぶ黒くないっすか」
「でしょ?」
そう返す声には、いつもの軽さがなかった。
「彼氏には言ったんすか?」
「まだ。なんて言えばいいか分かんないんだよね」
「そのまま聞けばよくないっすか?」
「簡単に言うねえ。聞いて認められてもムカつくし、嘘つかれてもムカつくでしょ」
「あー……それは確かに」
「だからずっとモヤモヤしてんの」
そこで和也は、さっき落ちた皿を思い出した。
「だから今日変だったんすね」
「皿一枚落としただけでよく分かるね」
「だって俺が新人の時、食器大事にしろってナオさん言ってたじゃないっすか」
「そんなの覚えてんの?」
「俺、一応ちゃんと仕事してるんで」
「一応って自分で言うな」
ようやくナオが、いつもの調子で笑った。
そこからしばらく彼氏の話を聞いたが、和也にこういう時どうすればいいのか分かるはずもない。そもそも自分だって、女性との関係をきれいに整理できているわけではなかった。だから深く考えず、半分冗談で言った。
「じゃあナオさんも一回浮気すればいいんじゃないっすか?」
「は?」
「復讐ですよ。一回浮気して、それをずっと彼氏に黙っとくんすよ」
「性格悪っ」
「彼氏が先にやってるならいいじゃないっすか」
「よくそんなこと思いつくね」
「で、向こうにはずっと言わない。その方が効きそうじゃないっすか」
「最低だなあ」
ナオの声は軽かった。和也も、話はそこで終わったつもりだった。
厨房へ戻ろうとした時だった。
「じゃあ今する?」
和也の足が止まった。振り返る。
「……え?」
「浮気」
「いや、誰とっすか?」
ナオは少し呆れた顔をした。
「ここに今、誰がいるの?」
「俺とナオさん」
「じゃあ分かるでしょ」
「……マジで言ってます?」
「嫌ならいいよ」
「嫌とは言ってないっすけど」
「じゃあいいじゃん」
「いやいやいや」
それでもナオの調子は軽く、和也には冗談なのか本気なのか、まだ半分くらい分からなかった。
和也は入口の方を見た。駐車場に車はなく、外では雨だけが降り続けている。
「和也」
「はい?」
「ここから入口見えるよね?」
「見えますけど」
「じゃあ見てて」
「何を?」
「お客さん来ないか」
そこまで言われて、和也もようやく冗談ではないと分かった。
「……マジかよ」
「何?」
「いや、何でもないっす」
雨音に紛れて、客のいない店内には普段なら聞こえない声や物音がしばらく漏れた。
「ちょ、ナオさん」
「……なに」
「声出すなよ。客来たらどうすんすか」
「分かってる……」
「全然分かってないじゃないっすか」
しばらくして、ナオはカウンターに手をついたまま動かなくなった。
「……ちょっと待って」
「大丈夫っすか?」
「足に力入んない」
「知らないっすよ」
「誰のせいだよ」
「『今する?』って言ったのナオさんじゃないっすか」
「和也が変なこと言うからでしょ」
「俺、提案しただけっすよ」
「ほんと最悪」
そう言いながらも、ナオの声は明るかった。幸い、その間も入口の自動ドアが開くことはなく、結局、朝まで客は一人も来なかった。
少し休んだ後、二人で片付けを始めた。店はほとんど汚れていなかったが、朝番へ渡すため、いつもの手順で確認していく。
片付けの途中、ナオが思い出したように言った。
「そういえばさ」
「はい?」
「和也って、ミホとできてるの?」
「できてはいませんよ」
「ふーん」
「なんすか、その『ふーん』」
「別に?」
「よく分かんないこと言ってると、さっきみたいにまた足ガクガクにしますよ?」
「やめて。これ以上したら死んじゃうから」
「大げさっすよ」
「誰のせいだと思ってんの」
「だからナオさんが――」
「はいはい、もういい」
外が明るくなり始めた頃、朝番の二人が出勤してきた。そのうちの一人がカオリだった。
「おはようございまーす」
カオリの声が静かな店内に響いた。
「おはよ」
ナオが返し、和也も厨房から声をかけた。
「おはよう」
和也はもう一人の朝番に厨房を、ナオはカオリにホールを引き継いだ。客が一人も来なかったことや、補充した物、掃除した場所など、必要なことを伝え終えたところで、カオリがナオの顔を見た。
「あれ? ナオさん、夜勤明けなのに元気じゃないですか?」
「まあね」
「なんかいいことあったんですか?」
「別に何もないよ」
「ふーん」
和也が更衣室へ向かいかけて何となく振り返ると、ナオがこちらを見ていた。目が合うと、すぐに視線を外す。その横で、カオリがナオを見て、それから和也を見た。
「……?」
カオリが少しだけ首を傾げた。
◇
次に一緒のシフトに入ったときも、それまで通りだった。
「おはよ」
「おはようございます」
「今日キッチンね」
「了解っす」
店の外で会うこともなければ、付き合うという話も出なかった。あの夜のことを理由に、どちらかが何かを求めることもない。
何か月か経った頃、ナオの異動が決まった。社員の異動は珍しいことでもなく、和也も聞いた時は「そうなんすね」と返しただけだった。
最後の勤務日も、ナオはいつも通りだった。
「じゃあね。ちゃんと働きなよ」
「俺、めっちゃ働いてるじゃないっすか」
「大学もちゃんと行きな」
「それは別の話っす」
「別じゃないでしょ」
「ナオさん、最後までそれ言うんすね」
「副店長だからね」
「もうここの副店長じゃなくなるじゃないっすか」
「細かい」
ナオが笑った。
「じゃ、お疲れさまでした」
「うん。和也も元気でね」
ナオが離れていき、和也も帰ろうとしたところで、後ろから肩を掴まれた。
「和也」
振り返ると、リョウが妙に真剣な顔で立っていた。
「何?」
「今日、絶対飲みに行くぞ」
「なんで?」
「ふざけんな、分かってんだろ? いいから」




