↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
10/22

第8話 ほんとだもん

 和也が平日のシフトに入ると、昼間から働いている主婦たちと顔を合わせることがあった。


 その中でも、和也がよく話すようになったのがマキだった。ボブの髪に細身の体型で、見た目だけなら三十代前半くらいにしか見えない。


「え、マジっすか?」


「何が?」


「マキさん、もう四十近いんすか?」


「もうって何よ」


「いや、もっと若いと思ってました」


「やだ。和也、私のこと狙ってんの?」


「なんでそうなるんすか」


「こんなおばちゃん狙ってもダメだよ?」


「誰も狙わないっすよ」


「ひどっ!」


 マキは声を上げて笑った。


 ただ、こういうことを言うのは和也にだけではない。若い男のバイトが近くに来れば、


「ちょっと。そんな近く来たって、こんなおばちゃん狙ってもダメだからね?」


「誰も狙わないわ」


「失礼だな!」


 だいたいそんなやり取りになる。


 ある時も、近くにいた男のバイトが同じように返したところへ、リョウが口を挟んだ。


「いや、俺は狙ってますけどね」


「お前はダメだからね」


「なんでだよ!」


「なんかダメ」


「理由雑すぎるだろ!」


 周りから笑いが起きた。近くで作業をしていたエミも口を挟む。


「リョウ、振られてんじゃん」


「振られてねえよ。まだ始まってもねえよ」


「始まることもないから」


「マキさんひどくない?」


「日頃の行い」


「俺、めちゃくちゃ真面目じゃん」


「それ自分で言う人は信用できないからね」


 エミはマキと同じ平日組で、子どものいるシングルマザーだった。普段から二人はよく喋っていて、揃うと厨房の中が一気に騒がしくなる。


 マキは雰囲気こそ柔らかいが、とにかくよく喋る。仕事中も手は止まらないのに、口もほとんど止まらない。常連客ともすぐ話し込み、バイトにも遠慮なく絡んだ。距離感も近く、和也が料理を運ぼうとしていると、後ろから尻を叩かれることもある。


「ほら、ボーッとしてないで動く!」


「今動いてるじゃないっすか」


「もっと早く」


「尻叩く必要あります?」


「気合い入るでしょ」


「入らないっすよ」


「若いんだからシャキッとしなさい」


「マキさんに言われたくないっす」


「どういう意味?」


「そのままっす」


「もう一発いっとく?」


「やめてください」


 口では好き放題言うが、仕事はできた。平日の昼はほとんどリーダー役で、和也がその時間帯に入り始めた頃には、仕事もかなり教えてもらっていた。


「分かんないなら聞いてね。勝手にやって失敗する方が面倒だから」


「はい」


「これ補充する時は古い方を前にして」


「了解っす」


「返事だけはいいんだよなあ」


「ちゃんとやってるじゃないっすか」


「そういうことは一人前になってから言いなさい」


 失敗しても頭ごなしに怒鳴るような人ではなく、和也にとっても気を遣わず話せる相手だった。


 ある日、バイトの何人かでカラオケへ行くことになった。最初は五人ほどだったが、途中から何人か合流し、気づけば八人近くまで増えている。店までは少し距離があるため、車を出せる者の車に分乗して向かうことになり、マキも車を出した。


 ミホも来ていたし、エミもいた。


 ミホがリモコンを差し出した。


「和也、次これ歌ってよ」


「知らねえよ、この曲」


「知ってるって言ってたじゃん」


「言ってねえよ」


「絶対言った」


「じゃあミホ歌えよ」


「私は聴きたいだけ」


「ずるくない?」


 そんなことを言いながら曲を入れ、誰かが歌えば別の誰かが勝手にハモる。サビだけ知っている人間が急にマイクを奪い、歌っていた本人に怒られる。


「ちょっと、それ私が歌ってんだけど!」


「サビだけ貸してくださいよ」


「嫌だよ!」


 マキは店にいる時と変わらず、よく喋っていた。知らない曲でも手を叩き、誰かが黙っていればすぐ話しかける。人数が増えても、マキがいると変に静かになることはなかった。


 途中、ミホが時計を見た。


「あ、私そろそろ行かなきゃ」


「もう帰んの?」


「別の用事あるんだよね」


「何それ。男?」


 マキが即座に食いついた。


「違います!」


「怪しいなあ」


「ほんとに違いますって」


 ミホは笑いながら荷物をまとめ、先に帰っていった。


 エミもその少し後に立ち上がった。


「私もそろそろ帰る」


「エミも?」


「明日もあるし。あんまり遅くなると面倒だから」


「お母さん大変だねえ」


「マキに言われたくない」


「私はもう娘でかいから」


「はいはい」


 エミも荷物を持って帰った。


 そこからさらに一人、また一人と抜けていき、最後に残ったのは四人だった。店を出た頃には、かなり遅い時間になっていた。


「じゃあ送ってくよ」


 車で来ていたマキが、残っていたメンバーを順番に送ることになった。家の方向の都合で、和也は最後だった。


 一人を送り、しばらく走ってもう一人の家に着いた。


「お疲れー」


「お疲れさまでした」


 最後の一人が降りてドアが閉まり、車が走り出した。車内には和也とマキだけが残った。


「疲れたー」


「マキさん、あんだけずっと喋ってれば疲れるでしょ」


「和也だって喋ってたじゃん」


「マキさんほどじゃないっす」


「私、今日静かだったよ?」


「どこがっすか」


「いつもの半分くらい」


「じゃあ普段どんだけ喋ってんすか」


 何時間も一緒にカラオケにいたはずなのに、二人になっても会話は途切れなかった。店や他のバイトの話をしているうちに、話題はマキの家族へ移っていった。


「うちの娘もさあ、最近帰ってくるの遅いんだよね」


「娘さんって何歳でしたっけ?」


「十九」


「俺とそんな変わんないじゃないっすか」


「そうだよ」


「もう彼氏とかいるんすか?」


「いるいる」


「へえ」


「この前なんかさ、部屋入ったらゴムの袋落ちてて」


「え?」


 和也は一瞬黙ったあと、吹き出した。


「いや、それ親に見つかるのキツいっすね」


「でしょ? 私も見つけた瞬間固まったもん」


「本人には言ったんすか?」


「言ってない」


「言わないんすね」


「だって十九だよ? 私が何言ったって、やる時はやるでしょ」


「まあ、そりゃそうっすけど」


「ちゃんと使ってるなら、まあいいかなって」


「寛大っすね」


「でも、せめて片付けろとは思った」


「それはそうっすね」


 マキ相手なら、下ネタになること自体は珍しくない。


「そういや俺、普通にイケればいいんすけどね」


「どういうこと?」


「俺、ゴムしても生でしても、全然イケないんすよ」


「時間かかるってこと?」


「いや、時間かけても普通に無理っす」


「毎回?」


「ほぼ」


「相手変わっても?」


「変わってもっすね」


「へえー」


 マキが少し驚いたように横目で見た。


「じゃあ、途中でやめんの?」


「まあ、だいたい女の子が何回かイって、俺がまだ終わんないから疲れて終わる感じっすね」


「何それ」


「俺が聞きたいっすよ」


「和也は疲れないの?」


「疲れますよ。普通に」


「大変じゃん」


「そうなんすよね」


「でも口ならいけるんじゃないの?」


「それも無理っすね」


「それも?」


「無理っす」


「ふーん」


 少しだけ間が空いたところで、信号が赤になって車が止まった。


 マキは前を向いたまま言った。


「私うまいよ?」


「何がっすか?」


「口でするの」


「自分で言います?」


「ほんとだもん」


「いやいや、自称じゃないっすか」


「違うよ。ほんとにうまいの」


「自信すごいっすね」


「あるもん」


「マジっすか」


「マジ」


 普段から誰にでも「こんなおばちゃん狙っちゃダメ」と言って笑っている人だ。和也には、これもいつもの下ネタの延長にしか聞こえなかった。


 だから和也も、いつもの調子で返した。


「俺イカせられたら、神として崇めますよ」


「ほんと?」


「マキ様って呼びます」


「言ったね?」


「言いましたよ」


 信号が青になり、マキはそのまま車を走らせた。


 しばらくして、ウインカーが点いた。


「あれ?」


「何?」


「俺んち、そっちじゃないっすよ」


「うん」


「どこ行くんすか?」


「ホテル」


「……え?」


 和也はマキの横顔を見た。


「マジで?」


「何が?」


「さっきの話」


「試してみるんでしょ?」


「いや、あれ冗談じゃなかったんすか?」


「和也が神として崇めるって言ったんじゃん」


「言いましたけど」


「じゃあ決まり」


「いやいやいや」


「嫌なの?」


「いや、嫌じゃないっすけど」


「じゃあ問題ないじゃん」


 マキはそのまま車を走らせた。和也はまだ半分冗談のつもりだったが、マキは本当にホテルへ向かっていた。


 その夜、二人は一線を越えた。


     ◇


 次に平日のシフトで顔を合わせた時も、マキはいつも通りだった。


「和也、これ運んで」


「はいはい」


「返事は一回」


「はい」


「素直でよろしい」


 横を通れば尻も叩かれた。


「痛っ。何すんすか」


「気合い」


「それ絶対関係ないっすよね」


「あるある」


 店の外で二人きりで会うこともなく、関係を持ったのもその一度だけだった。ただ、それからマキの下ネタに一つだけ定番が増えた。


 ある日の休憩中、何人かでくだらない話をしていた時だった。


「和也は大変だよねえ」


 マキが突然言った。


「何がっすか?」


「お前、ド遅漏だもんな」


「うるさいっすよ」


 周りが笑った。


「またマキさん始まった」


「ほんと下ネタ好きだよね」


「何よ。本当じゃん」


「うるさいっすよ」


     ◇


 別の日、仕事が一段落し、たまたま厨房に二人だけになった時だった。


「そういやマキさん」


「何?」


 和也はマキの方を見た。


「俺、まだマキ様って呼んでないっすね?」


 一瞬、マキの動きが止まった。


「……うるさい」


「あれ? 神として崇める約束じゃなかったっすか?」


「うるさいって」


「おかしいなあ」


「和也」


「はい?」


「黙れ」


「痛っ!」


 すれ違いざまに尻を叩かれた。


 和也が振り返ると、マキはもう何事もなかったように仕事へ戻っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。