第8話 ほんとだもん
和也が平日のシフトに入ると、昼間から働いている主婦たちと顔を合わせることがあった。
その中でも、和也がよく話すようになったのがマキだった。ボブの髪に細身の体型で、見た目だけなら三十代前半くらいにしか見えない。
「え、マジっすか?」
「何が?」
「マキさん、もう四十近いんすか?」
「もうって何よ」
「いや、もっと若いと思ってました」
「やだ。和也、私のこと狙ってんの?」
「なんでそうなるんすか」
「こんなおばちゃん狙ってもダメだよ?」
「誰も狙わないっすよ」
「ひどっ!」
マキは声を上げて笑った。
ただ、こういうことを言うのは和也にだけではない。若い男のバイトが近くに来れば、
「ちょっと。そんな近く来たって、こんなおばちゃん狙ってもダメだからね?」
「誰も狙わないわ」
「失礼だな!」
だいたいそんなやり取りになる。
ある時も、近くにいた男のバイトが同じように返したところへ、リョウが口を挟んだ。
「いや、俺は狙ってますけどね」
「お前はダメだからね」
「なんでだよ!」
「なんかダメ」
「理由雑すぎるだろ!」
周りから笑いが起きた。近くで作業をしていたエミも口を挟む。
「リョウ、振られてんじゃん」
「振られてねえよ。まだ始まってもねえよ」
「始まることもないから」
「マキさんひどくない?」
「日頃の行い」
「俺、めちゃくちゃ真面目じゃん」
「それ自分で言う人は信用できないからね」
エミはマキと同じ平日組で、子どものいるシングルマザーだった。普段から二人はよく喋っていて、揃うと厨房の中が一気に騒がしくなる。
マキは雰囲気こそ柔らかいが、とにかくよく喋る。仕事中も手は止まらないのに、口もほとんど止まらない。常連客ともすぐ話し込み、バイトにも遠慮なく絡んだ。距離感も近く、和也が料理を運ぼうとしていると、後ろから尻を叩かれることもある。
「ほら、ボーッとしてないで動く!」
「今動いてるじゃないっすか」
「もっと早く」
「尻叩く必要あります?」
「気合い入るでしょ」
「入らないっすよ」
「若いんだからシャキッとしなさい」
「マキさんに言われたくないっす」
「どういう意味?」
「そのままっす」
「もう一発いっとく?」
「やめてください」
口では好き放題言うが、仕事はできた。平日の昼はほとんどリーダー役で、和也がその時間帯に入り始めた頃には、仕事もかなり教えてもらっていた。
「分かんないなら聞いてね。勝手にやって失敗する方が面倒だから」
「はい」
「これ補充する時は古い方を前にして」
「了解っす」
「返事だけはいいんだよなあ」
「ちゃんとやってるじゃないっすか」
「そういうことは一人前になってから言いなさい」
失敗しても頭ごなしに怒鳴るような人ではなく、和也にとっても気を遣わず話せる相手だった。
ある日、バイトの何人かでカラオケへ行くことになった。最初は五人ほどだったが、途中から何人か合流し、気づけば八人近くまで増えている。店までは少し距離があるため、車を出せる者の車に分乗して向かうことになり、マキも車を出した。
ミホも来ていたし、エミもいた。
ミホがリモコンを差し出した。
「和也、次これ歌ってよ」
「知らねえよ、この曲」
「知ってるって言ってたじゃん」
「言ってねえよ」
「絶対言った」
「じゃあミホ歌えよ」
「私は聴きたいだけ」
「ずるくない?」
そんなことを言いながら曲を入れ、誰かが歌えば別の誰かが勝手にハモる。サビだけ知っている人間が急にマイクを奪い、歌っていた本人に怒られる。
「ちょっと、それ私が歌ってんだけど!」
「サビだけ貸してくださいよ」
「嫌だよ!」
マキは店にいる時と変わらず、よく喋っていた。知らない曲でも手を叩き、誰かが黙っていればすぐ話しかける。人数が増えても、マキがいると変に静かになることはなかった。
途中、ミホが時計を見た。
「あ、私そろそろ行かなきゃ」
「もう帰んの?」
「別の用事あるんだよね」
「何それ。男?」
マキが即座に食いついた。
「違います!」
「怪しいなあ」
「ほんとに違いますって」
ミホは笑いながら荷物をまとめ、先に帰っていった。
エミもその少し後に立ち上がった。
「私もそろそろ帰る」
「エミも?」
「明日もあるし。あんまり遅くなると面倒だから」
「お母さん大変だねえ」
「マキに言われたくない」
「私はもう娘でかいから」
「はいはい」
エミも荷物を持って帰った。
そこからさらに一人、また一人と抜けていき、最後に残ったのは四人だった。店を出た頃には、かなり遅い時間になっていた。
「じゃあ送ってくよ」
車で来ていたマキが、残っていたメンバーを順番に送ることになった。家の方向の都合で、和也は最後だった。
一人を送り、しばらく走ってもう一人の家に着いた。
「お疲れー」
「お疲れさまでした」
最後の一人が降りてドアが閉まり、車が走り出した。車内には和也とマキだけが残った。
「疲れたー」
「マキさん、あんだけずっと喋ってれば疲れるでしょ」
「和也だって喋ってたじゃん」
「マキさんほどじゃないっす」
「私、今日静かだったよ?」
「どこがっすか」
「いつもの半分くらい」
「じゃあ普段どんだけ喋ってんすか」
何時間も一緒にカラオケにいたはずなのに、二人になっても会話は途切れなかった。店や他のバイトの話をしているうちに、話題はマキの家族へ移っていった。
「うちの娘もさあ、最近帰ってくるの遅いんだよね」
「娘さんって何歳でしたっけ?」
「十九」
「俺とそんな変わんないじゃないっすか」
「そうだよ」
「もう彼氏とかいるんすか?」
「いるいる」
「へえ」
「この前なんかさ、部屋入ったらゴムの袋落ちてて」
「え?」
和也は一瞬黙ったあと、吹き出した。
「いや、それ親に見つかるのキツいっすね」
「でしょ? 私も見つけた瞬間固まったもん」
「本人には言ったんすか?」
「言ってない」
「言わないんすね」
「だって十九だよ? 私が何言ったって、やる時はやるでしょ」
「まあ、そりゃそうっすけど」
「ちゃんと使ってるなら、まあいいかなって」
「寛大っすね」
「でも、せめて片付けろとは思った」
「それはそうっすね」
マキ相手なら、下ネタになること自体は珍しくない。
「そういや俺、普通にイケればいいんすけどね」
「どういうこと?」
「俺、ゴムしても生でしても、全然イケないんすよ」
「時間かかるってこと?」
「いや、時間かけても普通に無理っす」
「毎回?」
「ほぼ」
「相手変わっても?」
「変わってもっすね」
「へえー」
マキが少し驚いたように横目で見た。
「じゃあ、途中でやめんの?」
「まあ、だいたい女の子が何回かイって、俺がまだ終わんないから疲れて終わる感じっすね」
「何それ」
「俺が聞きたいっすよ」
「和也は疲れないの?」
「疲れますよ。普通に」
「大変じゃん」
「そうなんすよね」
「でも口ならいけるんじゃないの?」
「それも無理っすね」
「それも?」
「無理っす」
「ふーん」
少しだけ間が空いたところで、信号が赤になって車が止まった。
マキは前を向いたまま言った。
「私うまいよ?」
「何がっすか?」
「口でするの」
「自分で言います?」
「ほんとだもん」
「いやいや、自称じゃないっすか」
「違うよ。ほんとにうまいの」
「自信すごいっすね」
「あるもん」
「マジっすか」
「マジ」
普段から誰にでも「こんなおばちゃん狙っちゃダメ」と言って笑っている人だ。和也には、これもいつもの下ネタの延長にしか聞こえなかった。
だから和也も、いつもの調子で返した。
「俺イカせられたら、神として崇めますよ」
「ほんと?」
「マキ様って呼びます」
「言ったね?」
「言いましたよ」
信号が青になり、マキはそのまま車を走らせた。
しばらくして、ウインカーが点いた。
「あれ?」
「何?」
「俺んち、そっちじゃないっすよ」
「うん」
「どこ行くんすか?」
「ホテル」
「……え?」
和也はマキの横顔を見た。
「マジで?」
「何が?」
「さっきの話」
「試してみるんでしょ?」
「いや、あれ冗談じゃなかったんすか?」
「和也が神として崇めるって言ったんじゃん」
「言いましたけど」
「じゃあ決まり」
「いやいやいや」
「嫌なの?」
「いや、嫌じゃないっすけど」
「じゃあ問題ないじゃん」
マキはそのまま車を走らせた。和也はまだ半分冗談のつもりだったが、マキは本当にホテルへ向かっていた。
その夜、二人は一線を越えた。
◇
次に平日のシフトで顔を合わせた時も、マキはいつも通りだった。
「和也、これ運んで」
「はいはい」
「返事は一回」
「はい」
「素直でよろしい」
横を通れば尻も叩かれた。
「痛っ。何すんすか」
「気合い」
「それ絶対関係ないっすよね」
「あるある」
店の外で二人きりで会うこともなく、関係を持ったのもその一度だけだった。ただ、それからマキの下ネタに一つだけ定番が増えた。
ある日の休憩中、何人かでくだらない話をしていた時だった。
「和也は大変だよねえ」
マキが突然言った。
「何がっすか?」
「お前、ド遅漏だもんな」
「うるさいっすよ」
周りが笑った。
「またマキさん始まった」
「ほんと下ネタ好きだよね」
「何よ。本当じゃん」
「うるさいっすよ」
◇
別の日、仕事が一段落し、たまたま厨房に二人だけになった時だった。
「そういやマキさん」
「何?」
和也はマキの方を見た。
「俺、まだマキ様って呼んでないっすね?」
一瞬、マキの動きが止まった。
「……うるさい」
「あれ? 神として崇める約束じゃなかったっすか?」
「うるさいって」
「おかしいなあ」
「和也」
「はい?」
「黙れ」
「痛っ!」
すれ違いざまに尻を叩かれた。
和也が振り返ると、マキはもう何事もなかったように仕事へ戻っていた。




