第9話 彼氏と別れたら
リナは、和也と同じ学年のサークル仲間だった。肩にかかるくらいの黒髪で、小柄な細身。整った顔立ちをしていて、可愛いというより美人と言った方が近い。
和也とは特別仲がいいわけではなく、同じ講義になれば話すこともあるし、サークルの何人かで集まれば普通に会話もする。その程度で、二人きりで遊びに行ったことは一度もなかった。
そもそもリナには彼氏がいた。別の大学に通う年上の男で、束縛がかなり強いらしい。
以前、何人かで話していた時にも、
「男と二人で遊びに行ったら怒られるんだ?」
「まあね」
リナはそれだけ答えて、彼氏の話を広げようとはしなかった。和也も、彼氏がいるということ以上はほとんど知らない。
夏休みに入り、30人ほどが参加するサークルの合宿があった。
場所は山の中腹にある大きなコテージで、麓から専用のバスに乗って向かう。建物はかなり広かったが、下級生はほとんど雑魚寝に近い。男女だけ最低限分けられ、広い部屋に布団を並べて寝る形だった。
昼間は外で遊び、夕方から酒を飲み始めた。30人もいれば、あちこちで話し声が飛び交い、酔った上級生が騒ぎ出す。
その中でも、男数人が話していた下ネタは特によく響いていた。
「いや、それ絶対嘘だろ!」
「マジだって!」
「お前、話盛りすぎなんだよ!」
離れた場所にいた和也にも届くほどだった。
何となく周りを眺めていると、少し離れたところではアヤが上級生たちと話している。和也と目が合うと、手に持っていたグラスを少し掲げる。和也も軽く手を上げて返した。それだけだった。
夜が深くなるにつれて、一人、また一人と寝る場所へ戻っていった。和也も部屋へ戻ったが、なかなか眠れない。
昼間に少し寝てしまったせいもある。身体はそれなりに動かしたはずなのに、酒が入っていても頭は妙に冴えていた。おまけに、少し離れたところからやたら大きないびきが響いている。
「グゴォ……」
和也はしばらく布団の中で我慢した。
「……うるせえ」
誰に聞かせるでもなく呟き、身体を起こした。寝られないなら、少し外でも歩こう。
携帯だけ持って部屋を出た。
コテージの外へ出ると、さっきまでの騒がしさが嘘のようだった。街灯はほとんどなく、和也は携帯のライトで足元を照らしながら歩く。
酒は残っていたが、足元がふらつくほどではない。意識もはっきりしていた。
2分ほど歩くと、道が少し開けた。そこから先はコテージが木々に隠れて見えず、代わりに山の下が見渡せる。遠くには街の明かりが点々と浮かび、近くに木のベンチもあった。
和也は携帯のライトを消した。
「おお……」
思っていたより綺麗だった。
しばらく夜景を眺めていると、
「よっ」
「うおっ!」
思わず声が出た。振り返ると、リナが立っていた。
「びっくりした?」
「するわ! 後ろから急に声かけんなよ」
「ごめんごめん」
「何してんの?」
「私も寝れない」
「俺も。いびきうるさすぎて逃げてきた」
リナはまったく悪びれた様子もなく、和也の隣まで来た。
二人はそのままベンチに座った。夜風が少し冷たい。
「今日すごかったね。男の人って好きだよね、下ネタ」
「男全部みたいに言うなよ」
「和也も笑ってたじゃん」
「聞こえてきたら笑うだろ。嫌いではないけど」
「やっぱ好きなんじゃん」
「女だってするだろ、そういう話」
「するけど、あんな大声ではしない」
「それはあいつらがおかしいだけだろ」
「そうかも」
他愛のない話だったが、酒が残っていたせいか、夜中に二人きりだったせいか、普段ならしないような話まで出てくる。
恋愛の話になったところで、和也が何気なく聞いた。
「そういや彼氏とはうまくいってんの?」
「……うーん」
いつもなら流すリナが、珍しく言葉を濁した。
「何、その反応」
「別に喧嘩してるわけじゃないんだけどね。最近、あんまり会ってない」
「忙しいの?」
「向こうはそう言ってる。会ってもすぐ帰ったりするし」
リナは夜景を見たまま続けた。
「あと……全然してくれない」
「何を?」
リナが横目で和也を見た。
「分かるでしょ」
「ああ」
「私から誘っても、疲れてるとか、明日早いとか。最近はほとんど」
「それは嫌だな」
「でしょ? 私が何か悪いのかなって思うじゃん」
「まあ、そう思うか」
「聞いても『そういうんじゃない』って言うし。でも会う回数も減ってるし」
「他に女いるとか?」
「それはないと思う」
「束縛するくせに自分が浮気してたら最悪だな」
「それは殺す」
「怖っ」
二人の間に少し間が空いた。
「でも、そういうのって相性もあるからな」
「する時の?」
「分かってんなら聞くなよ」
「和也が変な言い方するからでしょ」
「俺が悪いの?」
「悪い」
そこで和也は、酒の勢いもあって軽い調子で言った。
「じゃあ一回、俺としてみる?」
「……え?」
「いつも彼氏にしてる感じでやってみてさ。俺相手なら、何が違うかくらいは分かるかもよ」
言った本人は冗談のつもりだった。当然、リナも「何言ってんの」と返すと思っていた。
「舐め方とか触り方とか、そういうのもいつも通りで。一回試してみれば?」
リナは何も言わず、地面を見ていた。
「いや、まあ半分冗談だけど」
それでも黙っている。
「普通に楽しいかもしれないし」
数秒して、リナが小さく息を吐いた。
「……うん」
「え?」
「する」
今度は和也が黙った。
「マジで?」
「うん」
リナが顔を上げ、目が合った。そのまま距離が縮まり、キスをした。
キスが離れると、今度はリナの方から距離を詰めてきた。和也がほとんど身動きできないまま任せていると、しばらくしてリナが一度顔を上げる。
「普段もこんな感じ?」
「うん」
「彼氏の時も?」
「そうだけど」
「じゃあ一個だけ。たまに歯当たってる」
「え、ほんと?」
「うん。そこだけ気をつければいいんじゃない?」
「分かった。こうかな?」
「んっ」
そのまま二人は一線を越えた。
和也には、一つだけ気になることがあった。リナの反応が分かりにくい。
嫌がっているわけではない。それでも、ほとんど声が出なかった。
「リナ、気持ちよくない?」
「気持ち……いいよ」
答える途中で、押さえていた息が少し漏れた。
「じゃあなんでそんな我慢してんの?」
「だって、聞こえたら嫌じゃん」
「ここ、コテージから見えないし、そんな聞こえないだろ」
「でも……」
「無理に声出せとは言わないけど、息まで止めなくていいんじゃない?」
リナは少し迷ってから、押さえていた息を吐いた。それからは、それまでより反応が分かりやすくなった。
結局、二人がそこにいたのは1時間もなかった。コテージへ戻る時も、特別な約束はしない。
「じゃ、先戻るね」
「おう」
「時間ずらした方がいいよね?」
「そうだな」
「じゃあ、おやすみ」
「おやすみ」
リナが先に戻り、和也もしばらくしてから雑魚寝の部屋へ戻った。
「グゴォ……」
相変わらず、いびきはうるさかった。
◇
翌日も特に気まずくはならず、みんなで朝飯を食べ、片付けをして、バスに乗った。リナと目が合えば普通に話す。
合宿が終わってからも、それまでと変わらない。講義で会えば話し、サークルで何人か集まれば一緒に笑った。二人きりで会うことはなかった。
◇
しばらく経ったある日、講義が終わったところでリナに呼び止められた。
「和也、ちょっといい?」
「何?」
「ちょっと来て」
人の少ないところまで移動した。
「なんだよ」
「この前の話なんだけど」
「この前?」
「合宿」
「ああ」
誰かにバレたのかと思ったが、どうやらそういう話ではないらしい。
「久しぶりに彼氏とした」
「おお。できたんだ」
「うん。それでね、声、我慢しないようにしてみた」
「マジで?」
「うん」
「どうだった?」
「なんか、いつもよりすごかった」
「何が?」
「彼氏が」
リナは少し得意そうだった。
「めちゃくちゃ興奮してた。それのおかげか分かんないけど、終わった後もまた求めてきて」
「よかったじゃん」
「うん。何回もした」
「惚気聞かせるために俺呼んだの?」
「いいじゃん」
「まあ、うまくいったならいいけど」
「ありがとう」
「俺、なんもしてないけどな」
「したじゃん」
「その言い方やめろ」
それから少し話し、戻ろうとした時だった。
「和也」
「ん?」
リナが振り返った。
「彼氏と別れたら、またしようね」
そう言うと、リナはいたずらっぽく微笑み片目を閉じた。




