閑話 和也のバイト先
和也が初めてアルバイトをしたのは19歳のときだった。
実家暮らしなので飯にも寝る場所にも困らない。ただ、親からもらえる小遣いだけでは友達と遊ぶにも限界がある。飯を食いに行くにも、カラオケに行くにも、女と会うにも金はかかる。大学生になって行動範囲が広がったぶん、その不便さを以前より感じるようになっていた。
だったら働けばいい。高校まではアルバイトを禁止されていたが、大学生になった今なら問題ない。仕事にこだわりはなかったが、自分が飽きっぽいのは分かっている。どうせなら、通うのが面倒にならない近場がいい。
そう考えて近所を見回し、候補に挙がったのがファミリーレストラン「ベルシード」だった。家から近いうえ、店内もそれなりに清潔そうで、料理にも少し興味がある。さらに、働いている女性の制服が可愛いのも見逃していない。ホールでも厨房でも、やってみればそれなりに面白そうだ。
求人に応募すると、ほどなく面接の日が決まった。
「アルバイト初めて? 飲食も?」
「どっちも初めてです」
店長は履歴書を見ながら、いくつか当たり障りのない質問をしていった。
「大学生なら、土日中心かな?」
「いや、平日も授業なければ入れますよ。毎週決まった曜日とかは分かんないですけど、空いてれば」
店長が履歴書から顔を上げた。
「平日も出られるなら助かるよ。夕方の入れ替わりで人が欲しい日もあるんだ。じゃあホールとキッチン、両方覚えてみる?」
「いいっすよ」
和也にしてみればどちらでもよく、思っていたよりあっさり採用が決まった。
◇
初めて店の制服を着た日は、さすがに少し落ち着かなかった。
「今日から入る五十嵐君ね」
店長に連れられてバックヤードから店内へ出ると、「よろしくー」「お疲れさまでーす」とあちこちから声が飛んできた。
夕方以降は、和也と同じくらいの年齢のスタッフが多く、想像していたより若い職場だった。最初に和也についたのは、若い女性社員だった。
「私、副店長。分かんないことあったら聞いて」
「あ、はい。よろしくお願いします」
「ホールとキッチン両方って聞いてるけど、最初から一気に覚えなくていいから」
「了解っす」
「了解っす、じゃない」
「はい」
「返事だけはいいね」
副店長が少し笑った。
そこへ、後ろから女の声が飛んできた。
「副店長、三番の料理まだですかー?」
妙に耳に残る声だった。甘いというのか、少し掠れているというのか。
和也が振り返ると、自分より少し年下に見える女が、空いた皿を片手にこちらを見ていた。
最初に目に入ったのは、顔ではなかった。
――でか。
制服の上からでも分かる。
「今出るから持ってって」
「はーい」
女はそれだけ言って厨房の方へ戻っていった。普通に喋っているだけなのに、声まで妙に色っぽく聞こえる。
「五十嵐君?」
「あ、はい」
「聞いてる?」
「聞いてます」
副店長は、さっきの女が消えた方へ目をやった。
「カオリちゃん、可愛いもんね」
「……まあ、可愛いっすね」
「やっぱり聞いてなかったでしょ」
「聞いてましたって」
副店長に呆れられながら、和也は再び説明を聞いた。
カオリとは、その後も同じシフトになることがあった。
「これ五番お願い。あとドリンクも」
「はいはい」
特別あざといわけではなく、むしろ普通だった。髪を結び直すときも、棚の上の物を取ろうと手を伸ばすときも、料理を運ぼうと少しかがむときも、和也にはいちいち妙に色っぽく見えた。
――こいつ、何してもエロく見えるな。
本人にはもちろん言わなかった。
別の日には、明るい髪に少し派手めの化粧をした年下の女もいた。だが、アヤのようなギャルを見慣れた和也には、どこかまだ板についていないように見えた。
「新人?」
「そう」
「大学生?」
「そうだけど」
「ふーん」
女はそれだけ言って仕事に戻っていった。
見た目のわりに妙に幼い、という印象だけが残った。
男のバイト仲間とも、すぐに話すようになった。
「五十嵐だっけ? 俺、リョウ。よろしく」
「よろしく」
「大学どこ?」
「近く」
「彼女いる?」
「いない」
「じゃあ合コン行こうぜ。人数足りねえとき呼ぶわ」
「まだ名前しか知らねえじゃん」
「男ならいいだろ」
初対面からとにかく軽く、女のスタッフにも同じ調子で声をかけていた。
――こいつも相当女が好きだな。
もっとも、人のことは言えなかった。
ユウタは、リョウとはだいぶ違った。
「五十嵐君、それ先にこっちやった方がいいよ」
「これ?」
「うん。あとで注文入ると一気に詰まるから」
「あー、なるほど」
「最初、分かんないよね」
仕事中は真面目で、教え方も丁寧だった。暇になれば普通に雑談もするが、リョウのように誰にでもグイグイ行くタイプではない。
店に少し慣れた頃、夕食どきの忙しさを初めてまともに味わった。
「五十嵐君、五番の料理!」
「今行きます!」
「その前に七番のドリンクお願い!」
「どっち先っすか!」
「ドリンク! 料理は私持つから!」
「了解!」
「はい!」
「はい!」
料理を運んで戻れば、空いた皿が増えている。片づけようとすると呼び出しが鳴り、その途中で別の客に声をかけられる。
「すいません、これ追加で」
「はい、少々お待ちください!」
戻る頃には、さっき何をしようとしていたのか分からなくなった。
「やべ、何だっけ」
「五十嵐君、皿!」
「あ、それだ」
最初はそんな調子だった。
それでも何度か忙しい時間を経験すると、少しずつ周りを見る余裕が出てきた。料理が出るまでにあのテーブルを片づけ、戻るついでに空いた皿を下げる。ドリンクを作る間に次の注文を確認する。全部を一つずつ終わらせるより、順番を考えて動いた方が早い。
そう分かってくると、忙しい時間はむしろ面白くなった。失敗すれば怒られるが、覚えればその分だけ動けるようになり、働いた時間だけ金になる。和也には、そういうところが分かりやすかった。
店に慣れるにつれ、働いている連中の素も見えてきた。客の前では愛想がいいのに厨房へ戻った瞬間に悪態をつく奴もいれば、暇になるとすぐどこかへ消えて副店長に怒られる奴もいる。和也は、そういう雑多な空気も意外と嫌いではなかった。
平日に授業が少ない日は、ランチが落ち着いた頃からシフトに入り、夕方に上がるパートから仕事を引き継ぐこともあった。
「これ補充まだだからお願いね。あと冷蔵庫の方も」
「了解です」
昼にしか会わない顔がいるのも、和也には新鮮だった。
しばらくして、初めての給料が振り込まれた。口座の残高を見て、和也は思った。
――これでしばらく遊べるな。
「今日、飯行こうぜ」
「行く行く」
それまでなら財布の中身を思い出して断ることもあったが、もうその必要はない。自分で稼いだ金で遊べる。それが単純に嬉しかった。
次のシフト表を見ても面倒だとは思わず、飽きっぽい自分にしては珍しいな、と和也は思った。




