第6話 今日はお願い
サークルの飲み会で、和也はサオリという二つ上の先輩と同じテーブルになった。
肩より少し長い黒髪に、まっすぐ切り揃えた前髪。派手ではないが顔立ちは整っていた。大人数の中では自分から話題を振るタイプではなく、端の方で誰かの話を聞きながら笑っていることが多い。声も柔らかく、話し方も落ち着いていた。
アヤとはまるで違う。
「じゃ、そろそろ席替えしよーよ」
誰かが言い出し、適当に席を移ると、和也はサオリの近くになった。
「どうも」
「どうも」
それだけで会話が止まった。サオリは笑っているが、向こうから何か話してくるわけでもない。
――何話せばいいんだ?
和也が適当に話題を探していると、椅子の横に置かれたサオリの鞄が目に入った。小さな白い何かがぶら下がっている。
「それ、エリザベスですよね?」
「え?」
サオリが鞄を見た。
「銀魂の」
「あ、分かる?」
それまでの落ち着いた声が、少しだけ弾んだ。
「分かりますよ」
「銀魂読むの?」
「読みます」
「ほんと?」
そこから急に会話が続いた。好きな話やキャラ、アニメで見た回まで、サオリはそれまでよりずっとよく喋った。
「サオリさん、こういうの好きなんすね」
「こういうのって何?」
「いや、もっと少女漫画とか読んでそう」
「読むよ。でも銀魂も好き」
「下ネタ多くないっすか?」
「面白ければいいじゃん」
好きな男キャラの話になると、さらに口数が増えた。
「結局イケメンじゃないっすか」
「だってかっこいい方がいいじゃん」
「漫画の中ぐらい夢見たい?」
「現実でもかっこいい方がいいけど」
「それ言ったら終わりでしょ」
サオリが吹き出した。
◇
それからサオリとは、サークルで顔を合わせるたび漫画の話をするようになった。
ある日、何人かで漫画喫茶へ行くことになった。特別な目的があったわけではなく、それぞれ読みたい漫画を読み、途中で誰かの席へ行っては薦め合った。
「それ面白い?」
「これ読んでみ」
そんなことをしながら過ごし、帰る頃には何人かが先に別れていた。駅まで歩く和也の隣にはサオリがいた。
「さっき読んでたやつ、面白かった?」
「面白かったですよ」
「でしょ?」
「でもあのキャラ好きなの、絶対顔でしょ」
「また言ってる」
「違うんすか?」
「性格も好き」
「最初に顔見てるじゃないですか」
「和也くんしつこい」
そんな話をしているうちに駅が近づいたが、まだ帰るには少し早かった。
「サオリさん、このあと暇です?」
「暇だけど」
「カラオケでも行きます?」
「行く」
返事は早かった。
◇
二人で入ったカラオケでドリンクを選んでいると、サオリが言った。
「私、お酒飲むと声の通りがよくなるんだ」
「何すかそれ」
「ほんとだよ」
「じゃあ酒にします?」
「うん」
二人とも最初から酒を頼み、アニメの主題歌や当時流行っていた曲を歌った。互いに知っている曲も多かった。
「それ知ってる」
「じゃあ歌います?」
「無理。高い」
「頑張ってくださいよ」
「和也くん歌ってよ」
「俺も無理です」
曲の合間にはまた漫画の話をした。当時の携帯で検索したページを見せ合ううちに、最初は向かい側に座っていたはずなのに、いつの間にか二人は同じ側のソファにいた。
「これ見て」
「どれ?」
「これ」
サオリが差し出した携帯を覗き込むと肩が触れたが、どちらも特に離れなかった。
何杯か飲んだ頃、サオリが胸元をぱたぱたとあおぎ始めた。
「暑い」
「酒飲んだからじゃないっすか?」
「ここ暑くない?」
「そうでもないですけど」
「暑いよ」
サオリが胸元のボタンを一つ外した。和也がちらりと見ると、わずかに谷間が見えた。
「今見たでしょ」
「見ましたね」
「普通否定しない?」
「いや、見たんで」
「正直すぎ」
「そういえばさ」
「はい?」
「和也くんって、アヤと仲いいよね」
「そうですか?」
「仲いいじゃん」
「まあ、何もないっすよ。胸がでかいのは認めますけどね」
「やっぱ見てるんだ」
「そりゃ見ますよ」
「最低」
「男なら見るでしょ」
サオリは自分の胸元を見下ろした。
「私、胸ないんだよね」
「急にどうしたんすか」
「だってないじゃん」
「まあ、大きくはないですね」
「そこは否定してよ」
「嘘ついてもしょうがないじゃないですか」
「ひどい」
「でも俺、大きさより感度だと思いますけどね」
何気なく言うと、サオリがこちらを見た。
「感度?」
「そっちの方が重要じゃないですか?」
「そうなの?」
「俺は」
「ふーん」
少し間を置いて、サオリが言った。
「私、それは自信あるよ」
「え?」
次の瞬間、サオリが和也の手首を掴み、そのまま自分の胸元へ持っていった。
「……マジっすか」
「何が?」
サオリは平然としていた。
――あれ?
和也は、最初に飲み会の端でニコニコしていたサオリを思い出した。
――清楚じゃなかったっけ。
◇
そのあと二人はホテルへ行った。
朝まで何回したのか、和也はもう覚えていない。少し眠り、目を覚ました頃には外も明るくなっていた。
「そろそろ出ます?」
和也が聞くと、隣にいたサオリがこちらを見た。
「もう?」
「もう朝ですよ」
「まだいいじゃん」
結局、それからもしばらく部屋を出なかった。
その日、和也が大学へ行ったのは昼を過ぎてからだった。
◇
それからも二人はときどき会ったが、カラオケへ行くことはほとんどなくなった。
飯を食べてホテルへ行く。二人とも腹が減っていなければ、街を少しぶらついてからホテルへ向かう。いつの間にか、それが定番になっていた。
最初の頃は飯代を割ることもあったが、ホテル代はだいたい和也が払っていた。
ある日、食事を終えて伝票を持って立ち上がろうとすると、サオリが声をかけてきた。
「和也くん」
「はい?」
「今日はお願いしていい?」
「ご飯?」
「うん」
「いいっすよ」
「ありがと」
その日は特に何も考えずに払ったが、それから同じようなことが少しずつ増えた。
「今日もお願い」
「またっすか?」
「いいじゃん」
「まあいいですけど」
気づけば飯代もほとんど和也が出すようになり、ホテル代と合わせればそれなりの金額になった。柔らかい声で頼まれると、その場ではそこまで気にならない。それでも続けば、当然財布の中身は減っていった。
バイト代が入っても、思っていたほど残らなくなった。
ホテルへ向かう前に街をぶらついていると、サオリが店の前で足を止めることも増えた。
「これ可愛くない?」
ショーケースの中にアクセサリーが並んでいる。
「可愛いんじゃないですか」
「欲しいなあ」
「結構高くないっすか?」
「そう?」
「俺には高いっすね」
「ふーん」
鞄や服を見ているときも、似たようなことがあった。サオリは一度も「買って」とは言わなかったが、値札を見るたび和也は思った。
――これ、俺が買う流れじゃねえよな?
◇
そんな頃、アヤから連絡が来た。男と別れたのか、喧嘩したのか、理由はもう和也も覚えていない。
呼ばれて会い、いつものように一線を越えたあと、二人でだらだら話していた。
「そういやさ」
「はい?」
「お前、サオリと仲いいよね」
和也がアヤを見た。
「最近たまに会ってますけど」
「やっぱり」
「何すか?」
「マジで気をつけなね」
「何を?」
「いろいろ」
「いろいろじゃ分かんないっすよ」
「いいの。言ったから」
「何それ」
「そのうち分かるんじゃない?」
「怖いこと言わないでくださいよ」
アヤはそれ以上教えず、和也も深くは聞かなかった。自分だって今、サオリ以外の女と同じベッドにいる。サオリに他の男がいたとしても、それだけで文句を言える立場ではなかった。
◇
サオリと会うようになって2か月ほど経った頃、携帯にメールが来た。
『今日会える?』
予定はなかった。
『会えますよ』
少しして返事が来る。
『じゃあご飯行こ』
『いいっすよ』
続けてもう一通。
『今日はお願いね』
和也は財布の中身を思い出した。バイト代が入るまで、まだ少し先だった。
『いや、今日はマジで無理です』
返事はすぐ来た。
『ふーん、そっか。残念』
それだけだった。
◇
数日後、和也が街を歩いていると、見覚えのある後ろ姿があった。肩より少し長い黒髪。
サオリだった。
声をかけようとして、やめた。隣には男がいて、二人は手を繋いでいた。
和也が少し離れたところから見ていると、そのまま二人でカラオケ店へ入っていった。
サオリと一線を越えてから、二人でカラオケへ行くことはほとんどなかった。最初に二人で行ったときは、何時間も漫画やアニメの話をしていた。
アヤの声が頭に浮かんだ。
『マジで気をつけなね』
和也は入口をしばらく見たあと、そのまま歩き出した。
◇
その後もサオリから何度か連絡は来た。
『今日暇?』
『バイトです』
『明日は?』
『予定あります』
全部が嘘だったわけではない。ただ、以前なら空けていた予定を空けなくなった。
サオリと会わなくなってからも、街で何度か姿を見かけた。不思議と、カラオケの近くが多かった。和也が見た限り、隣にいる男はほとんど毎回違った。年齢もばらばらに見えたが、派手なタイプではなく、どこか自分と似た雰囲気の男が多い気がした。
サオリの隣で、男たちは少し浮かれているように見えた。
――なるほどね。俺もはたから見たら、あんな感じで浮かれてたんだろうな。
やがてサオリからの連絡も減り、完全に途切れた。
◇
それからしばらく経って、和也はアヤにその話をした。
「サオリと切れましたよ」
「あ、マジ?」
「マジっす」
「そっかそっか」
アヤの口元が少し緩んだ。
「……なんか嬉しそうじゃないっすか?」
「そんなことないって」
「いや、絶対ちょっと嬉しいでしょ」
「何で私が嬉しいんだよ」
「知らないっすよ」
「まあいいじゃん。今日は慰めてやるよ」
「ほら、やっぱ嬉しそうじゃないっすか」
「うるさい」
アヤはそれ以上答えなかった。




