第3話 ごめんね
バイトを始めてしばらくすると、ユイという18歳の女と週に3回ほど同じシフトに入るようになった。明るい髪に少し濃いめの化粧で、顔立ちは美人寄り。ぱっと見はそれなりに遊んでいそうだった。
「マジ親うるさいんだよね」
暇な時間にグラスを拭きながら、ユイが言った。
「何が?」
「帰る時間とか、誰といるのとか。いちいち聞いてくんの」
「普通じゃね?」
「普通じゃないし。めちゃくちゃうるさいから。学校もめんどいし」
「それは分かる」
「和也、大学ちゃんと行ってんの?」
「そこは聞くな」
「行ってないんじゃん」
ユイが笑った。
同じシフトが続けば、忙しくない時間に雑談するのが当たり前になる。男の話はほとんど出なかった。
「彼氏とかいないの?」
「いないよ」
「今はいないってこと?」
「今も何も、いたことない」
「マジで?」
「何その反応」
「いや、いると思ってた」
「いないし」
少し不機嫌そうに言われた。話していると、妙に幼いところもある。
「私、昔ほんと暗かったから」
「今も中身そんな変わってなくね?」
「うるさい」
「見た目だけ頑張った感じ?」
「殴るよ?」
「怖っ」
◇
二人が店の外で会うようになったきっかけは、ある日のバイト終わりだった。
その日は店が忙しく、ユイの上がる時間が予定よりかなり遅くなった。和也も少し遅れて上がり、着替えて店を出ると、ユイが携帯を見ながら立っていた。
「帰んないの?」
「バス終わった」
「あー」
「最悪。歩いて帰るしかない」
「家どの辺?」
聞いてみると、車ならそれほど遠くなかった。
「今日、俺車だから送ろうか?」
「いいの?」
「別に。方向そんな変わんないし」
「じゃあお願い」
家の近くまで送ったのは、それが初めてだった。それをきっかけに、二人は店の外でも会うようになった。
『今日バイト何時?』
『夕方』
『その前暇?』
『暇だけど』
『どっか行こ』
バイト前に飯を食いに行くこともあれば、終わったあとにそのまま車で走ることもあった。特に目的があるわけでもなく、コンビニで飲み物を買って適当に車を走らせ、どこかに停めて喋る。
ユイは家にいると親がうるさいらしく、外に出られるだけでも楽しいようだった。
「こんなんで楽しいの?」
「楽しいよ」
「ただ車乗ってるだけじゃん」
「家いるより全然いい」
「そんな厳しいんだ」
「だから言ってんじゃん」
ある夜も、二人で車の中にいた。何の話からそうなったのか、和也はもう覚えていない。漫画だったような気もするし、ユイの友達の話だったような気もする。気づけば、下ネタになっていた。
「和也ってさ」
「ん?」
「そういうことしたことあるの?」
「あるよ」
「マジで?」
「何でそんな驚くんだよ」
「何回?」
「そこまで聞く?」
「いいじゃん」
妙に食いつきがよかった。何をしたのか、どんな感じなのか、痛くないのか。さっきまで普通に話していたのに、質問だけは次々出てくる。
「お前は?」
「ないよ」
「まあ、彼氏いたことないもんな」
「うん」
「キスは?」
ユイが少し黙った。
「……ない」
「マジで?」
「だから何なの、その反応」
「いや、見えないから」
「うるさいな」
さっきまでより、少しだけ声が小さくなっていた。
車内が静かになる。
「してみる?」
ユイが和也を見る。
「……キス?」
「うん」
少し間があった。
「してみたい」
和也が顔を近づけても、ユイは逃げなかった。
ユイの初めてのキスは、驚くほどぎこちなかった。
「どう?」
「分かんない」
「分かんないって何だよ」
「もう一回」
「はいはい」
その日は、キスを何度かしただけで別れた。
◇
それからしばらくは、会ってもキスをする程度だった。そんな頃、ユイが突然言い出した。
「ねえ、水族館行きたい」
「水族館?」
「うん」
「急だな」
「いいじゃん。行こうよ」
「どこの?」
「八景島」
「結構遠くない?」
「車で行けばいいじゃん」
「俺が運転する前提かよ」
「当たり前じゃん」
休みが合う日に、高速を使って海沿いまで車を走らせた。着いたのは昼を少し過ぎた頃だった。
水族館に入り、最初は普通に並んで歩いていた。大きな水槽の前で立ち止まったり、魚を眺めながらどうでもいいことを言い合ったりした。
「ねえ、あっち見よう!」
「どこ?」
「こっち」
ユイが和也の手を掴んだ。
そのまま引っ張られ、気づけば手を繋いで歩いていた。和也も離さなかった。
それからは次の水槽へ移るときも、館内を歩くときも、ほとんど手を繋いだままだった。
「見て見て」
「見てるって」
「全然違うとこ見てんじゃん」
「魚多すぎんだよ」
「水族館なんだから当たり前でしょ」
いつもの車の中より、ユイはよく喋った。
イルカショーを見る頃には、隣に座ったユイが自然に和也へ身体を預けていた。
「重い」
「うるさい」
「いや、普通に重――」
「黙って見て」
「はいはい」
イルカが跳ねるたび、ユイは声を上げた。肩にもたれたまま離れようとしないので、和也もそのままにしていた。
館内でも、人目がないところでは何度かキスをした。
その日は写真も何枚か撮った。魚や水槽だけではなく、二人で並んで写ったものもあった。
「これ、親に見られたらまずくない?」
「それはヤバい」
「じゃあ撮んなきゃいいじゃん」
「せっかく来たんだから撮りたい」
「どっちだよ」
その写真をあとで消したのか、メモリーカードか何かに移したのか、和也はもう覚えていない。ただ、二人で写ったのは、後にも先にもその日だけだった。
帰りの車でも、ユイはずっと機嫌がよかった。
「楽しかったね」
「結構歩いたけどな」
「そこ?」
「いや、楽しかったよ」
「でしょ?」
家の近くまで戻った頃には、もう辺りは暗くなっていた。コンビニの駐車場に車を停めると、ユイが窓の外を見回した。
「誰もいない?」
「たぶん」
「ちゃんと見てよ」
「いねえって」
和也も周囲を見てから、ユイの方を向いた。
最後にもう一度キスをして、その日は別れた。
◇
水族館へ行ったあとも、バイト前や終わったあとに会うのは変わらなかった。車を停めて話し、帰る前にはキスをする。それがいつの間にか当たり前になっていた。
ある日、いつものように車で話していると、ユイが聞いてきた。
「ねえ、ホテルって行ったことある?」
「あるよ」
「どんな感じ?」
「どんなって、普通だけど」
「普通なの?」
「何想像してんだよ」
「知らないから聞いてんじゃん」
ユイは少し考えてから言った。
「見てみたい」
「ホテルを?」
「うん」
「見るだけ?」
「……何その聞き方」
「いや、見たいって言うから」
「とりあえず見たいの」
「じゃあ行ってみる?」
ユイは一瞬黙った。
「行く」
近くのホテルへ車を走らせた。
着くまでは普通に喋っていたのに、駐車場へ入った途端、ユイが静かになった。
「緊張してんの?」
「してないし」
「さっきから全然喋んないじゃん」
「うるさい」
部屋に入ると、ユイは珍しそうに中を見回した。
「へえ……こんななんだ」
「何だと思ってたんだよ」
「もっとなんか、すごいのかと思ってた」
「すごいって何だよ」
「知らない」
そう言ったものの、いつもより落ち着かないのは分かった。
最初は部屋の中を見たり、何となくテレビをつけたりしていた。けれど、どちらも画面はろくに見ていなかった。
しばらくしてキスをした。いつもの車の中と違って、今度は身体を離す理由もなかった。
その日、二人は初めて一線を越えた。
◇
「……どう? 大丈夫だった?」
少し落ち着いてから和也が聞くと、ユイはしばらく黙っていた。
「もっと痛いと思ってた」
「痛くなかった?」
「思ってたより全然」
「ならよかった」
帰るまで、ユイはいろいろと聞いてきた。
それからは、会ってもキスだけで終わることの方が少なくなった。最初のうちはホテルへ行くことが多かったが、そのうち車の中でもそういう流れになるようになった。
和也にとっても車の中でするのは初めてで、広い車でもないから何をするにも窮屈だった。
「ちょ、足邪魔」
「和也がそっち行けばいいじゃん」
「行けねえよ、狭いんだから」
「知らないし」
ユイはまだ慣れておらず、気になることがあればその場で口にした。
「もうちょいゆっくり」
「こう?」
「そうそう。今のいいじゃん」
「ほんと?」
褒めると、ユイは分かりやすく嬉しそうにした。何度か会ううちに、最初の頃のぎこちなさも少しずつなくなっていった。
そんな関係になってしばらくした頃、ユイから言われた。
「ねえ」
「ん?」
「彼氏になってよ」
和也は少し間を置いた。
「いや、付き合うのは違うかな」
「え?」
ユイはしばらく黙っていた。さすがに言い方が悪かったかと思った頃、口を開いた。
「じゃあ、このままでもいい」
「いいの?」
「会ってくれるなら」
「それなら別に」
それからも二人は変わらず会った。バイト前に会い、仕事が終われば車で出かけ、休みが合えば昼から遊ぶ。店の外で会うようになってから、半年ほどそんな関係が続いた。
◇
最初に親にバレたのは、バイトが終わったあとも遊んでいたことだった。
『やばい』
ユイからメールが来た。
『何?』
『親にバレた。バイト終わってから遊んでたの』
『俺のこと?』
『誰とは言ってない』
ユイの家ではバイト自体は許されていたが、終わったらまっすぐ帰ることになっていたらしい。遅くまで遊んでいたことで、かなり怒られたという。
『しばらく無理かも』
『了解』
それでも、しばらくするとまた連絡が来た。
『今日会える?』
『大丈夫なの?』
『平気』
『ほんとかよ』
『バレなきゃ平気』
懲りていなかったし、和也も止めなかった。バイト前に会えばいい。終わったあとでも、少しだけなら大丈夫だろう。
だが、二度目は駄目だった。
ある日、ユイがシフトに入っているはずなのに店に来なかった。
「今日ユイ休み?」
「辞めるんだって」
「は?」
「親がなんか怒ってるらしいよ」
和也は携帯を見た。メールを送っても返事がない。電話をかけても出ない。次の日も、その次の日も連絡はなかった。
携帯を取り上げられたのかもしれないし、連絡するなと言われたのかもしれない。結局、何があったのか詳しいことは分からなかった。
あとから店で聞いた話では、誰と遊んでいたのか聞かれても、ユイは最後まで和也の名前を出さなかったらしい。
最後にユイから届いたメールも、今となっては正確な文面を覚えていない。
ただ、たしかこう書いてあった。
『ごめんね』
それきり、ユイから連絡が来ることはなかった。




