第18話 何もしてこないんですよ
ベルシードに、新しいアルバイトが入った。
「五十嵐、悪いんだけど今日ちょっと見てやってくれる?」
「俺っすか?」
「お前、夕方いるだろ。分かんないことあったら教えてやって」
「はい」
店長にそう言われ、和也が新人の女の子へ目を向けると、向こうから軽く頭を下げた。
「今日から入ります、マユです。よろしくお願いします」
「五十嵐和也。分かんないことあったら聞いて」
「はい。よろしくお願いします」
一つ年下の大学生で、大人しそうな雰囲気だった。話しかければ普通に笑うし、受け答えもしっかりしている。
その中でも和也が最初に気になったのは、妙に可愛い声だった。
――声かわいいな。
仕事を教えるといっても、和也が正式な教育係になったわけではない。ただ勤務時間がよく重なったこともあり、分からないことがあるとマユは自然と和也に聞くようになった。
「和也さん、これってどうすればいいですか?」
「それ、一回こっち戻してからやる」
「あ、そっか。ありがとうございます」
「あと敬語じゃなくていいよ。一個しか変わらんし」
「じゃあ……ありがと」
「はい」
「なんで急に偉そうなんですか?」
そんなふうに話しているうちに、仕事以外の雑談もするようになっていった。
*
マユが働き始めて一週間ほど経った頃、休憩室へ入ってきたユウタが足を止めた。
「え?」
マユも同じような顔をする。
「……ユウタ?」
「マユ?」
「何してんの?」
「いや、俺ここでバイトしてるから」
「私も最近入った」
「マジで?」
和也は二人を交互に見た。
「知り合い?」
「中学一緒だった」
ユウタが答える。
「でも別に、そんな仲良かったわけじゃないよね?」
「まあ、普通に喋るくらい」
「そうそう」
二人とも笑った。それだけなら、昔の同級生が偶然ベルシードで再会しただけの話だった。
*
ところが、それからユウタとマユはよく話すようになった。ベルシードの仲間何人かで飲みに行けば二人とも来るし、休みの日に二人で遊ぶこともあるらしい。
ある日の休憩中、マユが和也に聞いてきた。
「和也さんって、ユウタと仲いいですよね?」
「まあまあかな」
「ユウタから、中学の時のこととか聞いたことあります?」
「何を?」
マユが少し声を落とす。
「私のこと」
「ないけど」
「そっか」
「何?」
「中学の時、ユウタが私のこと好きって噂あったんですよ」
「へえ」
「男子が『お前の好きな子来たぞ』とか、ユウタに言ってるの聞いたことあって」
「じゃあ好きだったんじゃない?」
「たぶん」
マユは少し笑って立ち上がった。
「んじゃ、ホール戻りますね」
「はいよ」
*
別の日、休憩室で二人きりになった時だった。
「ねえ、和也さん」
「ん?」
「二人で遊びに行ってるのに、手も繋がない、キスもしない、告白もしないって、どういう心理状況なんですか?」
「誰の話?」
「ユウタ」
「知らんよ」
「男でしょ?」
「男なら男の気持ち全部分かると思うなよ」
「だって本当に何もしてこないんですよ」
「はー、大変だねえ」
和也が適当に返すと、マユが笑った。
「和也さんなら、すぐ手出しそうですよね」
「失礼だな」
「違うんですか?」
「まあ、気になってる女と二人で遊びに行って何もしないってのは分からん」
「やっぱり」
そこへリョウが休憩室へ入ってきた。
「何話してんの?」
「マユがユウタにやきもきしてんだってさ」
「ああ、そりゃ和也に聞いても分かんねえよ」
「なんでですか?」
「こいつ即手出すから」
「やっぱりー」
「お前らさあ」
二人が笑う横で、和也だけが呆れた顔をした。
*
それからもマユからユウタの話を聞くことはあった。昨日は二人で飲みに行ったとか、今度は映画を見に行くとか。会う回数は増えているのに、相変わらず何もしてこないらしい。
ある日、仕事中にマユから声をかけられた。
「和也さん、今度お酒飲みません?」
「いいよ」
「いつ空いてます?」
互いの予定を合わせ、数日後に二人で飲みに行くことになった。
*
最初はバイトの話や大学の話をしていたが、酒が進むにつれて、やっぱり話題はユウタになった。
「私に興味ないのかなあ」
「二人で遊んでんだろ?」
「うん」
「じゃあ自分から告れば?」
「嫌ですよ。なんか負けた気するし」
「恋愛に勝ち負けねえだろ」
「和也さんがそれ言うんですか?」
「まあ俺は、食うか食われるかだと思ってるけどね」
「あるじゃん、勝ち負け」
マユが笑う。
「じゃあどうしたら、もっと女として見てもらえると思います?」
「女性ホルモン出せばいいんじゃね?」
「女性ホルモン?」
「出しまくったら、男が蛾みたいに集まってくるぞ」
「何それ」
笑ったあと、マユが少しだけ真面目な顔になる。
「でも私、女性として魅力ないのかなあ」
「そんなことないんじゃない? 胸もあるし、声もいいし」
「声?」
「一回喘がせたいもん」
「なにそれ、最低じゃん」
マユが声を上げて笑った。
「まあ、セックスすると肌の艶がよくなったり、女性ホルモンが出たりするって、風の噂で聞いたことあるけどな」
「……そうなの?」
「知らんけど」
「知らないの?」
「ただ、今まで抱いた女から『肌がよくなった』とか『化粧のノリよくなった』とか言われたことはある」
「へえ……」
マユはグラスを持ったまま、少し考え込んだ。
「じゃあ、やったらちょっと変わるかな」
「何が?」
「私」
「知らんよ」
「和也さんが言ったんじゃん」
「俺、かなり酔ってるぞ」
「じゃあ手伝ってよ」
「何を?」
「セックス」
和也はマユを見る。
「俺でいいの?」
「だってユウタとはできないじゃん」
「まあ、付き合ってないもんな」
「それに和也さんなら、変な感じにならなそうだし」
その可愛い声でそんなことを言われ、和也は少し考えた。
「俺は別にいいけど」
「じゃあ決まり」
「軽いな」
「和也さんに言われたくない」
「それもそうだな」
*
その夜、二人は一線を越えた。
和也が酒を飲みながら口にした話を、マユがどこまで本気で信じていたのかは分からない。翌日になっても二人の関係はほとんど変わらず、ベルシードで会えばいつも通り話した。
「女性ホルモン出た?」
「知らない」
「じゃあダメじゃん」
「和也さんのせいじゃん」
「俺、最初から知らんって言ったからな」
「無責任」
マユはそう言いながら笑っていた。
その後も同じように相談され、そのまま朝帰りになる日が何度かあった。ただ、マユがユウタを気にしているのは変わらず、和也もそれを知っていた。
*
それから二か月ほど経った頃、バイトが終わるとユウタが和也を呼び止めた。
「今日、ちょっと話せる?」
「いいよ」
普段と明らかに雰囲気が違った。
「飲みに行こう」
「分かった」
「俺も行く」
横からリョウが入ってきた。
「なんでお前も来んの?」
「いいじゃん。俺も飲みたい」
ユウタは何も言わなかった。そのまま三人で近くの居酒屋へ入り、最初の一杯が来てもユウタはほとんど口をつけなかった。
「お前さ」
「ん?」
「マユとしたんだってな」
和也は一瞬だけユウタを見る。
「そうだよ?」
隣でリョウが黙った。
「何回?」
「なんでお前に言わなきゃいけないの?」
「何回だよ」
「だから、それお前に関係ある?」
ユウタの顔が険しくなる。
「お前、マジでそういうのやめろよ」
「何が?」
「何がじゃねえよ。女を何だと思ってんだよ」
和也もグラスを置いた。
「どういう意味?」
「次から次へと女とヤってさ。食い物みたいにしてんじゃん」
「してねえよ」
「してるだろ」
「してねえって」
「じゃあマユは何なんだよ」
「マユ?」
「俺があいつのこと好きなの知ってただろ」
「知らんよ」
「は?」
「お前でもないのに、俺がお前の気持ちなんか分かるわけねえだろ」
「マユから聞いてただろ!」
「マユが『ユウタは私のこと好きだったらしい』って言ってたのは知ってるよ。でも、お前が今どう思ってるかなんか知らん」
「普通分かるだろ!」
「分かんねえよ」
ユウタの声が大きくなる。
「じゃあ何で手出すんだよ!」
「それとこれ、何の関係があんの?」
「友達が好きな女だぞ!」
「だから、お前が今もマユのこと好きだってのは初めて聞いたって」
「屁理屈だろ!」
「どこが?」
和也も少しずつ腹が立ってきた。
「そもそもお前、マユと付き合ってないじゃん」
「そういう問題じゃねえだろ」
「そういう問題だろ」
「お前、人としておかしいよ」
「何が?」
「普通、友達が好きだって分かってる女と寝ねえよ」
「だから、分かってなかったって言ってんじゃん」
「じゃあ今聞いたよな! 俺がマユのこと好きだって」
「聞いたよ。でも、それと俺とマユがしたことは別だろ」
ユウタが睨む。
「マユがお前のこと気にしてんのは、俺も知ってるよ」
「だったらなおさらだろ!」
「だったら好きって言えばよかったじゃん」
「……」
「二人で何回も遊んで、飲みに行って、向こうもお前のこと気にしてんのに、何もしなかったのお前だろ」
「俺には俺のタイミングがあるんだよ」
「じゃあそのタイミングまで、マユはお前のために誰とも何もせず待ってなきゃいけないの?」
「そんなこと言ってねえ!」
「同じじゃん」
「違う!」
周りの客が少しこちらを見始めた。
「お前ら、もうちょい声落とせって」
リョウが小さな声で止めるが、ユウタは収まらない。
「お前は何でもそうなんだよ。女とヤれればそれでいいんだろ」
「違うって言ってんじゃん」
「何人いるんだよ、お前。自分でも分かんねえだろ」
「それがお前に何の関係があんの?」
「そういうところが狂ってんだよ!」
和也も完全に頭にきた。
「じゃあ俺が狂ってるとして、それでお前に何か迷惑かけた?」
「マユに手出してんだろ!」
「だからマユはお前の女じゃねえだろ!」
ユウタの顔が一気に赤くなった。
「好きなら大事にすればいいじゃん。取られたくないなら自分で動けばいいじゃん」
「取ったのお前だろ!」
「取ってねえよ。人を物みたいに言うなよ」
「お前が言うな!」
一瞬、言葉が途切れ、和也はユウタを見る。
「俺がどんな生き方してようが、それは俺が決めるよ。お前が嫌いなら嫌いでいい」
「……」
「でも何もしてないくせに、後から人のせいにすんなよ」
「何もしてない?」
「してないじゃん」
ユウタが椅子から立ち上がった。
「お前、本当にムカつくわ」
「そう?」
「マジで一発殴らせろ」
和也は座ったまま動かなかった。
――殴られたら、それはそれで面白いか。
そう思った直後、ユウタが腕を振り上げた。
「おい!」
リョウが立ち上がり、後ろからユウタを押さえる。
「離せよ!」
「やめろって! 店だぞ!」
「こいつ一回殴らねえと分かんねえんだよ!」
「殴って分かることなんかねえよ!」
店内の視線が完全に三人へ集まり、店員もこちらを気にしていた。
「もう帰る」
ユウタはリョウを振りほどき、荷物を掴んだ。
「二度とお前とは話さねえ」
「分かった」
「和也!」
リョウが睨む。
ユウタはそのまま店を出ていった。
少しして、和也が口を開く。
「……あいつ金払ってなくね?」
「そこ!?」
「いや、大事だろ」
リョウが頭を抱えた。
*
二人で店員に謝り、ユウタの分まで会計を済ませた。
店を出ると、リョウが長い息を吐く。
「最悪だったな」
「お前なんで来たの?」
リョウが妙に目を逸らした。
「いや……実はさ。ユウタがマユとお前のこと知ったの、俺のせいかもしれん」
「……どういうこと?」
「前にお前がマユとヤったって俺に言ったじゃん?」
「言ったね」
「それをユウタと飲んでる時に……軽い感じで言っちゃって」
「なんて?」
「『和也とマユ、ヤってんぞ』って」
和也はしばらくリョウを見た。
「お前さあ……」
「ごめん! マジでごめん!」
「なんで言うんだよ」
「いや、あんなキレると思わなくて」
「お前、本当に口軽いな」
「反省してる。今度なんか奢るから。……牛角でいいか?」
和也は少し考えた。
「最低でも叙々苑だな」
「高えよ!」
「人間関係一個壊したんだから安いだろ」
「まだ壊れたって決まってないだろ!」
「二度と話さねえって言われたけど?」
「……叙々苑で」
「よし」
その日はそれで別れたが、ユウタと元のように話すことはなくなった。ほどなくして店長にもあの夜の騒ぎが伝わり、ベルシードで過ごす時間は以前ほど単純に楽しいものではなくなっていった。




