第17話 しょうがないなあ②
あの日から、和也とルミの関係が大きく変わったわけではなかった。メールが急に増えたわけでもなく、バイト先では今まで通りだった。
「やほー」
「おはよ」
顔を合わせれば普通に話し、仕事が終われば今までと同じように送る。二人きりになればキスをすることはあったが、それ以上のことはなかった。
一度だけ、バイト先でルミと談笑している時に、カオリが二人を交互に見たことがある。
「ん? どしたの?」
「ううん。なんでもないよ」
それ以上、カオリは何も言わなかった。
*
それから一か月ほど経った頃、和也は家でいつものようにネトゲをしていた。
仲間と狩りをしている最中に携帯が鳴り、画面を見るとルミからだった。
『今バイト終わらせるから話したい。空いてる?』
和也は少し手を止めた。普段のルミなら、こんな連絡の仕方はしない。
――なんかあったな。
『空いてるよ。迎え行く』
すぐに返事を送り、ゲーム仲間には抜けるとだけ伝えて車を走らせた。
ベルシードの近くで待っていると、しばらくしてルミが店から出てくる。
「おつかれ」
「……うん」
助手席に乗り込んだルミは、和也の顔を見た瞬間に泣き出した。
「え、どうしたの?」
何も答えず俯いたまま、次から次へと涙を流している。
「ちょっと場所変えるか」
和也はそのまま車を出した。
*
人の少ない場所まで移動して車を止め、途中で買った水を渡す。ルミは少しずつ飲みながら、何度も目元を拭った。
「ごめんね。急に呼んで」
「いいよ。別に暇だったし」
「ゲームしてたでしょ」
「まあね。でも気にすんな」
しばらくすると、ルミが小さく息を吐いた。
「もう本当に嫌……」
さっきまでとは違い、今度は絞り出すような声だった。
「彼氏?」
ルミが頷く。
「何があったの?」
「この前ね、大学の友達と旅行行ったの」
「うん」
「八人くらいで」
ルミは手の中のペットボトルを見つめる。
「女の子だけじゃなくて、男の子もいたんだよね」
「そっか」
「ゼミの友達だから、別に何もないんだよ。本当にみんなで旅行行っただけ」
そこまで話してから、少し黙った。
「でも彼氏には、男の子がいるって言わなかった」
「なんで?」
「前にも旅行行くって話したことあって。その時、男もいるって言ったら絶対行くなって言われたの」
「行かなかったの?」
「うん。キャンセルした」
ルミが鼻をすすった。
「今回は行きたかったんだよね。大学の友達とも遊びたかったし、別に男の子と何かするわけじゃないし」
「うん」
「だから男の子もいるって言ったら、また行くなって言われると思って……言わなかった」
旅行中も彼氏には何度も連絡していた。何をしているか聞かれれば答え、写真を送れと言われれば送り、ただ送る写真は女友達と撮ったものばかりにした。
「男の子とはほとんど話してないんだよ。本当に」
「分かってるよ」
「女の子とずっと一緒にいたし。別に隠れて二人で会ったとか、そういうのも全然ない」
ルミは何度も同じようなことを繰り返した。和也に言い訳をしているというより、自分自身に言い聞かせているように聞こえた。
「それで帰ってきてから、携帯見られて」
「いつもの?」
「うん」
そこに旅行中に撮った集合写真が残っていたらしい。
「男いるじゃんって、いきなり怒り出して」
「集合写真?」
「そう。みんなで撮ったやつ」
ルミの声がまた震え始める。
「違うって言ったんだよ。ゼミの友達で、本当に何もないって。女の子とずっと一緒だったって言っても、全然聞いてくれなくて」
目にまた涙が溜まっていく。
「嘘ついた、騙したってずっと言われて……」
一度言葉を止めた。
「……叩かれた」
和也は何も言わず、ルミを見る。
「一回だけだけどね。平手で」
「……そっか」
「私も悪いんだよ」
ルミはすぐにそう続けた。
「男の子がいるって言わなかったし。最初からちゃんと言えばよかったんだと思う」
涙を拭いながら、それでも話し続ける。
「だから最初は、私が悪かったって謝ればいいかなって思ったの」
「うん」
「でもさ……」
声が詰まった。
「私、ずっと連絡してたんだよ。写真も送ったし、何してるかも全部言ってた。男の子がいるって言わなかったのは悪かったけど、本当に何もしてないのに」
和也は黙って聞いていた。
「こんなにしてるのに、何にも伝わってないんだって思ったら……なんかもう疲れちゃって」
また涙が落ちる。
「今日もバイト休もうと思ったんだけど、急に休んだら迷惑かかるじゃん」
「うん」
「だから行った。でも無理だった」
「それで早上がり?」
「うん」
ルミは少し笑おうとしたが、うまく笑えなかった。
「どうしたらいいか分かんなくなって、和也くん呼んだ」
*
それからもしばらく車を走らせながら話を聞いた。別れろとも、彼氏がおかしいとも言わず、助手席に伸ばした手でルミの手を握っていた。
時間が経つにつれて、泣く回数も少しずつ減っていく。
「水もうないじゃん」
「飲んじゃった」
「なんか買う?」
「ううん。大丈夫」
少し沈黙が続いた。
「家、帰る?」
ルミは首を横に振る。
「帰りたくない」
「そっか」
またしばらく車を走らせる。
「……帰りたくない」
二度目は、さっきより小さな声だった。
和也は少し考えた。
「それならさ」
「うん?」
「一瞬だけかもしれないけど、彼氏のこと忘れる?」
ルミが和也を見る。
「何?」
「一回、俺に抱かれてみようよ」
ルミの表情が止まった。
和也は前を向いたまま続ける。
「抱かれてる間くらい、あいつのこと考えなくて済むようにするから」
「……何それ」
「正直、俺はルミちゃんのこと好きなんだよね」
初めて、はっきり口に出した。
「彼氏のこと好きなのも知ってるよ。でも、こんだけ傷ついてるの見たら、俺も何かしたいじゃん」
「それでセックスなの?」
「俺にできることなんてそんなにないからね」
ルミが少しだけ笑った。
「セックスって残酷でさ。してる間って、そのこと以外あんまり考えなくて済むじゃん」
「なにそれ」
「だから、一瞬だけでも忘れさせてやるよ。俺がルミちゃんのこと好きだって、嫌ってほど分かるくらい」
「……変なの」
さっきまで泣いていたルミが、ほんの少しだけいつもの顔で笑った。
*
和也はそのまま車を走らせ、ホテルの近くまで来たところで助手席のルミを見る。
何も言わずに顔を近づけてキスをすると、ルミも目を閉じた。
唇を離す。
「んじゃ、行こうか」
ルミは和也を見たあと、小さく頷いた。
*
二人で風呂に入り、くだらない話をしながらじゃれ合った。さっきまで泣いていたルミが少しずつ笑うようになり、それを見るだけで和也も少し安心した。
その夜、二人は初めて一線を越えた。
どれくらい時間が経ったのか、和也自身よく覚えていない。ただ、ずっと繋がったままなんじゃないかと思うくらい、長くルミを抱いていた記憶だけは残っている。
途中、ルミの目に涙が浮かんでいるのが見えた。和也は気づいていないふりをして、何も聞かずにキスをした。
*
その夜を境に、二人の関係が大きく変わることはなかった。メールが増えたわけでもなく、ベルシードで会えば普通に話し、シフトが一緒なら以前と同じように送った。二人きりになればキスをすることもあったが、身体を重ねたのはあの一度だけだった。
そんなある日の帰り、助手席のルミが何気ない顔で聞いてきた。
「和也って、ミホちゃんと仲いいよね?」
「ん? まあ長いからね」
「リョウくんとも、いっつもくだらない話してるし」
「それは否定できない」
「あとさ」
「何?」
ルミが少し笑う。
「この前、カオリちゃんのこと目で追ってたでしょ?」
「追ってないって」
「追ってたよ」
「たまたまだよ。だって俺、ルミちゃん一筋だもん」
「はいはい」
「信じてない?」
「和也くんって、口だけなら何とでも言えるもんね」
「ひどくない?」
ルミは楽しそうに笑った。
別の日には、和也の方から聞いたこともあった。
「メールとか彼氏に見られないの?」
「大丈夫」
「なんで?」
「消せばいいって分かったから」
「学習したね」
「でしょ?」
ルミが得意そうに笑う。
*
しばらくすると、ルミがベルシードのシフトに入る回数が少しずつ減っていった。大学が忙しいのか、彼氏との時間が増えたのか、和也は詳しく聞かなかった。
それでもシフトが重なれば、いつものように送った。そんなある日の帰りだった。
「和也くん」
「ん?」
「今日でもう、送らなくていいよ」
和也は少しだけルミを見る。
「そっか」
何となく、理由は聞かなくても分かる気がした。それでもルミは、自分から話し始めた。
「和也くんには、本当に色々助けてもらったし」
「うん」
「好きって言ってくれたのも、すごく嬉しかった」
ルミは前を向いたままだった。
「でもね、やっぱり彼氏には私がいないとダメなんだと思う」
和也は何も言わない。
「色々嫌なこともされたし、私も何回も嫌になったけど……本当は優しいんだよ」
聞いたことのある言葉だった。
「今はちょっと忙しくて、余裕がないだけなんだって分かったの」
「……そっか」
「だから私がちゃんと向き合って、支えてあげようと思った」
和也は何も言えなかった。
しばらくして、小さく息を吐く。
「そっか。分かった」
ルミが和也を見る。
「俺はいつでもルミちゃんの味方だからね」
「うん」
ルミは笑った。
*
家の近くに着き、車を止める。
「今までありがとね」
「うん」
「楽しかった」
「俺も」
ルミがドアに手をかける前に、和也は声をかけた。
「一個だけお願いしていい?」
「何?」
「最後にキスだけ」
ルミは少しだけ和也を見た。それから何も言わず顔を近づけてくる。
二人で最後のキスをした。
「じゃあね」
「うん。またね」
ルミが車を降り、和也は車を走らせた。
少し進んだところで、一度バックミラーを見る。
そして、もう一度ブレーキを五回踏んだ。
それ以降、二人が連絡を取ることはなかった。




