第1話 最初の女
大学へ入った和也に、両親がパソコンを買ってくれた。
名目は大学の授業で使うためだった。レポートを書くこともあるだろうし、これからはパソコンくらい使えなければ困る。そんな理由で買ってもらったものだったが、もともと機械そのものに興味があった和也にとって、それはすぐに勉強道具以上のものになった。
それまでも携帯で出会い系サイトを使っていたが、自分のパソコンを持ってみると、インターネットにはそれとは比べものにならないほど色々なものがあった。検索すれば知らないことがいくらでも出てくるし、掲示板を覗けば、会ったこともない人間が好き勝手に意見を書き込んでいる。男も女も、年上も年下もいて、住んでいる場所も仕事も考え方も違う。
和也が面白がったのは、女と知り合えることだけではなかった。学校なら話す相手は同級生や先輩、後輩とだいたい決まっているが、ネットでは数分前まで存在すら知らなかった人間と突然会話が始まる。その感覚が気に入った。
気づけば、授業よりパソコンの前に座っている時間の方が長くなっていた。掲示板を見て、ネットゲームをして、チャットをする。大学へ行かなかった日でも、パソコンの電源だけは入っていた。
中でも和也が頻繁に利用していたのが、『Y-Chat』というチャットサービスだった。男女の出会い目的は基本的に禁止されていて、中心はあくまで雑談。それでも和也がよく覗いていた大部屋には、常時800人から1000人ほどの利用者が繋がっていた。
全員で一つの会話などできるはずもないので、流れていく発言を眺め、気になった相手とは個別に話す。和也もそこへ入り浸り、Hirokiというハンドルネームを使っていた。本名とは違うが、深い意味はない。プロフィールには19歳の大学生であることと、近場に住んでいる女性と話してみたいといったことを書いていた。
その日も、いつものように大部屋を眺めていた。誰かと話し、相手が消えれば別の誰かと話す。そんなことを繰り返していると、一通の個別メッセージが届いた。
相手は女だった。少なくとも、和也はそう信じた。当時の和也には、ネット上で女を名乗る相手を疑う発想がほとんどなかった。女と書いてあるなら女。それくらい単純だった。
相手はMisakiと名乗り、本人いわく25歳のOLで、横浜に住んでいるという。和也が住んでいた相模原からなら、それほど遠くない。
『近いじゃん』
思わずそう返した。それまでネットで知り合った女とは、住んでいる場所が壁になって会えないことも多かった。話が合い、電話もして、会ってみようという話になっても、簡単には行けない距離だとそこで止まる。金のない学生にとって交通費は馬鹿にならないが、横浜なら行ける。
和也の食いつきがよかったせいか、Misakiとのやり取りはすぐに弾んだ。最初は大学のことや仕事のこと、普段何をしているのか、ネットではどんなところを見るのかといった他愛もない話だったが、いつの間にか話題が変わった。
『会いたいの?』
『まあ、近いなら』
『女の子と遊びたい?』
『そりゃ遊びたいけど』
『彼女いないの?』
『今はいない』
ここまでは、まだ普通だった。
『したことは?』
和也の指が止まった。何を、とは聞かなかったし、聞く必要もなかった。
『最後まではない』
『じゃあ童貞なんだ』
文字で言われるだけなのに妙に恥ずかしい。ただ、和也はこういう話を嫌う男ではなかった。むしろ大好きだった。
そこからは早かった。初めての彼女とそこまで行きかけたことも、結局何もできなかったことも、聞かれるままかなり正直に話した。顔の見えない相手だからこそ、現実なら言わないことまで簡単に話せたし、Misakiも引くどころか、むしろ面白がっているようだった。
『童貞卒業したい?』
その文字を読んだ瞬間、迷う時間などなかった。
『うん』
即答だった。
話はその日のうちにまとまり、翌朝、横浜で会うことになった。待ち合わせ場所は駅近くのカフェ。ちょうどアルバイト代が入ったばかりで、電車代にもホテル代にも困らない。
チャットを終えたあとも、和也はなかなかパソコンの前から離れなかった。もう話すことはないのに、少しするとまた画面を見て、待ち合わせの時間や場所を確認する。本当に明日会うのか、今日まで童貞だった自分が明日にはそうじゃなくなっているのか。考えても実感は湧かなかった。
布団に入る前には財布の中身を確認し、着ていく服まで考えた。普段ならそんなことに時間をかけないのに、その日に限ってはなかなか決まらない。楽しみなのは間違いなかったが、妙に落ち着かず、いつもより遅くまで眠れなかった。
翌朝、電車に乗った時点で和也のテンションは明らかにおかしかった。本当に来るのか、会った瞬間に帰られないか、昨日の話は冗談ではなかったのか。それでも、結局考えていることは一つだった。
――今日、童貞じゃなくなるかもしれない。
横浜駅へ着いてからも落ち着かなかった。指定されたカフェへ向かいながら、すれ違う女を見るたびに、もしかしてあれか、と勝手に考える。顔も知らないのだから分かるはずもないのに、普段なら気にも留めない相手まで妙に気になった。
店へ入って周囲を見回していると、少ししてこちらを見ている女と目が合った。
聞いていたとおり25歳くらいに見えた。体型は少しぽっちゃりしていて、派手さはなく、どちらかといえば柔らかそうな雰囲気の女だった。チャットで話していた相手が本当に目の前に現れたことに、和也は少し安心した。
「ヒロキ?」
「あ、うん」
和也が答えると、ミサキが笑った。
「ほんとに19なんだ」
「そうだけど」
「しかも童貞」
会って早々、それだった。
「いきなりそれ言う?」
「だって昨日、自分で言ってたじゃん」
「言ったけどさ」
恥ずかしい。ただ、ネットで散々話した後だったせいか、不思議と話しにくくはなかった。
席に座ってコーヒーを頼み、実際に向かい合ってみてもミサキはよく喋り、仕事の話をしたり、和也の大学の話を聞いたり、昨日のチャットを思い出してはまた童貞だとからかった。
「そんなに珍しい?」
「19なら別に珍しくないんじゃない?」
「じゃあ言うなよ」
「反応が面白いから」
ミサキは楽しそうだった。30分ほどしてカップが空になる頃、彼女は言った。
「じゃ、行こっか」
何とは言わなかったし、和也も聞かなかった。
店を出て、横浜の街をミサキと並んで歩く。さっきまで普通に喋れていたのに、ホテルが見えたあたりから急に落ち着かなくなった。やがてミサキが一軒のホテルへ入っていき、和也も少し遅れてその後を追った。ホテルに入るのは初めてだった。
そこから先は知らないことばかりで、部屋の選び方すら分からないし、入ってからどう振る舞えばいいのかも分からない。ミサキはそんな和也を見ながら、一つずつ教えた。
「こういうときは、女の子を先に入れてあげた方がいいよ」
「そうなの?」
「そういうところが童貞なんだよ」
「知らないんだからしょうがないだろ」
部屋に入って二人きりになると、さっきまで以上に何をすればいいのか分からなくなった。ここが何をする場所かくらいは分かっているが、ホテルまで来れば勝手に何かが始まるわけではない。立ったままどうしたものかと迷っている和也を、ミサキは急かすこともなかった。
妙に慣れている。
その理由を知ったのは、すべてが終わってからだった。OLだと言っていたが、その手の仕事もしているらしかった。どこまでが本当だったのかは分からない。
しばらくして、隣でミサキが聞いた。
「童貞卒業してどう?」
和也は少し考え、最初に浮かんだことをそのまま言った。
「……イケなかった」
ミサキは笑った。
「初めてなんだから、そんなこともあるでしょ」
初めてならそんなものか、と和也も深く考えなかった。
帰り支度の途中、ミサキが言った。
「でも、意外と悪くなかったよ」
「何が?」
「さあ?」
それ以上は教えてくれなかった。
ホテルを出て、そのまま別れた。ミサキと会ったのは、それきりだった。
ミサキが、和也にとって最初の女になった。




