第99話:迷宮氾濫と、忌避される特例依頼
「……あり得ない。いくらなんでも、魔力濃度の変動が異常すぎます」
探索者協会の最上階、重厚なマホガニーのデスクが置かれた支部長室。
その部屋で、眉間を深く揉みほぐしながら呻き声を上げたのは、協会の専務理事であるセバスチャンだった。
彼の目の前のホログラムモニターには、迷宮の第15層から第20層にかけての中層エリアの魔力波形が、真っ赤な警告色となって狂ったように点滅している。
「原因は特定できているのかね、結衣くん」
「はい。先日、国内トップクランの一つである「獅子の牙」が、第18層の協会指定封鎖エリアにおいて、大規模な発掘作戦を強行しました」
佐藤結衣は手元のタブレットを操作し、さらに絶望的なデータをモニターに映し出した。
「第18層自体はとうの昔に踏破済みの階層ですが、あの一帯は極めて不安定な地脈が走っているため、長年立ち入りが禁じられていました。しかし彼らは、そこに眠る希少な魔石の層に目をつけ、協会の許可なく強引な掘削を行ったのです。その結果……誤って魔力溜まりの逆鱗に触れ、中層を支える防壁の基盤ごと広範囲に崩落させたようです」
「馬鹿者どもが……っ! 欲に目が眩んで、自らの足元を爆破したというのか!」
セバスチャンがドンッとデスクを叩きつける。だが、事態は一クランの自滅だけでは済まなかった。
「崩落した地脈のエネルギーに当てられ、中層一帯に生息していた数万という魔獣の群れが完全に狂暴化しました。現在、異常な速度で上層へ向けて雪崩を打って進軍しています。……いわゆる、スタンピード(迷宮氾濫)です」
セバスチャンの顔から完全に血の気が引いた。
スタンピード。それは、迷宮という閉鎖空間に収まるべき怪物たちが、限界を超えて地上へと溢れ出す、人類にとって最悪の災害。
現在の予測進路と速度から計算すると、あと三日もすれば、数万の魔獣が迷宮の入り口を突破し、この迷宮都市、ひいてはあの閑静な住宅街すらも蹂躙することになる。
「防衛の要であるトップクランの連中は何をしている! 自らの失態だろうが!」
「「獅子の牙」の主力部隊は、崩落の最初の波をまともに受けてすでに壊滅状態です。他のクランにも緊急招集をかけて防衛線を構築中ですが……敵の数が多すぎます。このままでは、第一防衛線とする予定の迷宮第5層で決壊するのは時間の問題かと」
結衣の冷酷なまでの事実報告に、セバスチャンは重い沈黙に沈んだ。
協会の全戦力を結集しても、この異常な規模の氾濫を完全に抑えきれる保証はない。万が一、地上に一匹でも魔獣が溢れ出せば、多大な民間人の犠牲が出る。
その時、セバスチャンの脳裏に、ある一人の「少女」の姿が過った。
Fランクという最底辺の肩書きを持ちながら、協会の最高戦力ですら手も足も出ない深層の怪物を平然と喰らい尽くす、あの理不尽な捕食者。
「……彼女に、依頼を出すしかあるまい」
セバスチャンの絞り出すような声に、結衣はビクッと肩を震わせた。
「如月三月、ですか。しかし専務、彼女を公の防衛戦に投入すれば、彼女の異常性が他の探索者たちに完全に露呈してしまいます! 彼女自身、目立つことを極端に嫌い、家族との平穏な日常を何より優先しているはず。そんな彼女が、他のパーティーと協力するような目立つ依頼を引き受けるでしょうか?」
「引き受けるさ。いや、引き受けざるを得ない」
セバスチャンは、モニターに映る魔獣の予測進路図を指差した。
「このスタンピードが地上に到達すれば、彼女の最も愛する「家族の日常」が物理的に破壊される。彼女はそれだけは絶対に許さないだろう。……それに、もし彼女の家族に万が一のことがあれば、あの怪物を地上に繋ぎ止める鎖は完全に消滅する。我々は、意地でもこの氾濫を食い止めねばならないんだ」
セバスチャンは決意を固めたように立ち上がった。
「結衣くん、至急、如月三月との極秘通信をセッティングしろ。依頼の内容は、迷宮第5層での最終防衛線への参加。ただし、彼女の素性を隠すため、他のトップパーティーとの「合同作戦」という形をとる。彼女にはあくまでFランクのサポート要員として紛れ込んでもらい、決壊しそうな箇所を秘密裏に潰してもらう」
「……承知いたしました。すぐに手配します」
結衣は一礼し、足早に支部長室を後にした。
残されたセバスチャンは、胃の痛みに顔を歪めながら、深い溜息を吐いた。あの化物を、他の人間のパーティーと協力させる。それがどれほど恐ろしい火種を生むか、想像するだけで寿命が縮む思いだった。
翌日の放課後。
如月家のキッチンでは、由美子がエプロン姿で夕食の仕込みをしていた。
いつものように、三月が手伝おうとして包丁に手を伸ばすと、由美子は優しくそれを止めた。
「三月、今日はもういいわよ。迷宮の探索で疲れているでしょう? お母さんが作るから、あなたは座って休んでいなさい」
「えっ……でも、お母さん、立ち仕事は腰が痛くなるって言ってたじゃない。私が手伝うよ」
「うふふ、ありがとう。でもね、これくらいならもう平気よ。三月が毎日頑張ってくれているのを見ていたら、お母さんも何だか力が湧いてきて。今日は三月のために、お母さんが全部作るわね」
由美子の嬉しそうな笑顔を見て、三月は少しだけ寂しいような、けれどそれ以上に温かい気持ちで包丁を置いた。
守りたかったものが、確実に強くなっている。その事実に、彼女は怪物としての自分を少しだけ肯定する。
三月がリビングで寛いでいると、スマートフォンの電子音が静寂を破った。
(……鉄山さんの組織からね)
「お母さん、ちょっとお友達から急ぎの連絡みたい。すぐに戻るね」
三月は自室へと戻り、ドアを閉めてスマートフォンの通話ボタンを押した。
「……はい。如月です」
「突然の通信、深くお詫び申し上げます。探索者協会の佐藤です。如月様、現在、非常に切迫した事態が発生しております」
通話の向こうから聞こえる結衣の声は、かつてないほど緊張し、微かに震えていた。
結衣は、あるトップクランが封鎖エリアで欲をかいた失態により中層で大規模なスタンピードが発生したこと、数万の魔獣が地上へ向かって進軍していること、そしてこのままでは迷宮都市そのものが火の海になることを、隠し立てすることなくすべて三月に伝えた。
「……それで?」
三月の声の温度が、一瞬にして絶対零度まで下がった。
家族の暮らすこの街が、お母さんの作った温かなご飯が、他人の間抜けなミスのせいで壊されようとしている。
その事実に対する静かで、しかし底知れぬ怒りが、通話越しにすら結衣の肌を粟立たせた。
「き、協会からの正式な依頼です。迷宮第5層に構築する最終防衛線へ、特例の遊撃要員としてご参加いただきたいのです。報酬は、協会の国家予算枠から白紙の小切手をご用意いたします。そして何より、如月様のご家族の安全を、物理的に死守するためにも……どうか、お力をお貸しください」
「いいわ。私の日常を脅かすゴミ掃除は、私の仕事だもの」
三月は一切の躊躇いなく即答した。家族に被害が及ぶ可能性が1ミリでもあるなら、何万匹いようがすべて根絶やしにする。原因を作った人間たちを恨む前に、まずは害獣をすべて肉片に変える。それが彼女の冷徹なルールだ。
「……ありがとうございます。ただ、一つだけ問題がございまして」
結衣が、言いにくそうに言葉を濁す。
「今回の防衛線は、協会に所属する複数のトップパーティーが結集して陣形を組みます。如月様が単独で前面に出れば、その異常な戦闘力が公になり、今後の「日常」に多大な支障をきたす恐れがあります」
「……なるほど。他の探索者たちの前で、Fランクの小娘として「協力」しながら、こっそりと敵を殲滅しろってことね」
「その通りです。他のパーティーには、如月様を「協会が派遣した特殊な索敵・支援要員」として紹介いたします。ご不便をおかけしますが、どうか他の探索者との「協調」をお願いできないでしょうか」
三月は電話口で、小さく、ひんやりとしたため息をついた。
圧倒的な力で全てを粉砕するだけのいつもの探索とは違い、他人の目を気にしながら力の手綱を握らなければならない。しかも、原因を作った同業者たちと足並みを揃える芝居を打つ必要がある。それは彼女にとって、何よりも面倒で煩わしい作業だった。
「分かったわ。家族の夕食には絶対に間に合わせたいから、手っ取り早く終わらせるように努力する」
「……くれぐれも、他の探索者の方々を「巻き込まない」よう、お願い申し上げます」
結衣の悲痛な願いを背中で聞き流しながら、三月は通話を切った。
「さて。明日から少し面倒なことになりそうね」
三月は自室のドアを開け、キッチンから漂う美味しそうな生姜焼きの匂いに目を細めた。
数万の魔獣の大群と、何も知らないトップ探索者たち。
彼女にとっての最大の敵は、モンスターの群れではなく、「いかにして人間たちの前で怪物の本性を隠し通すか」という、理不尽な縛りプレイの始まりだった。
次話では、いよいよ防衛線での激闘が幕を開けます!
三月がいかにして「周囲を巻き込まずに」かつ「素性を隠したまま」大群を処理するのか。ぜひご期待ください!
面白い、続きが読みたい!と思っていただけましたら、ぜひブックマーク登録や下部の評価ボタンでの応援をよろしくお願いいたします!皆様の熱い応援が、次回執筆の原動力です!




