第96話:星鉄の鼓動と、人類未踏の星海
朝の柔らかな陽射しが、如月家の真新しいダイニングテーブルを照らしている。
ベーコンの焼ける香ばしい匂いと、温かいトーストの香りが漂う中、三月はエプロン姿で家族の朝食の片付けをしていた。
「それじゃあ、行ってくるわね。三月も、今日は久々の迷宮だからって無理しちゃ駄目よ?」
「姉ちゃん、行ってきます! 今日の論文の検証、絶対上手くいく気がするんだ!」
「いってらっしゃい、お母さん、拓也。お父さんも、お散歩気をつけてね」
玄関で手を振る三月の笑顔は、太陽のように明るく、一片の曇りもない完璧な「優しいお姉ちゃん」のそれだった。
バタン、と玄関のドアが閉まり、家の中に静寂が訪れる。
『気配察知(微)』で家族が完全に敷地外へ出たこと、そして家の周囲を『護民の盾』のプロボディガードたちが完璧に固めていることを確認した瞬間。
三月の顔から、温かな感情の色がスッと抜け落ちた。
「……さて。一ヶ月ぶりの『お食事』と行きましょうか」
三月は自室に戻り、漆黒のインナースーツと、それをすっぽりと覆い隠す新調したロングコートに袖を通す。
コートの下に隠された両腕には、一ヶ月前の第30層の死闘で刻まれた、赤黒く焼け焦げたケロイド状の『凄惨な傷跡』がびっしりと走っている。神経は繋がり、以前以上の出力で動かせるようになったとはいえ、この物理的な代償の痕が消えることは永遠にない。
だが、彼女の心に後悔はない。
この傷跡も、欠落していく人間性も、すべてはさきほど見送った家族の笑顔を守るための安い対価に過ぎないのだから。
三月は背中に、新しく生まれ変わった相棒――『双極の魔刃・黒月』を背負う。
第29層の階層主から抉り出した超高密度の魔法金属『星鉄の核殻』を全量注ぎ込み、鉄山が不眠不休で打ち上げた特製の封印鞘。そして、同じく星鉄を芯材に噛み合わせて極限まで補強された刀身。
背負っているだけで、まるで小さな隕石を背負っているかのような凄まじい質量を感じるが、現在の三月の『怪力(中)』の出力からすれば羽のように軽かった。
三月は誰の目も届かない自室の虚空に向かって右手をかざす。
莫大な魔力で空間そのものを強引に捻じ曲げ、周囲の光を呑み込む**『漆黒のポータル』**を展開した。
向かう先は、人類の歴史上、誰一人として見たことのない未知の深淵。
三月は漆黒のコートの裾を翻し、暗黒の渦の中へと躊躇いなく足を踏み入れた。
一瞬の浮遊感。
ポータルを抜けた三月の足が捉えたのは、硬い地面ではなく、奇妙な『水面』の感触だった。
「……ここは」
そこは、常識や物理法則が完全に破綻した異次元の空間だった。
見渡す限り、果てしなく広がる波一つない漆黒の海。
そして見上げる空には、太陽も雲もなく、ただ狂気的なまでに無数の「星々」が毒々しい極彩色で輝き狂っている。
上と下の概念すら曖昧になるような、宇宙の底に作られた水鏡の世界。
迷宮第31層『原初と虚無の星海』。
大気中の魔素濃度は、もはや「有毒」というレベルを通り越し、空間そのものがドロドロの液状の魔力で満たされているかのような錯覚に陥るほどの超高密度空間。
並の探索者であれば、一歩足を踏み入れた瞬間に細胞が魔力酔いを起こして破裂し、即死する絶対領域だ。
「人類未踏の領域って言うから身構えてたけど……ただの綺麗な夜の海じゃない」
三月は足元に魔力を循環させて水面の上にふわりと立つと、一切の感動も恐怖も交えずに周囲を見渡した。
その時である。
ボゴォォォォォォォォォォンッ……!!!
三月の立つ水面から数百メートル離れた漆黒の海が、突如として天高く爆発した。
毒々しい星明かりを反射しながら、海中から姿を現したのは、全長百メートルを超える巨大な神話の怪物――『虚海の星喰い(ヴォイド・リヴァイアサン)』。
その姿は魚でも竜でもなく、幾何学的なクリスタルと、無数の不気味な青白い眼球で構成された、冒涜的なまでの異形だった。
怪物が一つ咆哮を上げると、空間そのものがガラスのようにヒビ割れ、莫大な魔力がレーザーの雨となって三月へと降り注ぐ。
物理攻撃ではない、純粋な極大魔力の面制圧攻撃。
『自動透過の理』ではすり抜けられない、一ヶ月前の彼女であれば致死の危機に瀕していたであろう大質量魔法だ。
だが、三月は避ける素振りすら見せなかった。
「……ふふっ。試すには丁度いいわね」
ズガガガガガガガガッ!!!
無数の魔力レーザーが、三月の華奢な肉体を容赦なく直撃し、周囲の海面を激しく蒸発させる。
しかし、爆煙が晴れた後。
そこには、コートの裾一つ焦がすことなく、無傷で平然と立ち尽くす三月の姿があった。
『……ギィ、ォ……!?』
異形の怪物の無数の眼球が、驚愕に見開かれる。
三月の血管と魔力回路には、一ヶ月前に第30層の竜血騎士から毟り取った**『絶魔の竜血(小)』**の理が強固にコーティングされている。
人類の限界点であった「絶対魔法耐性」を受け継いだ今の彼女の肉体は、この程度の魔法干渉では傷一つ付かない無敵の防壁と化していたのだ。
「次は、こっちの番よ」
三月は右手を背中の大剣へと伸ばし、重厚な星鉄の鞘から『黒月』を抜き放った。
その瞬間、刀身が主の魔力に呼応し、禍々しい産声を上げる。
右の回路から絶対零度の『氷結(真)』を。
左の回路から全てを爆砕する『爆熱(微)』を。
『多重並列処理』によって、限界を遥かに超えた二つの相反魔力を、黒月の刀身へと一気に流し込む。
一ヶ月前、素手で行い自壊した致死の極大出力。
しかし、星鉄を組み込まれて生まれ変わった黒月は、一切の悲鳴を上げることなく、その莫大なエネルギーを完璧に刀身へと定着させた。三月の両腕へのバックバウンド(自壊)も、『絶魔の竜血』のコーティングによって完全に無効化されている。
「【熱衝撃波】」
三月は水面を蹴り、一瞬で虚海のリヴァイアサンの頭上へと跳躍した。
そして、真紅と蒼碧の極光を放つ黒月を、無慈悲に振り下ろす。
刀身が怪物の眼球を両断した瞬間、極度の凍結が百メートルを超える巨体を一瞬で絶対零度の氷像へと変える。その直後、内部へとねじ込まれた爆熱が凄まじい勢いで膨張した。
パリィィィィィンッ!!!
人類の誰も見たことのない未知の深淵の主が、鼓膜を裂くような破壊音とともに、分子レベルで粉々に砕け散る。
周囲の漆黒の海すらも、熱衝撃波の余波によって真っ二つに割れ、海底の暗闇を露出させていた。
「……すごいわ、鉄山さん。これだけ出力を上げても、刀身が全く熱を持っていない」
三月は空中で黒月を軽く振り、一切の刃こぼれがないことを確認すると、満足げに重厚な鞘へと納めた。
完璧な武器と、完璧な耐性。
一ヶ月の療養期間は、彼女をさらなる理不尽な怪物へと昇華させていた。
三月は水面に着地すると、空から降ってきたリヴァイアサンの巨大な魂(魔石)を拾い上げ、口へと放り込む。
流れ込んでくる『空間歪曲』や『魔力ブレス』といった大味なスキル群。
三月は昨日までと同じように、冷徹な演算でそれらの定着を無意識下で棄却する。必要なのは己の「器」そのものを巨大化させ、ただ一振りの剣技に全てを注ぎ込むための純粋なエネルギーだけだ。
『魂喰い』によって莫大な力が純粋な『魔力許容量の拡張』へと変換され、彼女のステータスはまた一つ、神の領域へと近づいていく。
「……さて。お買い物をして帰らないと」
人類未踏の第31層をわずか数分で蹂躙し終えた三月は、周囲に広がる美しい星海には目もくれず、空間にポータルを開いた。
「今日の夕飯は、お父さんが食べたいって言ってた肉じゃがにしようかな。糸こんにゃく、安売りしてるといいんだけど」
世界の果ての光景よりも、特売日のスーパーのチラシの方が圧倒的に重要。
両腕に消えない怪物の証(傷跡)を隠し持った少女は、家族の待つ温かな日常の食卓を守るため、ただただ冷徹に未知の深淵を噛み砕いていくのだった。
第96話をお読みいただきありがとうございます!
ついに人類未踏の領域である第31層『原初と虚無の星海』へと足を踏み入れました!
1ヶ月の療養を経て、超高密度の新素材『星鉄』で生まれ変わった黒月と、魔力自壊を防ぐ新スキル『絶魔の竜血(小)』。この二つが組み合わさったことで、三月はついに「自壊の代償なしに、極大の熱衝撃波を最大出力で連発できる」というチート級の完成形に到達しました。
敵の強力な魔法の雨を無傷で受け止め、一振りで未知の深淵の主を真っ二つにする無双劇。
しかし、彼女の関心は「夕飯の肉じゃがの具材」にしか向いていないという、この異常なまでの日常への執着と怪物性のギャップこそが三月の魅力ですね。
どこまで深淵は続くのか。そして、三月の「器」はどこまで巨大化していくのか!
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