第94話:人類未踏の扉と、素手の捕食者
永遠に沈むことのない、血のように赤黒い夕日が街全体を不気味に照らし出している。
空からは黒い灰が雪のように絶え間なく降り注ぎ、致死量の魔素を含んだ大気が肺を焼く。
迷宮第30層『落日の古都』。
探索者協会の歴史において、数多の英雄たちが命を散らし、誰一人として突破できなかった**『人類最高到達点』**と呼ばれる絶望の階層。未知の底なし穴である迷宮において、人類が観測できている最果ての景色がここである。
その廃墟の大通りの中心で、三月は一切の武器を持たぬ丸腰のまま、この階層の絶対的守護者である『深淵の竜血騎士』と対峙していた。
ズズン……。
身の丈を優に超える漆黒の重鎧に身を包んだ騎士が、引きずる巨大な大剣で石畳を削りながら一歩を踏み出す。その圧倒的なプレッシャーは、生物としての「格」が人間という種を完全に下に見下している絶気だった。
『……ギィォォォォォォォォ……ッ!!』
騎士が咆哮とともに大剣を横薙ぎに振り抜く。
大剣の軌跡から高密度の魔素を圧縮した巨大な「真空の刃」が放たれ、大通りの両脇にそびえ立つ石造りの神殿群を、まるで豆腐のように次々と両断して崩落させていく。
「……なるほど。さすがは人類の限界点。ただの素振りで街が消えるのね」
三月は『俊敏(中)』による超高速のステップで真空の刃の嵐を掻い潜る。
武器がない以上、直接触れて内部から壊すしかない。三月は『重力操作(微)』で自身の体重をゼロにし、弾丸のような速度で竜血騎士の懐へと肉薄した。
騎士の必殺の大剣が上段から振り下ろされる。
三月は『自動透過の理』を起動し、コンマ数秒だけ実体を持たない幻影へと変換して刃をすり抜けた。
――ジリッ。
「……っ」
透過から実体へと戻った瞬間、三月の右腕と頬の皮膚が焼け焦げ、鮮血が噴き出した。
物理干渉は透過できても、騎士が刃に纏わせている「竜血の呪い」という高濃度の魔力毒が空間に残留し、実体化直後の彼女の防壁を容易く貫いたのだ。
三月は痛覚すらも冷徹な演算の一部として処理し、騎士の巨大な胸部装甲へと両の掌を叩きつけた。
右の手のひらに絶対零度の『氷結(真)』を。左の手のひらに全てを灰にする『爆熱(微)』を。
『多重並列処理』によって限界まで高められた相反する二つの極大魔力が、直接騎士の装甲へと流し込まれる。
だが、人類の最高到達点に君臨する守護者は、伊達ではなかった。
『ガ、アァァァァァッ!!』
竜血騎士の漆黒の重鎧が赤黒いオーラを噴出させる。
竜の血を浴びて鍛え上げられたという「絶対の魔法耐性」。それが三月の流し込む氷結と爆熱を強烈に拒絶し、反発した。
「黒月」という強力な触媒を持たない素手での極大魔法の同時発動。装甲表面で弾かれた極寒と爆熱の魔力が、三月の両腕に致死的なバックバウンド(魔力逆流)として襲いかかる。
皮膚が凍りつき、直後に毛細血管が沸騰して破裂し、両腕の筋肉が内側からズタズタに裂けて夥しい血の霧が舞った。
「……粉々に、砕け散りなさいッ!」
三月は口から血を流しながらも、怪物の本能で限界を超えた魔力出力を強制的に両腕へと叩き込む。
「【熱衝撃波・掌】!!」
魔法耐性を完全に上回る暴力的な魔力の大津波がゼロ距離で解放された。
限界を超えた極度の凍結が重鎧の分子構造を強制停止させ、その直後に内部にねじ込まれた爆熱が凄まじい勢いで膨張する。
『ゴ、ォォォォォォォォォォッ!?』
鼓膜を突き破る大音響とともに、絶対の魔法耐性を誇った騎士の重鎧が、胸部を中心に内側から木端微塵に爆砕された。
露出した赤黒く脈動する巨大な核へ向けて、三月は上空へ跳躍し、全重力ベクトルを乗せた凶悪な踵落としを無慈悲に叩き込む。
パリィィィンッ……!!
硬質な破壊音とともに、核を砕かれた第30層の絶対的守護者は、無数の光の塵となって赤い夕日の中へと消え去っていった。
「……ふぅ。さすがに素手で直接熱衝撃波を撃ち込むと、腕が完全に使い物にならなくなるわね」
石畳に静かに着地した三月は、自身の両腕を見下ろした。
ボロボロに焼け焦げ、凍傷で黒く変色し、裂けた肉の奥から白い骨すら一部露出している。神経は断裂し、指先一つ動かすことすらままならない。絶え間なく血が滴り落ちていた。
彼女の能力『魂喰い』には、都合の良い治癒能力など一切備わっていない。この傷は、生身の肉体が負った重篤な物理的損傷として確実に彼女の身を削っている。
三月は足元に転がった階層主の魂(魔石)を足先で跳ね上げると、口で直接受け止め、嚥下した。
『魂喰い』が発動した瞬間。
「――ッ、あ、ぁぁぁぁぁぁっ!?」
三月は激痛と狂乱に膝から崩れ落ち、血の混じった胃液を石畳に激しくぶちまけた。
莫大なエネルギーとともに、人類を拒絶し続けてきた竜血騎士の強烈な怨念と極大の魔素が、三月の『魂の器』を内側から食い破ろうと暴れ狂ったのだ。
昨日得た『精神耐性(中)』が必死に自我の完全崩壊を防ごうとするが、素手での無茶な魔法行使によって肉体そのものが限界を迎え、脳の処理能力が完全にショートしかけていた。
「殺す……すべて、滅ぼす……違う、私は……お姉ちゃんで、お母さんの、ご飯……ガアァァァッ!!」
人間としての理性と、怪物としての破壊衝動が激しく入り混じり、視界が明滅する。
三月は自身の頭を血まみれの腕の根本で何度も殴りつけながら、無理やりその暴虐な魂を『多重並列処理』による演算でねじ伏せにかかった。
大味なスキル群を棄却し、人類未踏の階層主が誇った圧倒的な防御の根源だけを力ずくで毟り取る。
新スキル**『絶魔の竜血(小)』**を獲得。
いかなる魔法干渉をも弾き返す理が体内の血管をコーティングしていくが、暴走状態の精神と、すでに負ってしまった肉体のダメージは全く回復しない。
荒い息を吐きながら顔を上げると、大通りの最奥に地響きとともに「巨大な石の扉」がせり上がっていた。
人類の誰も到達したことのない第31層へと続く扉。
「帰ら……なきゃ。お母さんが……心配、する……」
意識が朦朧とする中、三月は虚ろな目でそれを見つめる。
彼女は自身のコートの裏地を歯で噛み千切り、足を使って無理やり両腕の止血を試みるが、動脈から溢れる血は止まらない。
この血みどろで骨が露出した姿で家に帰れば、家族の平穏は完全に崩壊する。嘘の笑顔で誤魔化せるような傷ではない。
三月は最後の理性を振り絞り、家ではなく、唯一の同盟者の元へと『漆黒のポータル』を繋いだ。
場面は変わり、深夜の武器屋『黒鉄堂』。
鉄山厳が工房で作業をしていると、突如として空間が歪み、そこから血まみれの三月が力なく転がり落ちてきた。
「嬢ちゃん!? おい、なんだその腕は……ッ!!」
鉄山は駆け寄り、その惨状に息を呑んだ。両腕は肉が削げ、骨が砕け、ただ辛うじて繋がっているだけの状態。出血量も致死量に近い。
「鉄山、さん……ごめん、なさい……。この腕、お母さんに、見せられない……。三日くらいで、なんとか、隠せるように……」
血の気を失った虚ろな目で微笑もうとする三月に、鉄山は激怒と悲痛の混じった怒号を張り上げた。
「馬鹿野郎!! 隠せるわけねえだろ! 骨まで砕けて神経もズタズタじゃねえか! お前、素手で何とやり合いやがった!」
「大丈夫……私、怪物だから……」
「黙れ! 魂喰いは傷まで治してくれねえんだぞ! いいか、一ヶ月だ! いや、それ以上かもしれねえ!」
鉄山は即座に通信機を取り出し、自身の裏組織『護民の盾』が提携している専属の闇病院へと緊急の医療チームを手配した。
「俺の組織の病院に今すぐぶち込む! 家族には、東雲の野郎と口裏を合わせて『協会からの極秘の長期遠征依頼』だと誤魔化してやる。お前はもう人間じゃねえかもしれねえが、肉体は限界なんだ! だから今は、大人しく寝てろ!!」
その言葉を聞き、三月は「家族にバレない」という安心感から、ついに張り詰めていた意識の糸がプツリと切れ、深い昏睡へと落ちていった。
怪物の階段を上り続ける少女は、初めてその無茶な歩みを強制的に止められることとなった。
三月が強制入院している「1ヶ月」の間、地上や家族、そして協会はどう動くのか。
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