第93話:無機質な微笑と、人類未踏の扉
鉄山の組織『護民の盾』によって完璧な警護が敷かれた、閑静な住宅街の一角。
如月家の新しいダイニングテーブルの上には、純白の生クリームと真っ赤なイチゴが宝石のように輝く、豪勢なホールケーキが置かれていた。
「わあ……! 三月、これ駅前の有名なケーキ屋さんのじゃないか! いつも行列ができてて、なかなか買えないって噂の……!」
父の昭雄が、まるで子供のように目を輝かせてケーキの箱を覗き込む。
かつて薄暗いアパートの万年床で、死の影に怯えながら激しく咳き込んでいた彼の面影は、もうどこにもない。三月が迷宮の深淵から持ち帰る資金で手に入れた高価な特効薬と、この安全でストレスの一切ない環境が、彼を完全に健康で活力ある父親へと引き戻していた。
「お父さん、甘いもの好きだったでしょ? 今日は上層の探索で少し臨時収入があったから、奮発して買ってきちゃった。みんなで食べよう?」
三月は、これ以上ないほど愛らしく、年相応の優しい娘としての完璧な笑顔を浮かべて、包丁でケーキを切り分ける。
「ありがとう、三月。でも、本当にお金は無理して使わなくていいのよ? あなたが怪我なく、毎日こうして笑顔で帰ってきてくれるだけで、お母さんたちは十分幸せなんだから」
母の由美子が、三月のお皿に一番大きなイチゴが乗ったピースを取り分けながら、目を細めて微笑む。
向かいの席では、弟の拓也が「姉ちゃん、サンキュ! 糖分補給して、また東雲先生の仮説の検証論文を書かないと!」と、すでに猛烈な勢いでケーキを頬張っていた。
温かい紅茶の香りと、家族の弾むような笑い声。
三月が命を懸けて守り抜くと誓った、何よりも尊い「絶対の楔」たる光景がそこにあった。
(……美味しい)
三月はフォークで切り分けたケーキを口に運びながら、静かにそう思った。
舌の上で溶ける生クリームの甘さも、イチゴの酸味も、確かに脳の味覚中枢に「幸福な味」として伝達されている。
だが、彼女の心の奥底、魂の器の中心は、恐ろしいほどの静寂に包まれていた。
かつての三月なら、自分の本来の姿――深層の怪物を無表情で惨殺し、その魂を貪り喰らっている血塗られた真実――を家族に隠し、平然と嘘をつき続けているこの状況に対して、胸が締め付けられるような罪悪感を覚えていたはずだった。
しかし今、彼女の心には『罪悪感』の欠片すら存在しない。
昨日、第28層の階層主から魂を喰らい、新たに獲得した**『精神耐性(中)』**の理。
それがいかなる精神攻撃や恐怖をも弾き返す防壁であると同時に、彼女の中から「嘘をつくことへの心理的負荷」という人間らしい感情のノイズすらも、魔力回路の安定のために自動で完全にシャットアウトしてしまっているのだ。
今の三月は、一切の躊躇いも、心の痛みもなく、ただ呼吸をするのと同じくらい自然に「優しい家族の輪」を演じることができる。
それは、彼女の精神構造が、人間という生物の枠組みを完全に外れ、目的を遂行するためだけの「完璧な怪物」へと到達しつつある明確な証拠だった。
(これでいい。私が怪物になろうと、悪魔になろうと……この笑顔を守れるなら、心がどうなっても構わない)
三月は一切のブレのない無機質な優しさで、両親と弟に向けて、この世で最も美しい「嘘の笑顔」を向け続けた。
その日の深夜。
家族が寝静まったのを確認した三月は、自室の窓から音もなく夜の闇へと溶け出した。
『護民の盾』のプロボディガード・斎藤が敷いている厳重な警備網の死角を『気配察知(微)』で完全に把握し、誰の目にも触れることなく裏路地へと駆け抜ける。
向かった先は、深夜の迷宮都市で密かにシャッターを下ろしている武器屋『黒鉄堂』の裏口だった。
「……嬢ちゃんか。こんな夜更けに何の用だ? また鞘が限界を超えたって泣きつきに来たのか?」
工房の奥で炉の火を落としていた鉄山厳が、呆れたような顔で葉巻を咥えながら振り向く。
三月は何も言わず、漆黒のロングコートのポケットから、ドサリと重々しい音を立てて「それ」を作業台の上に置いた。
第29層の階層主から抉り出した超高密度の魔法金属――『星鉄の核殻』の塊である。
「……ッ!?」
鉄山は咥えていた葉巻を落としそうになりながら、目を見開いてその金属塊に飛びついた。
鍛冶職人としての本能が、その素材が放つ異常な密度と、内包された莫大な魔力に激しく警鐘を鳴らしている。
「おい……嘘だろ。こいつは、ただの魔鋼じゃねえ。密度が地上の金属の数十倍はありやがる……まさか嬢ちゃん、伝説にしか聞かねえ『重力異常階層』の主を単独でバラしてきたのか!?」
「鉄山さんが、もっと強固な素材が必要だって言ったから。今の私の出力と、黒月の特性に完全に耐えられる『新しい鞘』、これで打てる?」
三月が小首を傾げて尋ねると、鉄山はゴクリと唾を飲み込み、震える太い指で星鉄の表面を撫でた。
「……打てる、なんてもんじゃねえ。こいつは鍛冶屋にとって一生に一度拝めるかどうかの神の素材だ。これだけの質量と魔力耐性があれば、嬢ちゃんのイカれた極寒と爆熱の魔力を完全に抑え込む、最強の封印鞘が作れる……!」
鉄山の目には、すでに職人としての狂気じみた執念の炎が灯っていた。
「だが嬢ちゃん、こいつを加工して完璧な鞘と、黒月の補強を終えるには、俺が不眠不休で叩き続けても丸三日はかかる。その間、黒月はお前に返せねえし、今の出力でお前がその辺のナマクラ剣を使えば、一振りで自壊して使い物にならなくなるぞ」
「三日ね。分かったわ、待ってる」
三月はあっさりと頷き、背中から『黒月』を抜き放つと、愛おしそうに刀身を撫でてから鉄山に手渡した。
「おい、待ってるって……お前、武器もなしに丸腰でどうするつもりだ? まさか素手で深層に潜るなんて馬鹿なマネはしねえだろうな?」
鉄山がギョッとして尋ねると、三月は振り返り、ゾッとするほど冷たく、そして美しい笑みを浮かべた。
「まさか。ただの『偵察』よ。……ずっと目標にしていた場所の、扉を開けるだけ」
三月は工房の死角に向かって右手をかざし、自身の莫大な魔力で空間を捻じ曲げて『漆黒のポータル』を展開する。
鉄山の制止の声を背中で聞き流し、三月は暗黒の渦の中へとその身を投じた。
一瞬の浮遊感。
そして三月の足が降り立ったのは、これまで潜ってきたどの階層とも異なる、圧倒的で濃密な「死」の気配に満ちた空間だった。
迷宮の第30層。
そこは、探索者協会が設立されてから現在に至るまで、数多の英雄やトップクランが莫大な犠牲を払って挑み、そしてその多くが命を散らしてきた**『人類最高到達点』**である。
世界中のいかなる超人も、未だこの第30層の守護者を打ち倒し、その先の階層へと足を踏み入れた者はいない。
そもそも、この狂った迷宮という底なしの縦穴が一体何層まで続いているのか、最下層という「果て」が存在するのかすら、人類は誰一人として知らないのだ。
三月は今、人類の知識の最果て、絶対的な未知との境界線に立っていた。
目の前に広がっていたのは、永遠に沈むことのない血のように赤い夕日に照らされた、見渡す限りの廃墟の都市――第30層『落日の古都』。
崩れ落ちた巨大な城壁と、朽ち果てた石造りの神殿群。
空には黒い灰が雪のように絶え間なく舞い散り、大気中に含まれる魔素の濃度は、上層の数千倍という致死量に達している。普通の人間であれば、この空気を一口吸い込んだだけで全身の細胞が魔素の毒に侵され、数秒で即死するほどの極限環境だった。
「……ここが、人類の限界点。ようやく辿り着いたわね」
三月は『毒耐性(中)』のパッシブ効果と、『精密魔力循環』による大気の濾過で呼吸を確保しながら、武器を持たない素手の手のひらをゆっくりと開閉した。
未知の領域とはいえ、今日は本当にただの偵察。人類を阻んできた階層の空気を味わうだけのつもりだった。
だが。
ズズン……。
灰の降る大通りの奥から、圧倒的なプレッシャーが三月の全身を叩きつけた。
それは、第29層の巨兵が持っていた「質量」による重圧ではない。もっと根源的な、生物としての「格の違い」を見せつけるような、強烈な殺気の波動。
『空間把握(中)』のレーダーが、前方の空間に「一つ」の極小かつ極大の反応を捉える。
赤い夕日を背にして現れたのは、漆黒の重鎧に身を包み、身の丈を優に超える巨大な大剣を引きずる、一人の騎士の姿だった。
兜の奥からは、青白い怨念の炎が眼光として揺らめいている。
人類最高到達点の門番にして、数多の探索者を屠ってきた第30層の絶対的守護者――『深淵の竜血騎士』。
「……なるほど。人類の限界点は、私に『お散歩』を許してくれるほど優しくないみたいね」
騎士がゆっくりと大剣を構えた瞬間、周囲の空気が一気に凍りつき、空間そのものが恐怖に震えるような錯覚を覚えた。
『精神耐性(中)』を持つ三月でなければ、その場に立っていることすら不可能なほどの絶気。
だが、丸腰でこの化け物と対峙することになった三月の口角は、わずかに、そして凶悪に吊り上がっていた。
「いいわ。武器がなくても、私の『器』がどれだけ広がったのか、人類の壁を相手に試してあげる」
愛する家族を守るため、人間の心を切り捨てて完璧な怪物の精神を手に入れた少女。
底知れぬ深淵が何層まで続いているのかなど、彼女にとっては些末な問題でしかない。
彼女は漆黒のコートの裾を翻し、武器を持たぬ両の手に極寒の『氷結』と破壊の『爆熱』を直接宿しながら、人類を拒み続けてきた絶対者へと、単身で駆け出した。
ついに人類未踏の領域をこじ開ける戦いが始まります。黒月なしで、広がりきった魔力と基礎ステータスのみで三月はどう戦うのか!?
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