第90話:完璧な嘘と、深緑の猛毒海
1. 登場人物
如月三月: 主人公。18歳、Fランクを装う深層の捕食者。家族の平穏が行動原理。
如月昭雄(あきお/父): 大病から回復傾向にある父。三月の稼ぎで体調が大幅に改善中。
如月由美子(ゆみこ/母): 三月の最大の精神的支え。美味しい手料理で彼女の人間性を繋ぎ止める。
如月拓也(たくや/弟): 秀才の迷宮学徒。姉の持ち帰る物品から、その秘密に勘づき始めている。
鉄山厳: 武器屋『黒鉄堂』店主。専用装備を打つ職人であり、裏の同盟者。
東雲慧: 迷宮学者。三月の正体を隠蔽し、拓也の疑惑を逸らすための情報操作を行う協力者。
セバスチャン: 探索者協会監察局長。三月の異常性を恐れ、徹底した「非敵対・腫れ物扱い」で水面下から支援。
佐藤結衣: 探索者協会の受付嬢。三月の身をいつも案じる心優しい窓口担当。
斎藤: 三月の依頼を受け、如月家の周囲を裏から警護する「護民の盾」のプロボディガード。
2. 能力・ステータス
固有・身体: 『魂喰い(ソウルイーター)』『魔力許容量の拡張』。物理干渉をすり抜ける絶対回避『自動透過の理』。『怪力(中)』『俊敏(中)』『堅牢(中)』。
魔力操作: 『精密魔力循環』+『多重並列処理』による相反魔力の独立制御。空間を操る『重力操作(微)』『磁力操作(微)』、さらに深層で獲得した『流体操作(微)』『電磁操作(小)』。
属性魔法: 毒、氷結(真)、爆熱(微)、必殺技『熱衝撃波』。
耐性・感知・解析: 『毒耐性(中)』『気配察知(微)』、脳内3Dマップ『空間把握(中)』、ステータスを隠す『魔力隠蔽(中)』、物質構成を見破る最新能力『解析(小)』。
3. 装備
双極の魔刃・黒月: 鉄山製の黒い魔鋼剣。極寒と爆熱を両立・中和・増幅させる相棒。
黒月の専用鞘: 鉄山による調整品。漏れ出る極大の冷気と熱量を完全に封じ込める。
漆黒のロングコート & インナースーツ: 耐熱・高強度の特殊繊維製で、機動性を阻害しない基礎装備。
如月家の小さなアパートには、甘辛い醤油と牛肉がじっくりと煮える、たまらなく芳醇な匂いが隅々まで充満していた。
今日は月に一度の贅沢、家族全員が楽しみにしていたすき焼きの日だ。
「さあ三月、お肉が煮えたわよ。遠慮しないでたくさん食べなさい。毎日、迷宮の上層で危ない目に遭いながら、一生懸命素材集めを頑張ってくれているんだから」
母の由美子が、お玉を使って三月の取り皿に湯気を立てる牛肉と、味がしっかりと染み込んだ豆腐をたっぷりと乗せる。その顔には、かつて貧しさと心労に追われていた頃の影はなく、心からの温かな笑顔が咲いていた。
「そうだな。お前が無理をして怪我でもしていないか、父さんは毎日そればかり心配しているんだ。でも、こうしてお前が元気な顔を見せてくれるのが、何よりの薬だよ」
そう言って笑う父の昭雄は、以前のように薄暗い部屋で布団に伏せっていることは完全になくなっていた。今では自らの足でしっかりと立ち、食卓を囲んで穏やかに談笑できるほどにまで体調が大幅に改善している。三月が迷宮の深淵を蹂躙して稼ぎ出した大金、それによって買い揃えた良質な薬が、彼の身体を確実に内側から癒し、救い上げていた。
「ありがとう、お母さん、お父さん。でも心配しすぎだよ。上層の浅いところは本当に安全だし、協会の人たちもすごく親切に対応してくれるから、私は全然平気。むしろ毎日、ちょっとした探検みたいで楽しいくらいだよ」
三月はふんわりとした、至って普通の十八歳の少女らしい満面の笑みを浮かべ、お箸で肉を頬張る。
その楽しそうな笑顔に、一切の偽りはない。この狭くとも温かい食卓の空気、家族全員が笑い合っている日常の光景こそが、三月を「人間の少女」としてこの世界に繋ぎ止めている、何よりも頑丈で絶対的な心の楔なのだ。どんなに深層の狂気に触れようとも、この場所がある限り彼女は怪物に成り下がることはない。
食後、お腹いっぱいになって満足した三月は、リビングを離れて弟である拓也の部屋のドアを軽くノックした。
「拓也、ちょっといい? はい、これ。今日、第3層の奥のちょっと珍しい岩陰で見つけた鉱石なんだけど、道端に落ちてたから拾ってきたの。また東雲先生のところに持っていく資料に使えるかなと思って」
三月が差し出した、表面が奇妙な灰色に変質した石の欠片。拓也はそれを受け取ると、すぐにデスクの上のルーペを覗き込み、学校から特別に借り受けている簡易魔力測定器のスイッチを入れた。彼の若い瞳に、迷宮学を志す秀才ならではの、鋭く真摯な探求の光が宿る。
(……本当に、ごめんね、拓也)
そんな弟の熱心な横顔を見つめながら、三月は内心で静かに、そして深く謝罪していた。
実はその石は、三月が先日クリアしたばかりの第26層『静寂の図書館』で屠った魔獣の残滓が混ざった代物だった。それを、新たに獲得したばかりの固有スキル『解析(小)』の能力をフルに駆使して、意図的に魔力構成や分子の比率を「上層で極稀に起きる異常変異」に見えるよう、完璧に偽装したフェイクの鉱石だった。
迷宮学の専門家である東雲慧と水面下で事前に綿密な打ち合わせを行い、彼の提唱する理論の裏付けとして「拓也自身の知識量なら、自力で調べて納得できるギリギリの矛盾のないライン」のデータを丸一日かけて構築した結晶だ。
「……なるほど! すごい、やっぱりそうか!」
数分間、測定器の数値を食い入るように見つめていた拓也が、ポンと手を叩いて顔を輝かせた。
「姉ちゃん、これ本当に第3層で拾ったんだよね? この前の黒い金属片の謎も、この石のデータで完全に繋がったよ。これは深層の遺物なんかじゃない。迷宮の浅い階層の特定条件下で発生する『局地的な魔素の過密と枯渇の反転現象』の痕跡だ! 東雲先生が学会で言っていた仮説が、これで完全に証明できる!」
「へえ、私にはちょっと難しいことはよく分からないけど……拓也の勉強の役に立ったなら、お姉ちゃん頑張って拾ってきた甲斐があったよ」
三月は少し首を傾げながら、何も知らないお姉ちゃんを完璧に演じて微笑む。
拓也はすっかり先日の疑念を晴らし、姉への信頼を深めながら、ノートに新たな論文の構想を猛烈な勢いで書き殴り始めていた。
完璧な隠蔽。完璧な嘘。
大切な最愛の家族を騙し切ったという事実が、三月の胸の奥底に冷たく重い沈殿物を残していく。だが、これでまた一つ、如月家の平穏は完全に守られたのだ。強くなればなるほど、自分のつく嘘が洗練されていく。その哀しい事実さえも、彼女は家族を守るための代償として静かに受け入れていた。
同じ時刻、如月家が居を構える古びたアパートの周辺。
冷たい夜風が吹き抜ける暗がりの電柱の陰で、周囲のあらゆる動体や僅かな物音にまで鋭い視線を配る、一人の屈強な男がいた。警護組織『護民の盾』から三月が直接雇い入れた、プロのボディガード――斎藤である。
彼は懐の通信機を静かに起動し、裏路地の武器屋『黒鉄堂』の奥で待機している鉄山厳へと、ノイズの混じる音声で定期報告を入れた。
『こちら斎藤。対象(如月家)の周辺、およびアパート一帯に異常ありません。探索者協会の怪しい動きも、地元のゴロツキの姿も皆無です。今日も極めて平和に推移しています』
『……そうか、ご苦労。嬢ちゃんは今日、あの子(拓也)の疑いの目を逸らすために、東雲の野郎と一緒になってかなり神経を擦り減らしていたはずだ。地上にいる間くらいは、余計な心配をせずにゆっくり休ませてやれるよう、引き続き裏からの見張りを頼むぜ』
『了解しました。職務を全うします』
通信を短く切った斎藤は、如月家の窓から漏れ出てくる、オレンジ色の温かな光の残滓を静かに仰ぎ見た。
彼ら『護民の盾』のメンバーに課せられた真の任務は、あのささやかな民間人の光を、何があっても絶対に死守すること。如月三月という、人類の脅威になり得る規格外の怪物が、その圧倒的な牙と矛先を世界へと向けないための、これ以上ない最大の防波堤が、あの家族の笑顔なのだから。
翌朝。
朝の澄んだ空気が満ちる迷宮都市の探索者協会。三月はいつも通り、受付嬢の佐藤結衣の窓口へと向かい、「今日は少しだけ、上層のいつもより奥の方まで遠出してきますね」と、無邪気で愛らしい笑顔を見せて挨拶を交わした。
佐藤結衣は、三月が持ち帰る素材の異常なクオリティと、その背後にある底知れない不気味さを本能的に察知していたが、上層部の厳命に従い、ただ引きつった笑顔を浮かべて深く頭を下げることしかできなかった。
ギルドのゲートを潜り、三月は迷宮の第1層へと足を踏み入れる。
多くの駆け出し探索者たちが行き交う大通りを外れ、監視カメラの死角となる崩落した廃墟の薄暗い陰へと深く滑り込んだ瞬間、三月の瞳から先ほどまでの「優しいお姉ちゃん」の光が完全に霧散し、深淵を統べる絶対的な捕食者としての冷徹な眼差しへと切り替わった。
「……さて、行きましょうか」
三月は誰の目も届かないその虚空に向かって右手をかざす。
莫大な魔力が空間を歪ませ、何もない空中にぽっかりと**『漆黒のポータル』**が出現した。それは協会すら一切の存在を感知できない、彼女だけが展開できる深層への直通ルート。
三月は新調した漆黒のロングコートの裾を翻し、慣れた足取りでその暗黒の渦の中へと身を投じた。
一瞬の浮遊感。そして次の瞬間、彼女の足が捉えたのは、湿った土と植物の不気味な生体反応だった。
辿り着いたのは、遥か地底の深淵――第27層『深緑と猛毒の廃樹海』。
かつて旧世界の『新宿』と呼ばれていた大都市の残滓は、迷宮の魔素によって肥大化した巨大な突然変異の植物たちによって、骨組みまで完全に飲み込まれていた。どぎつい極彩色のシダ植物や巨木がビル群をへし折りながら乱立し、視界を遮るように鬱蒼とした密林を形成している。
さらに最悪なのはその大気だ。見上げるほどの天井を埋め尽くす蔦からは、吸い込むだけで常人の肺を一瞬で焼け焦がし、ドロドロに溶かすほどの高濃度の猛毒胞子が、緑色の霧となって絶え間なく立ち込めていた。
「……酷い環境ね。息をするだけで身体が拒絶反応を起こしそうだわ。でも、今の私にはこれくらいが丁度いい」
三月は顔色一つ変えず、『毒耐性(中)』のパッシブ効果を基盤にしつつ、即座に『精密魔力循環』と『多重並列処理』を同時起動した。
肺へと侵入してきた猛毒の胞子や有毒ガスを、体内の魔力回路によって瞬時に濾過・無害化。必要な清浄な酸素だけを的確に脳と筋肉へと送り出す。この地獄のような樹海において、彼女だけは完全に平常通りのパフォーマンスを維持していた。
ズズズズズズズッ……!!!
その時、三月が放つ極上の魔力を敏感に察知し、崩落した都庁ビルの巨大な壁面を割りながら、この階層の主たる怪物――全長五十メートルを超える大輪の魔花『腐食の捕食花』が姿を現した。
花弁の中心にある、おぞましい牙がびっしりと生え揃った巨大な口から、鉄骨やコンクリートすら一瞬で泥水に変えるほどの強酸の粘液が、まるで滝のような大質量となって三月の頭上へと降り注ぐ。
「動きが、あまりにも遅すぎるわ」
三月は一切の焦りも見せず、漆黒のロングコートを静かに翻した。
強酸の雨が彼女の身体を直撃する寸前、特殊防御スキル『自動透過の理』が完全に自動で発動する。酸の激流は、まるで蜃気楼を通り抜けるかのように彼女の肉体を完全にすり抜け、背後の地面をジュージューと不気味な音を立てて激しく溶かしていった。
実体化したコンマ数秒の隙を見せることなく、三月は『重力操作(微)』を使って自らの体重を一時的にゼロへと反転させる。
重力から解き放たれた肉体で空中を力強く蹴り、弾丸のような速度で捕食花の遥か頭上へと一気に跳躍した。
背中に背負った専用の鞘から、相反する極寒と爆熱の魔力を完全に中和・増幅させる最凶の相棒――『双極の魔刃・黒月』を音もなく抜き放つ。
(『解析(小)』、戦闘モードへ移行)
三月の鋭い双眸に、巨大な魔花の複雑極まる内部構造が透けて可視化された。
植物特有の無数に巡らされた魔力経路、そして、その中心で激しく脈動している強靭な「核」の正確な位置が、寸分の狂いもないミリ単位の精度で彼女の脳内マップにロックオンされる。
昨日、最愛の弟を完璧に騙し通すために磨き上げたはずの『解析』の理が、今度は敵の命を最も確実に、かつ効率的に惨殺するための冷徹な照準器へと切り替わる。
「そこね」
三月は黒月を上段に構え、右の回路から絶対零度の『氷結(真)』を、左の回路から全てを灰にする『爆熱(微)』を同時に刀身へと流し込んだ。相反する二つの極大エネルギーが、多重並列処理によって一切の劣化を起こすことなく黒月の刀身に纏わりつき、真紅と蒼碧の禍々しい閃光となって狂い咲く。
「【熱衝撃波】」
核の座標を、正確無比に一刀両断する一閃。
極度の凍結によって、捕食花の細胞が一瞬でカチカチのガラス細工のように硬化した直後、内部へと流し込まれた爆熱が凄まじい勢いで膨張する。
超急激な温度変化による分子崩壊。
断末魔の悲鳴を上げる暇すら与えられず、全長五十メートルを超える巨大な魔花は分子レベルで粉々に粉砕され、周囲の毒の霧を吹き飛ばしながら、ただの灰となって深緑の森へと静かに降り注いだ。
「さて、お腹も空いたし、さっさと喰って次へ進みましょうか」
三月は空中で華麗に宙返りを打ち、漆黒のコートの裾を揺らしながら軽やかに着地した。
舞い散る灰の中から転がり出た、純度の高い魔力を含んだ魔石(魂)を拾い上げると、何の躊躇いもなくその口へと運び、自身の「器」へと捕食する。
脳裏に流れ込んできたのは、あらゆる物質を泥に変える階層主の『強酸生成』の理。
だが、三月の『器』は無意識下でそのスキルの定着を棄却した。極寒と爆熱の同時付与という、極めて高度で繊細な魔力の並列処理を確立している今の彼女の戦闘スタイルにおいて、大味な酸の能力は魔力回路のノイズにしかならないと判断したのだ。
その代わり、階層主の持つ莫大な魂のエネルギーは、一切のロスなく純粋な『魔力許容量の拡張』と基礎身体能力の底上げへと変換された。強大な力を新たなスキルとしてではなく「器の巨大化」に全振りしたことで、彼女の肉体はまた一歩、人間という枠組みから深く外れていくのを感じる。
家族への嘘を、これ以上ないほど完璧なものにするため。
そして、あの温かな食卓の笑顔を、世界の何者からも脅かされずに守り抜くため。
少女は誰にも知られぬ独自の漆黒ポータルを駆使し、孤独な深淵の底で、怪物の階段をまた静かに一つ上っていくのだった。
嘘が完璧になるほどに人から外れていく三月の孤独と、深層での圧倒的な蹂躙劇。
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