第91話:鏡界の幻影と、揺るがぬ絶対の楔
迷宮都市の薄暗い裏路地に、ひっそりと店を構える武器屋『黒鉄堂』。
すでに深夜の営業時間を過ぎ、入り口のシャッターが重々しく下ろされた店内には、日中に鉄を打ち続けていた名残である微かな熱気と、炉の炭、そして金属を冷却するための油が焦げた特有の匂いが濃く立ち込めていた。
店の奥に設けられた薄暗い鍛冶工房の中で、頑固一徹な店主である鉄山厳は、作業台の上に置かれた一本の禍々しい大剣――『双極の魔刃・黒月』の専用鞘をジロリと睨みつけながら、丸太のように太い腕を組んで、低く地響きのような唸り声を上げていた。
「……おい、嬢ちゃん。お前さん、第27層の樹海から戻ってきてから、また一段と『器』がデカくなってやがらねえか? 俺がこの前、嬢ちゃんの過剰な出力を抑え込むために施したばかりの専用鞘の封印術式が、すでに内側からの魔圧でみしりみしりと悲鳴を上げ始めてるぜ」
工房の片隅に置かれた、年季の入った丸椅子にちょこんと行儀よく座っていた如月三月は、鉄山が出してくれた冷たい麦茶のグラスを両手で大切そうに持ちながら、少しだけ小首を傾げた。
現在の彼女は、深層の最前線で数々の凶悪な怪物を蹂躙し、その魂を喰らい尽くしてきた捕食者としての圧倒的なオーラを、パッシブスキルである『魔力隠蔽(中)』の力によって完全にゼロまで抑え込んでいる。その姿は、どこからどう見ても、少し小柄で気弱そうな、どこにでもいる無害なFランクの少女そのものだった。
「ごめんなさい、鉄山さん。第27層の猛毒の階層主を倒して魂を喰らった時に、あの大味な強酸のスキルは私の魔力回路に邪魔だと思って無意識に弾いた(棄却した)んだけど……その代わりに、魂のエネルギーが全部、純粋な『魔力許容量の拡張』と身体能力の底上げの方に回っちゃったみたい。自分でも、地上に戻ってきた時に、心臓の奥の魔力の密度が一段と硬く、重くなったのは感じていたわ」
「少し、じゃねえよ。ただでさえお前さんは、極寒の氷結と爆熱っていう、本来なら同時には存在し得ねえイカれた相反属性の魔力回路を体内に飼い込んでるんだ。これ以上お前さん自身の最大出力が跳ね上がっていったら、俺がどれほど極上の魔鋼を叩き上げて補強したところで、武器も鞘も耐えきれなくなる日が近いうちに来ちまう。……チッ、こうなったら急ピッチで、さらに深い階層からしか獲れねえような、超高密度の未知の鉱石でも探してくるしかねえな」
鉄山が頭をガリガリと掻きむしり、忌々しげにため息をつきながら調整用の工具を手に取った、その時だった。
工房の薄暗い隅に置かれたデスクで、三月の偽装工作のための書類仕事や迷宮のデータ整理を手伝わされていた異端の迷宮学者――東雲慧が、丸眼鏡のブリッジを指先で静かに押し上げながら、おもむろに口を開いた。
「君の弟の拓也くんの件だけどね、三月くん。昨日、君が新能力である『解析(小)』を駆使して、魔力の比率や物質構成を完璧にカモフラージュした『上層の変異個体の鉱石』を彼に手渡しただろう? 彼はあの後、寝る間も惜しんで測定器を回し、見事な論文の基礎データを書き上げていたよ。これだけの矛盾のない裏付けがあれば、当分の間、彼が君の持ち帰る物品に対して『深層の影』を疑ったり、不審に思ったりすることはないはずだ。安心していい」
「……そう。ありがとう、東雲先生。拓也が自分で調べて、自分で納得してくれたなら、お姉ちゃんとしてはそれで十分。あの子の夢を邪魔したくないから」
三月は手元の麦茶のグラスに映る、自分の冷たい瞳をじっと見つめながら、静かに、優しく目を伏せた。
東雲はその穏やかで美しい横顔をすぐ近くで見つめながら、己の背筋を冷たい戦慄の汗が伝い落ちていくのを、どうしても止めることができなかった。
完璧な、あまりにも完璧すぎる偽装工作。
彼女は家族の前で見せる「優しくて少し頼りないお姉ちゃん」としての表情を、声のトーンを、そして肌の微細な筋肉の動きに至るまで、一切の狂いなく完璧に制御し、演じきっている。だが、その常軌を逸した「完璧さ」そのものが、学者である東雲の目には、ひどくおぞましく、恐ろしいものに映っていた。
彼女の莫大な魔力と脳細胞は、愛する家族を騙し通すための細かな嘘すらも、固有スキルである『多重並列処理』の一つの演算レイヤーとして、極めて効率的に処理しているのだ。人間であれば誰もが抱くはずの、嘘をつくことへの心理的な葛藤や、胸を刺すような罪悪感すらも、彼女の体内に息づく「怪物としての本能」が、何事もないように淡々と消化し、最適化し始めているように見えた。
「三月くん。……君は今、人間としての感性と、怪物としての絶対的な本能の境界線という、いつ割れてもおかしくない薄氷の上を歩いているんだ。君の精神を繋ぎ止めている『絶対の楔』が、如月昭雄(父)さんや由美子(母)さん、そして拓也くんへの果てしない愛であることは百も承知している。だが……もし万が一、その絶対の楔が、何らかの理由で揺らいでしまうようなことがあった時、君という存在は一体どうなってしまうんだ?」
東雲の、静かだが重い問いかけに対して、三月は持っていたグラスをトントンと作業台に置き、ゆっくりとした動作で立ち上がった。その瞬間、工房内の空気が一瞬で凍りついたかのように、張り詰めた沈黙が支配する。
「揺らぐことなんて、絶対にないわ。私は、お父さんとお母さんと拓也と、鉄山さんの組織が用意してくれたあの安全で温かい家で、これからもずっと笑って過ごすために迷宮へ入っているの。昔の隙だらけだった暮らしとは違う。あなたたちが外の脅威から守ってくれているあの場所での日常を守り抜くこと。……それ以外の世界の全部は、ただの手段に過ぎない。もしその日常を脅かすものが現れるなら、それが迷宮の怪物だろうと、地上の組織だろうと、私は全てを噛み砕くだけよ」
三月はメンテナンスと封印の再調整を終えた黒月を鉄山から受け取り、使い慣れた動作で漆黒のロングコートの背中へと背負った。
その双眸の奥底には、どんな高名な学者の理論も、どんな組織の脅威も決して届かない、狂気的なまでの絶対の愛と、底知れぬ捕食者としての冷徹さが同居していた。
「……それじゃあ、行ってくるわね。明日はお母さんと一緒に、お昼から街へ買い物に行く約束があるから、朝までには必ずここに戻ってくるわ」
三月は工房の監視カメラや鉄山の視線から外れた死角の空間に向けて、右手を静かにかざした。
彼女の体内から瞬間的に解放された、濃密で圧倒的な魔力の波動が、目の前の虚空の空間そのものをぐにゃりと力任せに捻じ曲げる。何もない空中に、音もなくぽっかりと開いたのは、周囲の光を全て吸い込むような**『漆黒のポータル』**だ。
地上の誰の干渉も受けず、迷宮の不条理な階層構造すらも飛び越えて、行きたい場所へと一瞬で空間を繋ぎ合わせる、如月三月だけに許された絶対の移動手段。
三月は新調したばかりの漆黒のコートの裾を美しく翻し、目の前で渦巻く暗黒の渦の中へと、躊躇うことなくその身を投じて姿を消した。空間の裂け目は、彼女が通り抜けた直後、まるで最初から何もなかったかのように静かに閉じ、工房には再び静寂が戻った。
漆黒のポータルを潜り抜け、一瞬の浮遊感の後に三月の足が捉えたのは、硬質で、ひんやりとした冷たい感触だった。
彼女が降り立ったのは、第28層『忘却の水晶鏡界』。
そこは、視界の遮る限りの空間すべてが、淡い青紫色に発光する巨大な魔力水晶の群生によって埋め尽くされた、息を呑むほどに美しい大洞窟だった。
床も、そびえ立つ壁も、遥か高い天井も、そのすべてがまるで鏡面のように極限まで磨き上げられた水晶の結晶で構成されており、三月が黒いブーツの踵を鳴らして一歩足を踏み入れるたびに、澄んだ硬質な足音が、幾重にも乱反射して洞窟の奥へと響き渡っていく。
「……本当に、厄介な場所ね。周囲の水晶が、私の魔力の波動を不規則に乱反射させているせいで、脳内の『空間把握(中)』のマップに細かいノイズが混じってブレるわ」
三月はわずかに眉をひそめ、脳内で構築している立体的な3Dマップの歪みを感知すると、即座に『解析(小)』の処理能力と『気配察知(微)』を並列で併用起動し、索敵の精度をミリ単位で補強した。
その時だった。
彼女のすぐ目の前にそびえ立っていた、巨大な水晶の鏡面の奥底から、ぬらりと、まるで陽炎のように不気味に人の形をした影が浮かび上がってきた。
『……姉ちゃん。どうして、僕にそんな嘘をつくんだ。どうして、僕をずっと騙していたの?』
水晶の滑らかな表面に鮮明に映し出されたのは、絶望と憎悪に顔を歪ませ、姉である三月を激しく睨みつけている弟・拓也の幻影だった。
それだけではない。三月を取り囲むように乱立する、周囲の無数の水晶の鏡面から、さらに見覚えのある大切な家族の姿が、次々と血の泡を吹くように浮かびあがってくる。
『お前は……お前は一体誰なんだ……!? 私たちの最愛の娘は、こんな血生臭い、恐ろしい化け物なんかじゃない!』
『三月、あなたなんて……私たちの前に、生まれてこなければよかったのに……!』
幻影の父・昭雄と、母・由美子が、両目からどくどくと不気味な血の涙を流しながら、この世の終わりかのような悲痛な叫び声を上げ、三月の存在を激しく罵倒し、拒絶する。
それは、三月が魂喰いの獣性に呑まれそうになりながら、心の最奥底にずっと仕舞い込んでいた、「いつか訪れるかもしれない、最も恐れている最悪の未来」を、そのまま具現化した残酷な映像だった。
青白い水晶の闇の奥底から、カタカタと硬質な音を立てて、この階層の支配者である主――『幻夢の水晶獣』が、少女の精神が恐怖と絶望で完全に崩壊していくのを嘲笑うかのように、その異形を現した。
対象の放つ魔力の波長を媒介にして、その者が抱く深層心理の最も深い恐怖を正確に読み取り、周囲の水晶の反射を利用して完璧な精神攻撃の幻影を見せ、心が折れて動けなくなった獲物を内側から美味に喰らう、極めて悪辣で知性を持った魔獣だ。
「……」
三月は、自分を拒絶し、呪いの言葉を吐きかけ続けてくる、家族たちの幻影に完全に包囲されたまま、ピタリと足を止めて立ち尽くしていた。
水晶獣は、獲物の精神が完全に破壊され、絶望のあまり一歩も動けなくなったのだと勝利を確信した。そして、三月の無防備な背後へと音もなく回り込み、その肉体を容赦なく貫くために、極限まで鋭利に尖らせた巨大な水晶の刃を、高々と振り下ろした。
だが。
「……はぁ。本当に、くだらないわね。怒る気すら失せるくらい、つまらない三流芝居だわ」
氷山の底から響いてくるかのような、どこまでも冷徹で、絶対零度の声が、美しい水晶の洞窟の静寂を切り裂いた。
三月は振り返る動作すら起こさず、背後から迫っていた水晶獣の必殺の刃を、特殊防御スキル『自動透過の理』の自動演算によって、完全にその肉体をすり抜けさせた。実体を持たない幻影を通り抜けた水晶の刃が、虚しく空を切る。
自分を罵倒し続けている幻影の両親と弟の姿を、ぐるりと見渡す彼女の双眸には、涙の一滴も、微かな動揺も、あるいは逆上するような怒りすらも、最初から存在していなかった。
そこにあるのはただ、自分の聖域を汚された捕食者としての、純粋で、底知れぬ「ゴミを見るかのような見下し」の視線だけだ。
「うちの家族が、そんな陳腐で、安っぽいセリフを私の前で吐くわけがないでしょう? 私のお父さんも、お母さんも、拓也も……あんなに警護の行き届いた安全な家で、私たちが積み重ねてきた本物の日常は、お前が見せているそんな小細工の何万倍も、温かくて、強くて、リアルなのよ。……よりによって、私の大切な家族の姿を騙って、その声を真似たこと。……万死に値するわ。塵一つ残さず、消えなさい」
三月は、漆黒のロングコートのポケットから右手を静かに取り出し、目の前の空間に向けて、軽く指先を握り込んだ。
瞬間、『重力操作(微)』の出力が最大値まで跳ね上がり、彼女の身体を中心とした球状の空間に、光すらも歪めるほどの超高密度の極大重力場が発生する。
ミシッ、メリメリメリ……メシャァァァァァァンッ!!!
周囲の壁や床を埋め尽くし、家族の幻影を映し出し続けていた強固な鏡面水晶の結晶たちが、その圧倒的な質量に耐えきれず、凄まじい破壊音を立てて一瞬で粉々に圧壊し、吹き飛んだ。
「ギ、ギャァァァァァァッ!? ギギッ、ガガガッ……!?」
幻影を維持するためのあらゆる反射媒体を物理的に破壊され、最大の武器を失った水晶獣が、強烈なバックドロップのような衝撃を受けて悲鳴を上げながら後退していく。
「逃がさないって、言ったでしょう」
三月の姿が、その場から完全に掻き消えた。
基礎身体能力『俊敏(中)』による、常人の動体視力では決して捉えられない超高速の踏み込み。水晶獣がその電子の眼球で彼女の座標を認識するよりも速く、三月はすでに、巨体を誇る怪物の懐の死角へと滑り込んでいた。
背中から引き抜かれた大剣『黒月』の刀身へ、右の魔力回路から絶対零度の『氷結(真)』が、左の回路から全てを爆砕する『爆熱(微)』が、完璧な多重並列処理によって一瞬で流し込まれる。
「【熱衝撃波】」
至近距離から、怪物の核を正確に一刀両断する一閃が奔った。
極度の凍結によって、水晶獣の強固な装甲と全身の分子構造が一瞬でカチカチのガラス細工のように硬化した、まさにそのコンマ数秒後。
内部へと限界まで注ぎ込まれていた爆熱のエネルギーが、凄まじい圧力で爆発的に熱膨張を起こす。
超急激な温度変化による分子レベルの強制崩壊。
耳を聾するような大爆音とともに、第28層の主たる強大な魔獣は、悲鳴を上げることすら許されず、ただの美しい光の破片となって四散し、虚空へと消え去った。
三月は、漆黒のロングコートの肩に付着した、細かい水晶の塵を無造作に手で払い除け、階層主が消え去った跡に転がった、ひときわ大きく輝く魂(魔石)を拾い上げる。
「……私の絶対の楔は、この世界のどんな幻影なんかじゃ、絶対に壊されはしないわ」
彼女はその魂を迷わず口へと放り込み、自身の器へと捕食した。
脳内へと流れ込んできたのは、対象の心を惑わす水晶獣の『幻影生成』のスキル。
だが、三月の冷徹な器は、昨日と同様にその能力の定着を、何のためらいもなく棄却した。家族を守るための圧倒的な純粋の力を求めている今の彼女にとって、精神を惑わすような小細工のスキルは、自身の洗練された魔力回路を汚すノイズでしかなかったからだ。
不要なスキルを完全に削ぎ落とした代償として、魂のエネルギーは純粋な精神の防壁へと変換され、彼女の心をいかなる精神干渉からも完全に遮断する**『精神耐性(中)』**の理として肉体に深く刻み込まれた。同時に、彼女の魔力の器は、さらに地獄の深淵へと耐えうる巨大なものへと拡張されていく。
「さて、明日の買い物のメモをちゃんとおさらいして、少しだけベッドで仮眠を取らないとね」
三月は周囲に漂う微かな血と魔獣の匂いを、『魔力隠蔽(中)』の力によって完全に消し去ると、再び空間を捻じ曲げて自身の『漆黒のポータル』を開いた。
そして、何事もなかったかのように、最愛の家族が待つ、鉄山の組織が警護する地上の安全な家へと、音もなく帰還していった。
怪物の深淵を歩み、その身を深淵そのものに変えながらも、少女の心にある絶対の愛が、揺らぐことは決してなかった。
今回の敵である第28層『忘却の水晶鏡界』の主は、三月の心の最も深い弱点である「家族からの拒絶」を幻影として突いてきましたが、三月はそれを「陳腐な三流芝居」と一蹴しました。
魂を喰らい、不要な幻影スキルを捨てて『精神耐性(中)』を得たことで、彼女は精神攻撃すらも一切通用しない、さらに完璧な怪物(捕食者)へと近づいています。
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