第85話:深淵の不可侵領域、交差する探求者と隠蔽の理
翌日の午後。
迷宮都市の中心にそびえ立つ、巨大な探索者協会の本部ビル。
その一階にある広大なロビーは、一攫千金を夢見る大勢の探索者たちや、素材の買い取りを求める商人たちの熱気で溢れかえっていた。
漆黒のロングコートに身を包んだ如月三月が自動ドアをくぐり、ロビーへと足を踏み入れた瞬間、それまでの喧騒が潮が引くように静まり返った。
「あ……っ、おい、見ろよ……」
「嘘だろ……あの時の……」
前方を歩いていた数人の探索者グループが、三月の姿を認めた瞬間、弾かれたように足を止め、顔面を蒼白にしてサッと道を開けた。彼らの胸元には『Dランク』のバッジが光っている。
彼らはかつて、第二層でアイアン・スパイダーの群れに殺されかけていたところを三月に救われ、同時に彼女が魔獣の魂に直接牙を立てて貪り喰う姿を目撃した者たちだ。
「人間の皮を被った化物」。その悪名と圧倒的な畏怖は、すでにギルドの一部で深く根付いている。
周囲の一般探索者たちが「なんだ? Fランクの小娘相手にベテランが怯えてるぞ」と怪訝な視線を向けてざわめき始めるが、三月は向けられる恐怖の視線を気にも留めず、凪いだ瞳でロビーを真っ直ぐに進んでいく。
彼女が向かったのは、ロビーの正面に並ぶ一般的な受付窓口だった。
「おはようございます、佐藤さん」
三月が受付嬢である佐藤結衣の窓口の前に立つ。
「お、お久しぶりです、如月さん……!」
結衣は三月の姿を見た瞬間、ヒッ、と小さく息を呑んで肩を震わせた。
あの、高橋元幹部が引き起こした凄惨な襲撃事件。三月が協会の『掃除屋』を洗練された武技のみで完封し、事実上の宣戦布告を行ってギルドを去って以来――彼女がここに姿を現したのは、今日が初めてだった。
生きて再び会えた安堵と、それを遥かに上回る圧倒的なバケモノへの恐怖。
結衣の背中を冷たい汗が伝い落ちる。周囲の探索者たちも、あの事件の当事者である三月が何を納品しにきたのかと、固唾を呑んでこちらを注視していた。
結衣は震える手でカウンターの仕切りを上げると、必死に声を絞り出した。
「如月さん、本日の査定ですが……ここでは少し手狭ですので、奥の『特別査定室』へご案内いたしますね。どうぞ、こちらへ」
「ええ、わかりました」
三月は事も無げに頷き、結衣の案内に従ってロビーの奥にある重厚な扉の向こうへと進んだ。
その様子を遠巻きに見ていた探索者たちは、「おい、あの小娘が特別室に連れて行かれたぞ……」と、さらにざわめきを大きくした。
防音の効いた豪華な別室。
結衣に促されて三月が革張りのソファに腰を下ろすと、部屋の奥の扉から静かに一人の男が進み出た。
探索者協会の監察局長、セバスチャンである。
「如月様、お待ちしておりました。結衣、お前は一度下がりなさい。ここからは私が直接、如月様の対応をさせていただきます」
「は、はい! 失礼します!」
結衣は緊張に満ちた表情で一礼し、足早に部屋を退室していった。
静まり返った室内で、セバスチャンは心臓の激しい鼓動を抑えつけながら、三月に対して深々と頭を下げた。
「……あの事件以来ですね。再びこうして直接お目にかかることができ、光栄に存じます」
セバスチャンの背筋には、氷のような汗が流れていた。
あの日、プロの暗殺部隊を「単なる駒」として切り捨てた三月からの宣戦布告。それに震え上がったセバスチャンは、直ちに水面下で動き、高橋とその一派を協会の中枢から完全に追放した。
それ以降、三月とは一度も接触の機会がなかった。今日この日、彼女が再びギルドへやってきたということは、協会の「出方」を値踏みしにきたということに他ならない。
「お久しぶりです、セバスチャンさん。高橋さんたちが片付いたみたいで、静かで助かります」
三月はそう言いながら、布袋から無造作に、トレイへと魔石を流し込んだ。
常識を外れた巨大さと純度を誇る深層の魔石の数々が、ジャララッと音を立てて転がる。それを見たセバスチャンの目が僅かに見開かれた。
「これ、今日の納品分です。お父さんの体調も良くなって、毎日穏やかに過ごしています。協会が余計なことをしないお陰ですね」
三月が微かに目を細めて微笑む。その言葉に含まれた絶対的な警告を、セバスチャンは正確に受け取った。
やはり彼女は、協会が不可侵条約を破っていないかを確認しに来たのだ。高橋一派の追放という協会の誠意が、かろうじて彼女を納得させている。
「勿論でございます。我々現在の協会は、如月様とそのご家族の平穏を脅かすような愚行は二度と致しません。如月様が望まれる限りの最高額での買い取り、そして必要なサポートは全て水面下で行わせていただきます。何かご要望があれば、いつでもこのセバスチャンにお申し付けください」
「助かります。それじゃあ、また」
分厚い現金の入った封筒を受け取り、三月はソファから立ち上がった。
高橋の一件以来、初めての直接対話。完全な「非敵対」の意志を伝えることができたセバスチャンは、彼女の背中を見送りながら、肺に溜まっていた息を深く吐き出した。
特別査定室の重厚な扉が開き、三月が再びロビーへと姿を現した。
その挙動を、掲示板の陰からじっと観察している男がいた。
丸眼鏡をかけたヨレよれの白衣姿の青年――東雲慧である。
(……あの少女が、鉄山の『護民の盾』に守られているという如月三月。あの襲撃事件以来、初めて姿を現したと思えば、受付から直々に特別室へ案内され、監察局長自らが対応に当たっているだと? なぜ一介のFランク探索者が、そこまでのVIP待遇を受けている?)
東雲は白衣のポケットに手を突っ込み、小型の『高精度魔力スキャナー』のスイッチを入れた。
昨日、弟の拓也が持ち込んだ『新宿区のプレート』は、間違いなく人類未踏の深層から持ち帰られたものだ。
ならば、あの特別室から出てきた彼女自身からは、どれほどの底知れぬ魔力波長が検出されるのか。
ピィッ、と。
ポケットの中で、スキャナーが数値を弾き出した。
「……魔力値、ゼロ。正真正銘、ただの無力な一般人の数値……?」
東雲は眉をひそめた。機器の故障ではない。
(馬鹿な。ギルドの連中があれだけ恐れをなし、幹部が特別に遇する存在から、魔力が一切感知できないだと? なぜ鉄山はあんな少女の家族を、組織総出で守っている?)
東雲は自身の目で直接真実を確かめるため、掲示板の陰から歩み出し、ロビーを歩いてくる三月の方へと向かった。
開いた距離。すれ違いざまに、肩を強くぶつけにいく。
不意の物理的な接触。人間が最も無防備になる瞬間の『反射』を見るための実験だ。
「おっと、失礼――」
東雲がわざとらしく書類を床に落とそうとした、その瞬間。
スッ……。
三月の身体が、まるで柳のように抵抗なく半歩だけ横へスライドした。
東雲の肩は三月に『ぶつかった』はずなのに、一切の衝撃を感じなかったのだ。彼女が接触の瞬間に、極限まで洗練された体捌きで衝撃のベクトルを完全に受け流した証拠だった。
さらに、東雲が手から離した書類が床に散らばるよりも速く。
三月の両手が、常人には捉えられないほどの無駄のない軌道で宙を舞い、落下する書類を一枚残らず空中でキャッチし、綺麗に束ねてみせた。
「……え?」
東雲は、己の目を疑った。
「落とし物ですよ。お怪我はありませんか?」
三月は冷徹なほどに静かな声で言い、書類を差し出した。
東雲の背筋に、ゾクリと冷たいものが走る。
スキャナーは相変わらず「魔力ゼロ」を示している。だが、先ほどの洗練された武技と身体操作は、魔力の有無など関係なく、彼女が「生物として圧倒的な強者」であることを雄弁に物語っていた。
三月の脳内では、極めて冷静な演算が行われていた。
(……この人、昨日第24層で私が『空間把握(中)』で感じ取ったのと同じ匂いがする。古い紙と、タバコの匂い。それに、ポケットの中で動いている魔力探知機の反応)
三月は、昨日獲得したばかりの『魔力隠蔽(中)』を全開にし、己の莫大な魔力を完全に遮断していた。
(拓也の言っていた『知り合い』……。鉄山さんが言っていた、私の周辺を嗅ぎ回っている『ネズミ』ね)
三月を映す東雲の瞳には、底知れぬ恐怖が浮かび上がり始めていた。
「あ、ああ……ありがとう」
東雲は引き攣った笑みを浮かべて書類を受け取り、そそくさとその場から離れた。探求心に狂う学者ですら、これ以上不用意に触れてはならない断崖絶壁を感じ取った瞬間だった。
ギルドを出た三月は、そのまま迷宮都市の裏路地にある武器屋『黒鉄堂』へと向かった。
カラン、とベルを鳴らして店内に入ると、奥から大柄な鉄山が顔を出した。
「いらっしゃい……ああ、嬢ちゃんか」
「こんにちは、鉄山さん。コートの修理、ありがとうございました。せっかく新宿の専門店で新調したお気に入りだったのに、昨日は少し焦がしちゃって」
三月が綺麗に修繕された『漆黒のロングコート』を受け取りながら言うと、鉄山はため息をついた。
「まったく、どんな環境に突っ込んだら俺の打った耐熱被膜が焦げるんだよ。……ほら、それと頼まれていた『黒月』の専用鞘だ。これなら、あんたの極大の冷気と熱量を同時に抑え込める」
鉄山がカウンターの奥から持ってきた黒い魔鋼の重厚な剣鞘を、三月は目を輝かせて受け取った。
「ありがとうございます! これで持ち運びがずっと楽になります」
「……で、嬢ちゃん。わざわざ直接ここへ来たってことは、何かあったんだろ?」
鉄山が鋭い視線を向けると、三月はクスッと笑った。
「ええ。さっきギルドで、少し東雲さんという『ネズミ』さんにぶつかられちゃって」
その言葉に、鉄山の顔色が変わる。
「東雲の野郎か……! 嬢ちゃんに直接接触しやがったのか! くそっ、すぐに『護民の盾』の連中を動かして――」
「ううん、大丈夫ですよ、鉄山さん」
三月は、鞘に納まった『黒月』を背中に背負いながら、のんびりとした声で言った。
「その人、ポケットの中で魔力を測る機械を動かしてましたけど、私の魔力には何も気づかずに去っていきましたから」
「……は? 気づかなかった? 嬢ちゃんのバカげた魔力を見落としたってのか?」
信じられないという顔をする鉄山に対し、三月はパチンと指を鳴らした。
その瞬間――鉄山の目の前から、三月の「魔力の気配」が完全に消失した。
そこに立っているという圧倒的な強者のプレッシャーは確かにあるのに、魔力だけが「完全にゼロ」の虚無として錯覚させられる。
「……なっ!?」
「昨日、ダンジョンの下の方で便利な能力を拾ったんです。これで私、いくらでも魔力をゼロに偽装できるんです」
三月が言うと、気配が元に戻った。
鉄山は口をポカンと開けたまま、呆れたように天井を仰いだ。
「……ハッ。なるほどな。そりゃあ、あの学者先生の機械じゃあ、一生かかっても嬢ちゃんの魔力は掴めねえわ」
「ええ。ギルドの連中には、隠すまでもなくすでに怖がられていますからね。でも、この力があれば……私がダンジョンでどれだけ化け物になっても、拓也やお父さんたちの前では、完全に『ただの人間』でいられる」
ギルドの目や学者の探求心などどうでもいい。彼女が偽装を施すのは、家族の日常を守るためだけ。
その三月の言葉に込められた深い愛情と狂気に、鉄山は静かに息を吐いた。
「……お仕事の邪魔をしてすみません、コートと鞘、本当にありがとうございました」
三月はペコリとお辞儀をして、黒鉄堂を後にした。
完璧な偽装と、洗練された武技。
全てはただ、温かな食卓へと帰るために。
漆黒のコートを翻し、如月三月は再び人類未踏の深淵へとその身を投じるべく、裏路地の奥へと姿を消した。
第85話をお読みいただきありがとうございます。
ギルド内で「触れてはいけない化物」として認識されている三月と、高橋派閥を追放して非敵対関係を維持することを選んだセバスチャン、そして三月の正体に迫りながらもその圧倒的な実力と偽装能力に戦慄する東雲の接触を描きました。
どのような強大な力を持っていても、三月の行動原理は常に「家族の日常を守ること」という一点に集約されています。ギルドという公的な場での完璧な偽装は、彼女の冷徹な知性と家族への深い愛情の表れです。
物語はここから、さらに加速していきます。
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