第四話:深まる悪食と、深層の誘惑
ゴブリンたちの魂を貪り尽くした三月は、
さらに薄暗い通路の奥へと足を勧めていた。
元々、彼女がいたのはダンジョンの第一層。
初心者やFランク探索者が、安全に小遣い稼ぎをするためのエリアだ。
しかし、今の三月が歩いている場所は、
壁の発光キノコすらまばらになり、不気味な静寂が支配する、
第二層への下り階段の手前だった。
突如として世界に現れたこのダンジョンだが、
その全貌を知る者は、未だに誰もいない。
内部が一体何層まで続いているのかは完全に不明であり、
十年かけて人類がようやく到達した最高到達層ですら、わずか三十層程度。
たったの二層へ降りるだけでも、
Fランクの探索者にとっては、自ら命を捨てに行くような自殺行為に等しかった。
「……冷たい」
下から吹き上げてくる風が、肌を刺すように冷たい。
その風には、第一層のそれとは比べ物にならないほど、
濃密で、ねっとりとした『魔力』の気配が混ざっていた。
普通のFランク探索者であれば、この気配を感じただけで本能的な恐怖を覚え、
すぐに回れ右をして逃げ出すだろう。
だが、今の三月にとっては、その不気味な気配こそが、
極上のご馳走を前にした時の匂いのように感じられていた。
ゴブリンの魂を喰らったことで、胸の飢えは一時的に治まった。
しかし、治まったからこそ、
先ほど脳を焦がしたあの圧倒的な快感が、より鮮明に記憶に焼き付いて離れない。
もっと欲しい。
もっと強い命を、この身の中に流し込みたい。
「大丈夫、私はまだ戦える……。
家族のために、もっと強くならなきゃいけないんだから」
三月は自分自身にそう言い訳をした。
お金を稼ぐため。家族を楽にさせるため。
それは嘘ではない。
けれど、今の彼女を突き動かしている最大の衝動が、別にあることを、
彼女の理性が一番よく知っていた。
カラン、と小さな石が転がる音が響いた。
三月は瞬時に足を止め、腰の鉄の剣に手をかける。
獲得したばかりの『俊敏(微)』のおかげか、
周囲の音や空気の揺れに対する感度が、昨日までとは段違いに鋭くなっている。
通路の先、発光キノコの淡い光に照らされて現れたのは、
ゴブリンとは比較にならないほどの質量を持った巨体だった。
「ブモオオオォォォン……!」
低く地響きのような鳴き声をあげたのは、豚の頭を持った人型の魔獣――『オーク』だった。
身長は優に二メートルを超え、その肉体は硬質の筋肉で覆われている。
手には、人間の胴体ほどもある巨大な鉄の棍棒を握っていた。
Dランク上位、あるいはCランク下位に位置する強敵。
強靭なタフさと、一撃で人間を肉片に変える怪力を持つ、
第一層の怪物たちとは格の違う存在だ。
「オーク……」
三月の喉が、ゴクリと鳴った。
恐怖ではない。
目の前に現れた極上の獲物を前にして、溢れ出そうになる涎を堪えるための生唾だった。
オークの身体から立ち上る青白い魔力のオーラは、
先ほどのゴブリンたちとは比較にならないほど濃く、眩しい。
あの魂を喰らったら、一体どれほどの快感が得られるだろうか。
自分の肉体は、どれほど強くなれるだろうか。
「ブモッ!」
三月の存在に気づいたオークが、獰猛な瞳をぎらつかせた。
巨大な体躯からは想像もつかない爆発的な踏み込みで、一瞬にして距離を詰めてくる。
頭上から振り下ろされる、凶悪な鉄の棍棒。
直撃すれば、防具ごと肉体を粉砕される必殺の一撃。
しかし、三月の心は驚くほど冷静だった。
『俊敏』の効果により、オークの突進の軌道が手に取るようにわかる。
「遅い」
三月は最小限の動きで横へと跳んだ。
直後、彼女がいた地面に棍棒が叩きつけられ、
バキバキと硬い岩の床が派手に砕け散る。
凄まじい衝撃波と土煙が舞う中、三月はすでに次の行動に移っていた。
着地と同時に地面を強く蹴り、オークの懐へと一気に潜り込む。
狙うのは、その太い足の腱。
「はぁっ!」
『怪力』を込めた鉄の剣を、全力で横に一閃した。
刃こぼれした安物の剣だったが、今の三月の腕力と速度が合わさることで、
まるで熱したナイフでバターを切り裂くように、オークの強靭な肉を深く断ち切った。
「ブガアアアァァッ!?」
オークが苦悶の悲鳴をあげ、巨体が大きくよろめく。
片足の自由を奪われた怪物は、必死に棍棒を振り回して三月を牽制しようとした。
だが、三月はその不格好な攻撃を、ダンスを踊るような軽やかなステップですべて回避する。
圧倒的だった。
かつて浅層で泥をすすり、角ウサギ一匹に大苦戦していたFランクの少女が、
今や上位の強敵であるオークを、完全に翻弄している。
「これで、終わり」
三月はオークの背後へと回り込み、跳躍した。
怪物の太い首筋に、容赦なく鉄の剣を突き立てる。
「ブモッ……ガハッ……!」
致命傷を負ったオークが、どすんと膝をついた。
その巨体が光の粒子に変わる前に、三月は剣を引き抜き、怪物の体に両手を押し当てた。
視界が真っ赤な飢餓の色に染まる。
【固有スキル『魂喰い(ソウルイーター)』を発動します】
「あ、あぁぁあああ……っ!!」
ゴブリンの時とは、格が違った。
オークの傷口から三月の両手を通して流れ込んできたのは、
まるで沸騰したマグマのような、熱く、濃密で、狂暴な魂の奔流だった。
脳が、神経が、魂そのものが、あまりの快楽に歓喜の悲鳴をあげる。
全身の細胞が急激に作り替えられていくような、強烈な感覚。
三月は恍惚の表情を浮かべ、白目を剥きそうになりながらも、
その極上の命の味を、最後の一滴まで貪り尽くした。
やがて、オークの巨体は完全に灰色の石のようになって崩れ去り、光の粒子となって消滅した。
後に残されたのは、これまでのものとは一線を画す、
妖しい紫色の輝きを放つ、巨大な魔石。
「はぁ……はぁ……はぁ……!」
三月はその場に激しく倒れ込み、荒い息を繰り返した。
胸が激しく上下する。
しかし、その表情には、言葉にできないほどの悦びが満ち溢れていた。
【オークの魂の捕食を完了しました】
【身体能力が大幅に上昇します】
【スキル『堅牢(微)』を獲得しました】
【スキル『怪力(微)』が『怪力(小)』へと進化しました】
頭の中に響く声が、彼女のさらなる変質を告げる。
防御力を高める新たなスキルと、腕力をさらに強化するスキルの進化。
もう、自分がかつてのFランクではないことは、誰の目にも明らかだった。
三月はゆっくりと立ち上がり、地面に転がる紫色の魔石を拾い上げた。
これ一つで、おそらく百万円以上の価値がある。
家族の生活は、これで完全に安泰になるだろう。
けれど、魔石を見つめる三月の心には、どこか冷めた感情があった。
お金が手に入った安心感よりも、
自分の肉体が、人間の枠を超えていくことへの歪んだ高揚感が、完全に勝っていたのだ。
「ふふ……あはは……」
薄暗い迷宮の通路に、少女の小さな笑い声が響く。
実家で待つ優しい両親や、健気な弟の顔が、
心の中に広がる漆黒の飢餓感によって、少しずつ、少しずつ遠くなっていくのを、
彼女は自覚しながらも、止めるつもりは毛頭なかっ




