第三話:歪む日常と、新たな獲物
翌朝、古ぼけたアパートの万年床の上で、
三月はいつもより早く目を覚ました。
窓の外からは、梅雨時特有のどんよりとした曇り空と、
遠くを走る電車の音が聞こえてくる。
いつもなら、起き上がることすら億劫なほどの疲労感が体に残っているはずだった。
毎日毎日、重い鉄の剣を振り回し、泥にまみれて浅層を駆け回っていたのだから。
しかし、今朝の体は違っていた。
「……軽い」
布団から起き上がった瞬間、自分の体がまるで重力から解放されたかのように軽快だった。
ベッドから床に足を下ろす一連の動作が、驚くほど滑らかに進む。
鏡の前に立ち、自分の姿を映してみる。
見た目はどこにでもいる、少し細身の十八歳の少女のままだ。
だが、皮膚の下にある筋肉の密度が、明らかに変わっている感覚があった。
スマートフォンの画面を見ると、母親からメッセージが届いていた。
『三月、本当にお金ありがとう。拓也もすごく喜んで、さっき塾に出かけて行ったわ。
お父さんも、あなたの体調をすごく心配してる。無理だけは絶対にしないでね』
家族からの温かい言葉。
いつもなら、これだけで今日も頑張ろうと思えるはずだった。
けれど、今の三月の胸を満たしていたのは、それとは全く別の暗い感情だった。
「う、ぷ……」
突如として襲ってきた、強烈な吐き気。
胃袋が空っぽなわけではない。
昨晩、換金したお金で少しだけ贅沢をして買ったコンビニのおにぎりは、ちゃんと消化されている。
これは肉体の飢えではない。
精神の、魂の奥底から突き上げてくる、悍ましいほどの『渇き』だった。
ホブゴブリンの魂を喰らった、あの瞬間の記憶が脳裏に蘇る。
全身の細胞が沸き立つような、あの圧倒的な快感。
一度味わってしまった至高の味が、三月の理性をじわじわと削り取っていく。
「……行かなきゃ」
誰に言い訳をするでもなく、三月は吸い寄せられるように探索者の装備を身につけた。
安物の革鎧を纏い、刃こぼれした鉄の剣を腰に下げる。
向かう先は、新宿のビル街の隙間に佇む、あの漆黒の深淵だ。
――世界が反転し、薄暗い迷宮の空気が肌を刺す。
二日続けてのダンジョン探索。
入り口近くの浅層には、今日も多くの低ランク探索者たちが群れていた。
彼らは数人でパーティを組み、怯えながら角ウサギや泥スライムを囲んで叩いている。
昨日の朝までの自分も、あの無様な集団の一人だった。
キノコの淡い光に照らされた通路を、三月は一人で歩いていく。
すると、前方から一匹の『角ウサギ』が飛び出してきた。
額に鋭い一本角を持つ、初心者キラーの素早い魔獣だ。
以前の三月なら、その素早さに翻弄され、何度も剣を空振りしていたはずだった。
「キィッ!」
角ウサギが地面を蹴り、三月の顔めがけて突進してくる。
しかし、三月の目には、その動きがまるでスローモーションのように遅く見えた。
「――そこ」
無造作に、鉄の剣を横一文字に振り抜く。
鋭い風切り音とともに、鉄の刃が角ウサギの胴体を正確に捉えた。
確かな手応え。
『怪力(微)』のスキルが乗った一撃は、小動物の肉体を容易く両断した。
角ウサギは悲鳴をあげる暇もなく光の粒子となって消え去り、
地面には米粒ほどの小さな魔石がぽつんと残された。
「……信じられない」
以前なら、一匹倒すだけでも息を切らせていた相手を、無傷で、しかも一撃だ。
捕食によって向上した身体能力は、確実に本物だった。
だが、三月はその魔石を拾い上げても、全く嬉しくなかった。
胸の奥にある黒い飢餓感は、微塵も満たされない。
角ウサギが消滅する瞬間、その魂を喰らおうと本能が動いたが、
あまりにも魂の器が小さすぎて、霧のように霧散してしまったのだ。
「こんな雑魚の魂じゃ……全然、足りない……」
三月の瞳に、危険な光が宿る。
彼女の足は、自然と昨日ホブゴブリンと遭遇した、さらに奥のエリアへと向いていた。
Fランク探索者が立ち入るべきではない、中層手前の危険地帯。
普通なら恐怖で足がすくむはずの暗闇が、今の三月には甘美な誘惑に見えていた。
通路を進むにつれて、湿った空気の中に、別の怪物の気配が混ざり始める。
立ち込めるのは、獣の体臭と、何かが焦げたような嫌な臭い。
「ギルルル……」
暗闇の奥から、複数の低い唸り声が響いた。
現れたのは、三匹の『ゴブリン』。
先日のホブゴブリンのような巨体ではないが、人間大の大きさを持ち、
手には錆びた短剣や木盾を握っている、集団戦闘を得意とする魔物だ。
一対多の状況。Fランクなら間違いなく絶望する局面。
だが、三月の口元は、無意識のうちに小さく釣り上がっていた。
「見つけた……」
「ギシャアッ!」
先頭のゴブリンが短剣を突き出し、飛びかかってくる。
三月はそれを半身で軽々と避けると、すれ違いざまに鉄の剣を怪物の首筋へと叩きつけた。
ボキリ、と嫌な骨折音が響き、一匹が崩れ落ちる。
「ギガッ!?」
仲間の即死に動揺した残りの二匹が、左右から同時に襲いかかってきた。
右からの突きを、腰のひねりだけで回避。
そのまま左から迫る木盾持ちのゴブリンに向け、思い切り拳を突き出した。
獲得したばかりの『怪力』を込めたストレート。
人間の少女の拳が、ゴブリンの木盾ごと、その胸の骨を粉砕した。
凄まじい衝撃音とともに、ゴブリンの体が岩壁へと吹き飛び、動かなくなる。
残るは一匹。
仲間を瞬時に惨殺されたゴブリンは、完全に戦意を喪失し、
緑色の顔を恐怖で引きつらせながら、後ろへ逃げ出そうとした。
「逃がさない」
三月は地を蹴った。
その速度は、すでに一般的な探索者の常識を超えている。
一瞬で背後へ回り込み、ゴブリンの細い首を手で力任せに掴んで、岩壁へと押しつけた。
「ガハッ、ゲホッ……!」
もがく怪物の顔を見つめる三月の視界が、またしても真っ赤に染まっていく。
身体の奥底から、あの悍ましい『飢え』が暴走を始めた。
【固有スキル『魂喰い(ソウルイーター)』を発動します】
「あ……あぁ……っ!」
武器は使わない。
三月はゴブリンの首筋へ、狂おしいほどの衝動のままに噛みついた。
傷口から流れ込んでくるのは、ホブゴブリンの時よりは少し小ぶりだが、
確かに温かくてドロリとした、怪物の『魂』の奔流。
脳の奥を直接かき回されるような、凄まじい快感が三月の全身を駆け巡る。
ゴブリンの命が、魔力が、その存在のすべてが、
三月という器の中に吸い取られ、彼女の力へと変換されていく。
首を掴まれていたゴブリンは、見るみるうちに干からび、
最後は苦悶の表情のまま、光の粒子となって完全に消滅した。
「はぁ……っ、ふぅ、あ……」
三月は壁に背を預け、ずるずるとその場に座り込んだ。
口元についた緑色の怪物の返り血を、手の甲で乱暴に拭う。
全身を満たす、圧倒的な万能感と幸福感。
これだ。この感覚が、欲しくてたまらなかった。
【ゴブリンの魂の捕食を完了しました】
【身体能力が上昇します】
【スキル『俊敏(微)』を獲得しました】
脳内に響く声が、彼女のさらなる成長を告げる。
怪力だけでなく、今度はスピードを強化するスキルまで手に入った。
地面には、三匹のゴブリンが残した小さな魔石と、彼らが使っていた古い短剣が転がっている。
これらも売れば数千円にはなるだろう。
しかし、今の三月にとって、ドロップ品はおまけに過ぎなかった。
自分の手を見る。
また少し、力が強くなったのが感覚でわかる。
人としての境界線から、また一歩、遠ざかってしまった感覚。
「お姉ちゃん、無理しないでね」という弟の声が、一瞬だけ頭をよぎった。
家族のために戦っているはずだった。
お金を稼ぐために、この力を受け入れたはずだった。
なのに。
「……まだ、足りない」
座り込んでいた三月は、ゆっくりと立ち上がった。
その瞳は、もはや獲物を探す肉食獣そのものの、昏く濁った光を放っている。
彼女の心は、家族への愛と同じくらいの大きさで、
ダンジョンの怪物を喰らい尽くすという、底知れない狂気に支配され始めていた。
第三話をお読みいただき、ありがとうございました!
ゴブリンの集団を圧倒し、新たなスキル『俊敏(微)』を獲得した三月。
家族を救うためだったはずの探索が、徐々に自身の「飢え」を満たすための狩りへと変質し始めてしまいました。人道を外れていく彼女の行く末を、温かく(?)見守っていただけると幸いです。
少しでも面白い、続きが読みたいと思ってくださったら、ブックマークや**評価(↓の☆☆☆☆☆)**をいただけますと執筆の励みになります!
それでは、第四話でまたお会いしましょう。




