第373話:黄金のコロッケカレーと、深夜の完全防音パージ
グツグツグツ……コトコトコト……。
秋の夜風が静かに雨戸を揺らす、火曜日の午後七時。
如月家の台所には、スパイスの芳醇な刺激と、じっくり炒められた飴色玉ねぎの濃厚な甘み、そして煮込まれた牛バラ肉の旨味が溶け合った、暴力的なまでに食欲をそそる香りが充満していた。
黄色いヒヨコ柄のエプロンを着た如月三月が、大きなお鍋の蓋を開け、木べらで底からゆっくりとかき混ぜる。
ツヤツヤと輝く深い琥珀色のカレールウの中で、大ぶりに切られたジャガイモとニンジン、そしてホロホロに解けた牛肉が、まるで宝石のように顔を覗かせていた。
「ん〜っ! すっごく美味しく煮込めたよーっ!
お肉もスプーンで切れちゃうくらい柔らかいし、玉ねぎの甘みがルウに溶け込んで最高!」
三月が嬉しそうに声を弾ませる横で、コンロの脇には、先ほど拓也が学校帰りに下町の精肉店で買ってきたばかりの【揚げたてサクサク牛肉コロッケ】が、網の上でキツネ色にこんがりと鎮座していた。
「はーい、拓也! お待たせー! 精肉店の特製コロッケをドカンと乗せた、如月家特製ビーフコロッケカレーだよーっ!」
「うおおっ……! 来たァァァッ!!」
リビングの食卓で待ち構えていた如月拓也の目が、獲物を狙う猛獣のようにカッと見開かれた。
部活で限界まで身体を動かしてきた男子高校生の胃袋にとって、カレーと揚げたてコロッケのコンビネーションは、もはや反則以外の何物でもない。
拓也の足元には、夕暮れと共に青年獣人の姿から【体積三倍の巨大綿飴銀狼】のモフモフ姿へと戻ったザイオンが、拓也の冷えやすい足首をフカフカの毛並みで包み込んでいた。
首元には、純プラチナの鑑札プレートと、拓也の赤ドット柄バンダナ、そして『特級不可侵Fランク』の金ピカプレートが誇らしげに輝いている。
その横には、三月のお下がりである黄色いダッフルコートを着た猫耳少女・ルルがお冷のコップをトントンと並べ、換気扇の上からは首に毛糸のミニマフラーを巻いたミニドラゴン・ポチが、フンスと誇らしげに舞い降りてきた。
「いただきます!」
拓也はスプーンを握りしめると、まずは山盛りの白米と濃厚なカレールウをたっぷりとすくい、口の中へとかきこんだ。
ハフッ、ハフハフ……モグモグ……。
「…………っっっ!!!!」
咀嚼した瞬間、拓也の全身に電流が走った。
その口から、魂の底から絞り出されたような感嘆の叫びが漏れ出た。
「…………っっっ、うっっっっっっっっっっま!!!!」
喉の奥から、呻き声のような快哉が響き渡る。
「なにこれ、めちゃくちゃうめぇ……!!
玉ねぎの甘みが最初にブワッと広がった後から、スパイスのピリッとした辛さが追いかけてくる!
牛肉が噛む必要すらないくらいホロホロに崩れるし、ルウに肉汁が溶け込んでてコクが半端じゃねぇぞ……!」
そして、少年のスプーンが、いよいよ真ん中に堂々と鎮座する牛肉コロッケへと突き立てられた。
サクッ……カリリッ!
軽やかな快音と共に、黄金色の衣が割れ、中から熱々のジャガイモと甘辛い牛ひき肉が顔を出す。
カレールウをたっぷりと絡めて、そのまま大口で頬張る。
サクサクッ、ホクホクッ……ジュワァッ……!
「うわぁぁ……! コロッケの衣がサックサクで、お芋の甘みがスパイシーなカレーと完璧に合体してやがる……!
衣にルウが染みたところの、ちょっとトロッとした部分がまたたまんねぇ……!」
ガツガツッ、ガツガツガツッ!!
拓也のスプーンは、光速の勢いで動いた。
お皿の半分をわずか一分で平らげ、喉を鳴らしてお冷を飲み干し、またスプーンを動かす。
まさに、命の燃料を補給するかのような、圧巻の食いっぷりであった。
「えへへー! 拓也、そんなに喜んでくれたらすっごく嬉しいよー!」
三月が満面の笑顔を咲かせながら、小皿に柔らかく煮た牛肉とホクホクのジャガイモ、そして冷ましたコロッケの中身を少し取り分け、床の三匹の前に置いてやった。
「はい、みんなもお洗濯のお手伝い、本当にお疲れ様! スパイスが入ってないところ、取り分けといたからね!」
「キャンッ……!(あぁ……大地の黄金と、肉の至福の調律……!)」
「にゃふぅ……お芋とお肉が甘くて、すっごく美味しいのにゃ……!」
「キュピィィ……(黄金ノ衣ノ食感……魂ガ昇天イタシマスッ!)」
神獣たちは、その温もり溢れる一口を、涙を零しながらハフハフと味わい、拓也の足元で幸せそうに体を寄せ合った。
「ぷはーっ! 食った食った! カレー二杯完食、大満足だわ!」
米粒一粒、カレールウ一滴残さず綺麗に平らげた拓也は、お茶をゴクッと飲み干して満足そうに息を吐いた。
そして、食卓の脇に置かれていた、先ほど持ち帰った高校のプリントを見つめながら、何気なく呟いた。
「……あー、そういえばさ、三月」
「ん? どうしたの、拓也?」
三月がお皿を片付けながら振り返る。
「明日さ、学校で『部活動・委員会対抗の球技大会』があるんだよ。
俺、サッカーのクラス代表になっちゃってさ。
朝練もあったし、明日は朝から走り回らなきゃいけないから、今夜は絶対に途中で起こされたくないんだよな」
拓也は、大きくあくびをしながら、縁側のガラス戸の向こうの闇を見つめた。
「なんかさ……さっきから庭の外の路地あたりで、カサカサ、カチャカチャ変な金属音がうるさいんだよな。
野良猫か、近所の工事か知らねぇけどさ。
夜中に変な物音立てて俺の睡眠を邪魔するやつがいたら……マジで許さねぇぞ。
安眠を妨害する不届き者はさ……布団の中から出なくてもいいように、音もなく丸ごと更地に放り投げて、朝まで完全無音の防音室にしてぇよな……むにゃ」
何気ない、ただの「明日の球技大会のために、夜中は静かにぐっすり眠りたい」という少年のぼやき。
しかし――。
その頃、東京・新宿の日本探索者協会本部、最上階の作戦統括室。
『――ぎゃあああああああああっっっ!!!!』
夜の静寂を切り裂くように、オペレーターのクロエ・アーヴィングの絶叫が木霊した。
フロア中の巨大モニターが、一斉に真っ赤な【超極限レッドアラート】へと切り替わる。
「ク、クロエ殿ッ! 何事だ!?」
神宮寺蒼太が、氷の長刀を床に突き立てて身を乗り出した。
その横で、アメリカ最強のSランク探索者「雷帝」レオン・カーターが、額に青筋を浮かべて咆哮する。
「た、拓也様より……今夜の就寝時間を指定した……新たなる超特大神託が下されました!
【絶対無音領域構築令】、並びに【安眠妨害侵入者の完全パージ宣告】ですッ!!」
クロエが、血走った目でスクリーンをバンッと叩いた。
「拓也様は仰せなのです!
『明日の神聖なる現世神事(球技大会)に向けて、万象の眠りを妨げるあらゆる不協和音を、音もなく丸ごと更地へと消去せよ』――とッ!!」
「な、何ということだ……ッ!!」
神宮寺が、顔面を蒼白にして後ずさった。
「あのお方は……すでに如月邸の周囲に潜伏する、裏社会の残党どもの足音を完全に看破しておられたのか……!
しかも、あのお方の眠りを一デシベルでも乱す者は、『更地送り』に処すと宣告されただとォッ!?」
「全軍へ最優先超戒厳令!!」
レオンがデスクの通信機を鷲掴みにして叫んだ。
「不知火凛率いる『八咫烏』、並びに遠征軍の全隠密部隊へ通達!
今夜、如月邸の半径三キロメートル圏内において、発生を許される音量は【完全ゼロデシベル】!
風のざわめき、虫の羽音、枯れ葉の擦れる音に至るまで、すべての音響を空間反転結界で吸収しろ!
そして……あのお方の安眠を脅かさんとする密猟者、暗殺者の残党は……悲鳴一つ上げさせることなく、一秒で虚無へ葬り去れッ!!」
世界最強の特務組織が、少年の「夜中にうるさい音立てるなよ」という呟き一つによって、空前絶後の「無音暗殺者狩り」へと突入した瞬間であった。
深夜十二時――練馬区・如月邸の外周路地。
月明かりすら遮られた濃密な闇の中、黒光りする最新鋭の光学ステルス装甲を纏った十二名の武装兵が、音もなく展開していた。
彼らは、昼間に神社の境内で全滅した暗殺班の親玉にして、国際生体兵器カルテル【アラクネ機関】の最高執行部隊『ブラッディ・ファング』。
全身を機械化されたサイボーグ暗殺者たちであり、手には超高圧電磁パルスブレードと、神話級の魔獣すら瞬時に捕獲する分子拘束ワイヤーが握られていた。
(……ターゲットは二階の寝室で就寝中だ)
リーダーのサイボーグが、電子眼の赤外線スキャンで如月邸を捕捉した。
(昼間の雑魚どもとは違う。我が部隊の特殊電磁迷彩は、いかなる結界センサーにも感知されん。
一階の縁側から音もなく侵入し、一階で寝ている銀狼とキャットの頸動脈へ反魔力ナノパイルを撃ち込む。
抵抗する時間すら与えずに解体し、特殊コンテナへ回収する……行くぞ!)
十二名のサイボーグ兵が、ブロック塀を飛び越え、如月家の庭先へと音もなく着地しようとした――。
その、まさに滞空の刹那であった。
ピクッ。
一階の縁側の畳の上。
二階で眠る拓也のために、体積三倍の巨大綿飴銀狼の姿で丸まっていたザイオンの、銀色の耳がピクリと跳ね上がった。
その銀色の瞳が、漆黒の闇の中で、冷酷無比な氷の輝きを放ちながらスッと開かれた。
(……拓也様は仰せられた)
ザイオンの人工頭脳が、深淵の静寂の中で極小の思念波を走らせる。
『夜中に変な物音立てて俺の睡眠を邪魔するやつがいたら、マジで許さねぇぞ。
音もなく丸ごと更地に放り投げて、朝まで完全無音の防音室にしてぇよな……』
(我が主の安眠……あのお方の至高の休息を……貴様らのような屑鉄どもの足音で乱すことなど、万死に値する……ッ!!)
ザイオンは、寝そべった体勢のまま、右前足の肉球を【トン】と畳の上で優しく一度だけタップした。
拓也直伝の「至高の脱力」。
音はゼロ。
しかし――庭先の空間だけに、因果律を内側へ折り畳む【絶対防音・局所事象の地平面】が展開された。
「ギ……ッ!?」
空中にいた十二名のサイボーグ兵の電子眼が、狂ったようにノイズを走らせた。
落下速度がゼロになり、空間そのものが数万気圧の深海のように凝縮されたのだ。
手にした超高圧電磁ブレードも、ステルス装甲も、一切の抵抗を許されず、内側へ内側へとギューッと圧縮されていく。
さらに――庭の物干し竿の影から、黄色いダッフルコートを着たルルが、ふわりと音もなく舞い降りた。
「拓也のお昼寝……じゃなくて、夜のねんねの邪魔をするななのにゃーーっ!」
ルルは、がま口財布を胸に抱いたまま、空中に圧縮されていた十二個のサイボーグの塊へ向けて、右手の白い肉球を【ぽふっ】と優しく触れさせた。
シュウウウウウウウウッ……。
触れられたサイボーグたちの体内動力炉、ナノ兵器、装甲合金に至るまでが、火花一つ散らすことなく、完全に分子レベルで分解され、十センチ四方の綺麗な「アルミ缶サイズの四角い鉄ブロック」十二個へと完全無力化されたのだ。
「キュピィッ!(回収班、どうぞ!)」
換気扇の上からポチが小さく合図を送ると――。
スッ……。
地面の影から不知火凛率いる八咫烏の部隊が音もなく染み出し、ちりとりでその金属キューブをサッと回収すると、一秒で影の底へと消去していった。
庭の芝生には、足跡一つ残されていない。
音量、完全ゼロデシベル。
所要時間、わずか〇・五秒。
世界最強の暗殺部隊は、男子高校生の寝息一つ乱すことなく、完全にこの世から「お掃除」されたのである。
「ふぅ……! 拓也、起きなかったのにゃ!」
ルルが小さな胸を撫で下ろし、ザイオンのフカフカの背中にギュッと抱きついた。
「キャン……(うむ。我が主の安眠は、完璧に守られたのだ)」
ザイオンは満足そうに目を細めると、再び縁側の畳の上で丸くなり、静かに目を閉じた。
翌朝――午前六時半。
チュン、チュン、チュン……。
爽やかな秋晴れの朝の光が、如月家の庭先を照らしていた。
二階から、ジャージに着替えた拓也が、爽快な足取りで階段を下りてきた。
「……ふぁ〜あ……! あー、めちゃくちゃよく寝た……!」
拓也はリビングに入ると、両手を大きく伸ばして深呼吸をした。
頭はスッキリと冴え渡り、昨日の部活の疲れなど完全に消え去っていた。
「お、ザイオン、ルル、ポチ。おはよう」
足元で丸まっていた三匹が、パッと顔を上げて嬉しそうに駆け寄ってくる。
拓也の言いつけ通り、朝になったザイオンはふわりと光を纏い、グレーのパーカーを着こなした凛々しい青年狼獣人の姿へと変身していた。
「おはようございます、我が主!」
「拓也、おはようごじゃいますなのにゃ!」
「キュピィッ!(最高ノ目覚メデス、指揮官様!)」
「おう! なんか昨夜はさ、外が信じられないくらい静かで、一度も目が覚めなかったわ。
やっぱり、うちの周りは平和でいいよな」
拓也は嬉しそうに笑うと、青年獣人ザイオンの銀髪の頭を――犬の時と全く同じように、ワシャワシャと力いっぱいに撫で回した。
さらに、ルルの頭をくしゃくしゃと撫で、肩の上のポチの顎をコチョコチョとくすぐる。
「よし! 今日は球技大会のサッカー、絶対勝ってくるわ!
三月、朝飯食ったらすぐ行くから、お味噌汁よそって!」
「はーい! 拓也、頑張ってねーっ!」
台所から三月の明るい声が響く。
夜の静寂の裏で繰り広げられた、世界規模の無音殲滅戦。
そんな大騒乱など夢にも思わない少年と、温かな愛を知り、主の安眠を守り抜いた神獣たち。
朝日の光に包まれた如月家には、どこまでも温かで、どこまでも幸福な家族の笑顔が満ち溢れていたのであった。
(第374話へ続く)
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