第372話:完璧なる家事調律と、シーツの神聖アイロニング
サワサワサワ……。
澄み切った秋晴れの心地よい日差しが降り注ぐ、火曜日の午後一時。
如月拓也が都立高校で五時間目の授業を受けている頃、練馬区の如月邸の庭先には、洗い立ての白いシーツやタオルが、秋風に心地よく揺れていた。
縁側には、お父さんのお下がりであるグレーのパーカーと黒のカーゴパンツを着こなした銀髪狼獣人の青年・ザイオンが、黄色いヒヨコ柄のエプロンをきりりと身に着けて立っていた。
その首元には、純プラチナ製の愛玩動物鑑札と、拓也の赤ドット柄バンダナ、そして『特級不可侵Fランク』の金ピカプレートが眩しく輝いている。
「キャン……(拓也様がお戻りになられる前に、取り込みと完璧なる折り畳みを完遂せねばならん)」
ザイオンの銀色の瞳が、真剣そのものの光を宿して物干し竿を見上げた。
その横では、三月のお下がりである黄色いダッフルコートを着た猫耳少女・ルルが、洗濯カゴを両手でギュッと抱えて待機している。
さらに縁側の欄干の上には、首に毛糸のミニマフラーを巻いた白銀のミニドラゴン・ポチが、ちょこんと両足を揃えてスタンバイしていた。
「ザイオンちゃん、シーツ乾いたかなー?」
リビングから、麦茶のピッチャーを手にした如月三月が、パタパタと軽やかな足音を立てて顔を出した。
「はい、三月殿! 太陽光の照射角、並びに大気中の湿度計算法により、繊維の内部水分量は完全に最適値――【〇・〇三パーセント】を記録しております!
今こそが、取り込みの至高の瞬間にございます!」
ザイオンは恭しく一礼すると、しなやかな指先で物干し竿の白いシーツへと手を伸ばした。
拓也によって爪先まで神聖調律を施されたザイオンの指は、布地の一本一本の繊維をミリ単位で感知する。
ザイオンがシーツの両端を持ち、ふわりと宙へと翻した、その瞬間――。
バサッ……!
柔らかなアビスゲート柔軟剤のフローラルの香りが、庭いっぱいにフワリと広がった。
ザイオンは、拓也直伝の「至高の脱力」の要領で両腕を動かし、空気抵抗を完全にゼロにした軌道でシーツを二つ折りに畳んでいく。
角と角が寸分の狂いもなく合致し、布の表面にはシワ一つ、たるみ一つ生じない。
「にゃはは! ルルは、靴下をくるりんって丸めるのにゃ!」
ルルが、洗濯カゴから拓也の黒い通学用靴下を取り出し、小さな手で器用に履き口を折り返してコロンと可愛いボール状にまとめていく。
「拓也の靴下、穴あいてないのにゃ! ルルがちゃんと確認したのにゃ!」
「キュピィッ!(我ノ出番デスッ!)」
ポチが翼を広げてふわりと舞い上がり、畳まれた拓也の制服のカッターシャツの上へと滑空した。
鼻先から放たれるのは、神代の劫火を極限まで絞り込んだ【摂氏九十五度の極小スチーム温風】。
繊維の奥深くに残る微細なヨレを瞬時に熱分解し、まるで形状記憶合金のようにピシリとした折り目を襟元と袖口に刻み込んでいった。
「わぁぁっ……! すごーい! クリーニング屋さんの仕上がりみたい!」
三月が手を叩いて目を輝かせた。
「みんな、本当にお手伝いが上手だねー! お父さんが生きてた頃よりも、家の中がピッカピカだよ!」
「キャンッ……!(滅相もございません! 我らは如月家の生活基盤を支える愛玩獣、これしきの任務、朝飯前でございます!)」
ザイオンが凛々しい美声で胸を張る。
「ふふっ、じゃあお掃除とお洗濯が終わったから、お昼ごはんにしよっか!
今日のお昼はね、昨日のラーメンスープの残りを使った【特製豚骨醤油焼きうどん】だよーっ!」
「にゃーっ! 焼きうどん、大好きなのにゃ!」
「キュピィィ!(麺類ト豚骨ノ再ビノ邂逅……至福デス!)」
平和そのものの、幸福な如月家の昼下がり。
しかし――彼らがごく当たり前にこなした「シーツのシワ伸ばし」が、外部の世界をどれほどの激震に巻き込んでいるか、彼らは知る由もなかった。
その頃――東京・新宿の日本探索者協会本部、最上階の作戦統括室。
『――観測衛星アテナ、並びに次元波動センサーより超特大アラートッ!!』
オペレーターのクロエ・アーヴィングが、両耳のヘッドセットを強く押さえ、椅子を蹴り倒す勢いで立ち上がった。
作戦スクリーンには、練馬区の如月邸を中心とした高次元空間グリッドが映し出されている。
そこには、東京都全域、いや、日本列島の上空を覆っていた微細な大気の歪みや次元のねじれが、突如として定規で引いたように真っ平らに整えられていくグラフが表示されていた。
「ク、クロエ殿ッ! 何事だ!?」
日本探索者協会本部長・神宮寺蒼太が、氷の長刀を床に突き立てて身を乗り出した。
その横で、アメリカ最強のSランク探索者「雷帝」レオン・カーターが、葉巻を取り落として叫ぶ。
「おいクロエ! 日本列島の空間歪曲指数が、一瞬でコンマゼロまで消滅しちまったぞ!? いったい何が起きたんだ!?」
「映像を拡大します!」
クロエが震える指でコンソールを叩いた。
スクリーンに映し出されたのは――如月家の庭先で、黄色いエプロンを着た銀髪の青年獣人ザイオンが、白いシーツをふわりと宙に広げ、ポチが微小な温風を吹きかけている穏やかな光景であった。
「…………ッ!!」
神宮寺とレオンが、息を呑んで絶句した。
「これは……何という深遠なる儀式だ……ッ!!」
クロエの瞳から、狂信的な感動の涙がボロボロと零れ落ちた。
「総員、刮目せよッ!
神獣ザイオン様が執り行われておられるのは、ただの洗濯物の取り込みではありません!
純白の結界布を翻すことにより、地球を包む空間のエントロピーのシワを完全に伸ばし切る……古代失われし超神聖儀式【全次元アイロニング神事】ですッ!!」
「な……何だとォッ!?」
レオンが頭を抱えて唸り声を上げる。
「神使ポチ様の放つ極小スチームにより、大気中の不浄なる瘴気は完全に熱分解され……!
神獣ルル様が靴下を丸めるたびに、極東エリアの重力波の渦が完璧な球体へと調律されております!
如月家の日常の家事そのものが……この地球の崩壊を防ぎ、空間の平穏をミリ単位で維持する至高の結界維持システムだったのですッ!!」
「おぉ……なんという奇跡……!」
神宮寺が、胸の前で深く十字を切った。
「レオン殿、見よ! あのお方の眷属たちは、戦場に出るまでもなく、庭先で洗濯物を畳むだけで世界を救っておられるのだ!
直ちに気象庁、並びに国連環境計画へ極秘暗号電を送れ!
『日本列島上空のオゾン層の亀裂、並びに台風の発生リスクは完全消滅した! これより、全人類は神の家事調律に感謝を捧げる祝祭週間に突入する』となァッ!!」
世界中の気象衛星と防衛レーダーが、青年獣人がシーツを一枚畳んだという事実によって、全面的な歓喜の報告書で埋め尽くされていた。
しかし――。
この神聖なる平穏の裏側に、なおも這い寄る濁った悪意が存在していた。
如月邸の裏手、鬱蒼とした神社の境内の森の中。
黒い対魔力ステルス迷彩スーツに身を包んだ四名の男たちが、高性能の集音マイクと麻酔銃を構え、低く囁き合っていた。
彼らは、昨夜壊滅した密猟組織の親玉にして、国際生体兵器カルテルの強硬派閥【アラクネ機関】が誇る特務暗殺班『シャドウ・クロウ』であった。
「……昨夜のヴォルクたちの部隊は、探索者協会の奇襲で全滅したようだが、間抜けな奴らだ。
ターゲットを街中で正面から襲うなど素人のやることだ」
リーダーの男が、双眼鏡越しに如月邸の縁側を冷酷に見つめた。
「見てみろ。あの銀狼の青年……油断しきってエプロンなど着けて家事をしている。
怪力の小娘も、台所で昼飯を作るのに夢中だ」
「隊長、計画通りに行きますか?」
部下が、銀色のアンプルを取り出した。
中には、ドラゴンの神経すら一瞬で壊死させる超高純度の生体神経毒ガス『ネクロ・ミスト』が封入されていた。
「あぁ。風下から庭先へあの毒ガスを散布する。
縁側に干されている洗濯物に毒を付着させれば、奴らがそれを取り込んだ瞬間、皮膚から毒素が吸収されて全員が動けなくなる。
後は、無力化したフェンリルとキャットを特注の反魔力檻に放り込み、地下ルートから回収するだけだ」
「了解。ガス射出器、スタンバイ――」
暗殺者たちが、静かに庭先のブロック塀の隙間へと照準を合わせた、その瞬間――。
ピクッ。
縁側で最後の枕カバーを畳んでいたザイオンの、ピンと立った銀色の耳が、微かに跳ね上がった。
(……風向きの乱れ……大気中に微小な有毒エーテルの粒子を検知……)
ザイオンの銀色の瞳が、スッと冷え切った。
その視線が、縁側の竹籠の中に残っていた、何の変哲もない水色の【プラスチック製洗濯バサミ】へと落とされる。
(拓也様は仰せられた……『家の中を平和に保て、近所に迷惑をかけるな』と。
そして三月殿は、心を込めて拓也様の衣服をお洗濯されたのだ。
その神聖なる布地に……下水の泥のような毒風を一筋でも触れさせようとする害虫ども……!)
ザイオンは、畳んだ枕カバーをルルへと優しく手渡すと、右手の人差し指と親指で、水色の洗濯バサミを一個、つまみ上げた。
(消えよ)
パチンッ。
ザイオンが、指先で洗濯バサミのバネを軽く弾いた。
音は、小鳥のさえずりよりも小さかった。
しかし――放たれた洗濯バサミの先端から生み出されたのは、拓也直伝の「至高の脱力」によって極限まで圧縮された、完全無音の【空間反転重力波】であった。
シュバッ……!!
神社の森の暗がりで毒ガス射出器を構えていた『シャドウ・クロウ』の四名は、何が起きたのかすら認識できなかった。
放たれようとしていた高濃度毒ガスのアンプルが、射出口の金属ごとギュウゥゥッと逆流するように内側へ押し潰されたのだ。
さらに、四名の暗殺者の全身の筋肉と魔力神経が、洗濯バサミのパチンという振動波だけで一瞬にして完全麻痺させられた。
「が……ッ!?」
四名は白目を剥き、指一本動かせないまま、まるで洗濯物が物干し竿に吊るされるかのように、神社の木の枝にスラックスのベルトを引っ掛けられて綺麗に四人並んでぶら下げられた。
そこへ――。
スッ……。
木の影から、漆黒の忍装束を纏った不知火凛率いる八咫烏の部隊が音もなく染み出した。
凛は、木の枝に綺麗に干された暗殺者たちを一瞥すると、冷ややかに囁いた。
「……回収。洗濯物の邪魔をする不届き者どもめ、亜空間の地下牢へ永久投棄せよ」
影が波打ち、吊るされた四名の暗殺者は、武器や毒ガスのアンプルごと、一秒で影の底へと飲み込まれて消去された。
神社の境内には、秋風に揺れる紅葉の葉が一枚落ちただけ。
完全無音の、神速の害虫駆除劇であった。
「ふぅー! 綺麗に干せたし、畳めたね!」
三月が、特製豚骨醤油焼きうどんの乗った大皿をリビングのコタツへと運んできた。
「ザイオンちゃん、ルルちゃん、ポチちゃん、お昼ごはんにしよう!」
「キャンッ!(はっ、喜んでご相伴に預かります!)」
ザイオンはエプロンを外し、優雅な所作でコタツの前に正座した。
皿の上には、濃厚な豚骨醤油のスープが染み込んでモチモチになった太麺の焼きうどん、香ばしい豚肉、キャベツ、もやし、そして上にはたっぷりの鰹節と青のりが躍っていた。
「いただきますなのにゃ!」
「キュピィッ!」
チュルチュルッ、ハフハフ……!
神獣たちは、家族と一緒に囲むお昼ごはんの温もりを、涙を浮かべながら幸せいっぱいに味わった。
午後四時半――。
ガララッ。
「ただいまー……。あー、部活疲れた……」
学校を終えた如月拓也が、通学カバンを提げて玄関を開けた。
すると、廊下の奥から「わふっ!」「にゃーっ!」「キュピィ!」と、大歓声と共に三匹が駆け寄ってきた。
拓也の言いつけ通り、夕方になったことでザイオンはふわりと光を纏い、人型の青年から【体積三倍の巨大綿飴銀狼】のモフモフ姿へと戻っていた。
「うわ、なんだよお前ら。出迎えか?」
拓也が笑いながらリビングに入ると、そこには、目を見張るような光景が広がっていた。
テレビの前の畳の上に、拓也の制服のカッターシャツ、ジャージ、バスタオル、そしてシーツが、まるで高級ホテルのリネン室のように、角を完璧に揃えてピシリと美しく積み上げられていたのだ。
部屋中には、太陽の心地よい香りと、アビスゲート柔軟剤の甘い匂いがふんわりと満ちている。
「うお……すっげぇ……。なんか今日の洗濯物、めちゃくちゃ綺麗に畳んであんな。
カッターシャツの襟とか、シワ一つねぇじゃん。クリーニング屋に出したやつみたいだぞ」
拓也は驚いてシーツの端を撫でた。
ふっくらとしていて、温かくて、最高の肌触りであった。
「えへへー! ザイオンちゃんたちがね、全部丁寧にお手伝いしてくれたんだよ!」
三月が台所から嬉しそうに顔を出した。
「へぇ……。お前ら、洗濯物もこんなに綺麗に畳めるのか。すげぇじゃん」
拓也の口元が、ふにゃりと優しく緩んだ。
そして、床に膝をつくと、足元で嬉しそうに尻尾をブンブンと振るザイオンの頭を、大きな手でワシャワシャと力いっぱいに撫で回した。
さらに、ルルの頭をくしゃくしゃと撫で、肩に乗ってきたポチの顎の下を人差し指でコチョコチョとくすぐる。
「偉いぞ、お前ら。これなら母さんが帰ってきても文句言われねぇわ。
ほら、学校の帰りに買ってきたこれ、食えよ」
拓也がポケットから取り出したのは、下町の商店街の精肉店で買ってきた、揚げたての【サクサク牛肉コロッケ】であった。
ソースのかかっていない端っこの香ばしいお芋とお肉を少しちぎり、小皿に乗せて床の三匹の前へと置いてやる。
サクッ、ホクッ……。
「キャンッ……!(あぁ……我が主の……至高の分け前……!)」
「にゃふぅ……サクサクしてて、お芋が甘くてすっごく美味しいのにゃ……!」
「キュピィィ……(黄金ノ衣ト大根ノ調和……生キテテ良カッタデスッ!)」
神獣たちは、揚げたてのコロッケの温もりを、全宇宙のいかなる秘宝よりも尊い聖餐として、目を細めてハフハフと味わった。
「三月、今日の晩ごはんは何ー?」
「今日はね、コロッケに合うお肉たっぷりのカレーライスだよーっ!」
台所から漂う、スパイシーで温かなカレーの香り。
世界を救う神聖な家事調律と、少年の優しい頭撫で。
秋の夕暮れに包まれた如月家には、どこまでも温かで、どこまでも幸福な家族の笑顔が満ち溢れていたのであった。
(第373話へ続く)
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