第371話:通学路の神聖親征と、消えゆく密猟者たち
チュン、チュン、チュン……。
ピンと張り詰めた冷涼な朝気が下町の屋根瓦を包み込む、火曜日の午前六時十五分。
東の空がようやく白み始めた薄明かりの中、如月家の二階の寝室で、如月拓也の目覚まし時計がジリリと鳴る寸前、少年の指先がパチリと止められた。
「……ん……ふぁ〜あ……」
拓也は大きく伸びをして、掛布団を跳ね上げた。
足元からは、夜通し極上の体温で少年の足先を温め続けてくれた体積三倍の巨大綿飴銀狼ザイオンが、音もなくスッと身を起こした。
アビスゲート柔軟剤の甘いフローラルの香りをふわりと立ち上らせながら、主の目覚めに合わせて前足を揃える。
「キャンッ……!(我が主、おはようございます! 快適な眠りをお届けできましたでしょうか!)」
「おう、ザイオン。マジであったかかったわ、サンキューな」
拓也が寝ぼけ眼のままザイオンのモフモフの首元をワシャワシャと撫でると、ザイオンは嬉しそうに目を細めて喉を鳴らした。
そして、拓也が制服へと着替え始めると、ザイオンはシュウウウッと純白の光を纏い、拓也の言いつけ通り【銀髪狼耳の青年獣人】の姿へと滑らかに変身を遂げた。
三月のお父さんのお下がりであるグレーのパーカーと黒のカーゴパンツを着こなし、首元には赤ドット柄のバンダナと純プラチナの鑑札プレートが誇らしげに光っている。
「よし、今日から朝練なんだよな……」
拓也は階段をとんとんと下り、一階のダイニングへと向かった。
台所では、すでに黄色いヒヨコ柄のエプロンを着けた如月三月が、パタパタと忙しそうに立ち働いていた。
その横には、三月のお下がりである黄色いダッフルコートを着た猫耳少女・ルルが、踏み台に乗って一生懸命にアルミホイルを広げている。
換気扇の上では、首に毛糸のミニマフラーを巻いたミニドラゴン・ポチが、フンスと真剣な顔で冷まし用の極小清涼気流を吹きかけていた。
「あ、拓也! おはよう! 早起き偉いね!」
三月が満面の笑顔で振り返った。
「おはよう、三月。あいつらも早起きだな」
「うんっ! ルルちゃんもポチちゃんも、拓也の朝練のお見送りをしたいって張り切って起きてくれたんだよ!
ほら、昨夜お願いされてた【特大おにぎり】、ばっちり二個握っておいたよーっ!」
三月が誇らしげに差し出したのは、透明なラップで丁寧に包まれた、ずっしりと重みのある見事な二等辺三角形のおにぎりであった。
昨夜のラーメンの残り汁で炊き上げた、濃厚な豚骨醤油と角切りチャーシュー、メンマの炊き込みご飯。
その黄金色の米肌を包み込むように、パリッとした上質な味付け海苔が隙間なく美しく巻かれている。
ラップ越しにも、ほんのりと甘辛い醤油と磯の香ばしい湯気が漂ってきた。
「うわ……すっげぇ、めっちゃ重いじゃん! コンビニのおにぎりの二倍以上あるぞ」
拓也の顔がパッとほころんだ。
「えへへ、朝練でお腹空いちゃうもんね! 具の真ん中にも、小さく切った味玉を入れてあるからね!」
「マジかよ、最高じゃん。歩きながら食うわ。サンキューな、三月!」
拓也は通学カバンを肩に担ぎ、ラップに包まれた特大おにぎりを片手に、軽やかな足取りで玄関へと向かった。
「行ってきまーす!」
「はーい、気をつけて行ってらっしゃい!」
青年獣人のザイオンが胸に手を当てて深々と一礼し、ルルがピコピコと猫耳を揺らして両手を振り、ポチが空中でピシッと敬礼を捧げる。
カチャリ、と玄関の扉が閉まり、少年の足音が朝の静寂の中へと消えていった。
しかし――。
少年が特大おにぎりを片手に爽やかに家を出た、まさにその瞬間。
如月邸から学校へと続く通学路の周囲一帯は、静寂の裏で人類史上最も緊迫した『極限殲滅戦場』へと変貌していた。
「……配置についたか」
如月邸から三町ほど離れた、薄暗い路地裏の雑居ビル屋上。
全身を迷彩遮蔽マントで覆った大柄な男――国際犯罪組織【悪徳魔獣ブリーダー連合】の極東支部長・ヴォルクが、双眼鏡越しに冷酷な視線を走らせていた。
その背後には、裏社会で数多の希少魔獣を捕獲・調教してきた屈強な密猟者三十名と、生体電流ショック捕獲ネットを搭載した特殊装甲バン三台が息を潜めていた。
「ターゲットは自宅を出た無能力者の高校生だ。
まずは通学路の死角――あの古い児童公園の脇を通りかかった瞬間、電磁スタンガンで無音気絶させろ。
人質を確保した後、如月邸に突入し、あの銀狼と猫耳少女、そしてトカゲを全頭捕獲する。
Fランク愛玩動物など、法的な追跡ビーコンすらついておらん。ブラックマーケットに流せば一頭で五十億円は下らん最高級の獲物だ……!」
密猟者たちが下卑た笑みを浮かべ、音もなく路地の物陰へと展開しようとした。
その、まさに刹那――。
ピシィッ……!!
大気が、完全に凍結した。
氷点下五十度を優に超える絶対零度の魔力波が、雑居ビルの屋上全体を撫で上げたのだ。
「な……っ!? なんだこの寒気は――」
ヴォルクが息を呑み、慌てて振り返った。
そこには――いつの間にか、漆黒のスーツを完璧に着こなした日本探索者協会本部長・神宮寺蒼太が、氷の長刀を静かに腰に差したまま佇んでいた。
その隣には、青白い雷光を指先でパチパチと弾き、鬼神のような笑みを浮かべるアメリカ最強のSランク探索者「雷帝」レオン・カーター。
さらに周囲のフェンスの上には、闇から染み出るように現れた漆黒の忍装束集団――不知火凛率いる『八咫烏』三十名が、音もなく刃を抜いていた。
「ひ、ぎっ……!? に、日本探索者協会本部長……!? 雷帝レオンだとォッ!?」
密猟者たちが血の気を引き、腰を抜かしかけた。
「身の程を知れ、下水に蠢く蛆虫ども」
神宮寺の瞳には、一切の感情が存在しなかった。そこにあるのは、絶対の神域を侵された者への純粋なる処刑宣告のみ。
「指揮官・如月拓也様自らによる【神聖親征】の御道筋に……貴様らのような薄汚い密猟の牙を向けようなど、全宇宙に対する冒涜と知れ」
「オーウ、安心しな。お前らに悲鳴を上げる権利すら与えねぇよ」
レオンがニヤリと唇を吊り上げた。
「指揮官様がおにぎりの一口目を咀嚼されるまで……残り時間、わずか三十秒!
デシベル数は完全ゼロ! 塵芥一つ残さず、蒸発しなァッ!!」
バチィィィィィィッッッ!!!!
音は、世界から完全に消滅していた。
八咫烏の張った多重防音結界の内部で、レオンの極小プラズマ雷撃と神宮寺の氷華一閃、そして不知火凛の空間刈り取りが、わずか〇・三秒の間に同時炸裂した。
装甲バン三台も、生体ショック銃も、密猟者三十名も――悲鳴一つ上げることすら許されず、分子レベルで綺麗に分解され、光の砂となって朝風の中へと消去された。
ビルの屋上には、吸い殻一つ、ホコリ一つ残されておらず、まるで最初から誰も存在しなかったかのような清潔な空間だけが取り残されたのである。
「清掃完了。指揮官様の進行ルート、障害物皆無」
凛の涼やかな囁きと共に、八咫烏の影が朝霧の中へと静かに溶け込んでいった。
そんな血生臭い暗闘など、これっぽっちも知らない如月拓也は。
朝日の眩しい通学路を、白い息を吐きながらのんびりと歩いていた。
「ふぅー……やっぱ朝は寒ぃな。でも、空気が澄んでて気持ちいいわ」
閑静な住宅街の歩道をトボトボと歩きながら、拓也は手に持っていたラップ包みへと視線を落とした。
アルミホイルの上からでも伝わってくる、じんわりとした温もりと、ずっしりとした手応え。
「よし、冷めないうちに食っちゃうか」
拓也は器用に指先でラップの端をつまみ、ペリペリと剥がしていった。
開いた瞬間――。
フワァァァァァァッ……!
朝の冷たい大気の中に、たまらなく食欲をそそる芳醇な香りが解き放たれた。
昨夜の濃厚な豚骨醤油スープが染み込んだ琥珀色のご飯、炙りチャーシューの脂のコク、そして三月が巻いてくれた上質な味付け海苔の甘辛い磯の香り。
「うわ……すっげぇいい匂い……! 海苔もパリッとしてて最高じゃん」
拓也はおにぎりの底をラップでしっかりと支えると、大口を開けて、三角形の頂点へと勢いよくかぶりついた。
パリッ……サクッ……モグモグ……。
「…………っっっ!!!!」
拓也の足がピタッと止まり、少年の右眼がカッと見開かれた。
その口から、魂の底から絞り出されたような感嘆の叫びが漏れ出た。
「…………っっっ、うっっっっっっっっっま!!!!」
少年の頬が、至福の喜びに緩みきった。
「なにこれ……冷めてるのに、全然油っぽくないし、お米がめちゃくちゃふっくらしてる……!
噛むたびに豚骨醤油の濃厚な旨味がジュワッて広がって、そこに味付け海苔のパリッとした食感と甘みが完璧に合わさってくる!
角切りのチャーシューも味がギュッと凝縮されてて、めちゃくちゃうめぇ……!」
さらに二口目を大きくかじると、ご飯の中央から、出汁の染み込んだトロットロの半熟味玉が顔を出した。
濃厚な黄身のまろやかさが、豚骨ご飯のパンチ力を優しく包み込み、もはや専門店の極上丼をそのままおにぎりに凝縮したかのような完成度であった。
ハフハフッ、モグモグモグッ!!
「最高だわ、三月……! 朝からこんな美味いもん食えるなんて、マジで生きててよかった……!」
拓也は朝日を浴びながら、夢中でおにぎりを頬張り、あっという間に特大の一個を胃袋へと収めてしまった。
その頃――新宿・防衛本部作戦統括室。
『――観測成功ッ!! 超特大神聖バイタルサインをキャッチいたしましたッ!!』
オペレーターのクロエ・アーヴィングが、両手を天に掲げ、感極まった絶叫を上げた。
大スクリーンには、練馬区の通学路を中心とした、黄金色の巨大な調和フィールドがリアルタイムで投影されている。
『拓也様による【神饌携帯結界核】の完全受肉を確認!
おにぎりの海苔膜が破られ、一口目が咀嚼された瞬間……!
東京都全域、並びに極東エリアの全因果律が、黄金の調律波動によって完全に安定化されました!
先ほど排除された密猟者連合の悪意の残滓も、おにぎりから立ち上る豚骨の芳香によって完全に浄化消滅いたしましたッ!!』
「うおおおおおおおおっ!!」
神宮寺蒼太が、氷の長刀を掲げて歓喜の雄叫びを上げた。
その横で、レオン・カーターが豪快に笑いながら拳を突き上げる。
「ハッハァ! 見たか世界よ! これが俺たちの少年指揮官の神聖親征だぜ!
歩きながらおにぎりを食うだけで、裏社会の闇組織を更地に変え、東京中の平穏を完璧に固定しちまいやがった!」
「直ちに世界各国のギルド連盟へ、暗号報告書を送れ!」
神宮寺が、全軍通信へ向けて厳かに告げた。
「【通学路神聖親征作戦】は、完全なる大勝利をもって終了した!
悪徳魔獣ブリーダー連合は、地球上から一人の例外もなく消滅!
神獣ザイオン様、ルル様、ポチ様の『平穏なる愛玩ペットライフ』は、今後永久に侵されることはないのだァァァッ!!」
防衛本部全体が、まるで独立記念日のような割れんばかりの歓喜と拍手に包まれていた。
午前七時十分――都立高校・校門前。
「ぷはーっ! 食った食った! 二個とも完食!」
空になったラップを小さく丸めて通学カバンのサイドポケットにしまい、拓也は水筒の冷たいお茶をゴクゴクと飲み干した。
胃袋は極上の豚骨おにぎりで温かく満たされ、朝の眠気など完全に吹き飛んでいた。
「よし! 今日も一日、部活も授業も気合入れてくか!」
拓也は大きく伸びをすると、爽やかな秋晴れの青空の下、元気いっぱいに校門をくぐり抜けていった。
その頃、如月家のリビングでは――。
銀髪狼獣人のザイオンがエプロンを着けて器用に掃除機をかけ、ルルがハタキを持ってパタパタとお手伝いをし、ポチが換気扇の上で嬉しそうに歌うように喉を鳴らしていた。
三月が「みんなお掃除上手だねー!」と笑い声を響かせている。
悪徳密猟者たちの野望を朝飯前のおにぎり一つで吹き飛ばした最強の姉弟と、愛を知った神獣たち。
彼らが紡ぐ温かな日常は、豚骨醤油の香ばしい余韻と共に、どこまでも平和に、そしてどこまでも幸福に続いていくのであった。
(第372話へ続く)
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