第370話:背脂香る神饌飯と、震撼する世界データベース
パカッ……フワァァァァァァッ……!
午後六時十五分。
秋の夕暮れのひんやりとした空気が忍び込む如月家の台所で、十合炊きの大きな炊飯器の蓋が開けられた瞬間――。
台所、いや、一階全体を暴力的なまでに濃厚で香ばしい湯気が一気に包み込んだ。
それは、豚骨と鶏ガラをじっくり煮出した白湯スープのコク、熟成醤油タレの香ばしさ、そして上質な背脂が熱々の蒸気となって解き放たれた、たまらなくジャンキーで魅惑的な香りであった。
「わぁぁっ……! すっごくいい匂いに炊けてるーっ!」
黄色いヒヨコ柄のエプロンを着た如月三月が、木製のしゃもじを両手で握りしめ、パァッと満面の笑顔を咲かせた。
内釜の中には、豚骨醤油のスープを米粒の一粒一粒の芯まで吸い込み、琥珀色にツヤツヤと輝くお米がふっくらと炊き上がっていた。
そこへ、三月が事前に仕込んでおいた自家製の豚バラ角切りチャーシュー、コリコリのメンマ、そして味が染み込んで黄金色になった煮卵が、宝石箱のように美しく散りばめられている。
「拓也ー! ラーメンの残り汁で作った炊き込みご飯、完成したよーっ!」
リビングのコタツでテレビを見ていた拓也が、勢いよく顔を跳ね上げた。
「うおっ……! マジで部屋中にすげぇ匂い広がってきたな! 腹減ったーっ!」
拓也がドタドタと足音を立てて食卓へと突進してくる。
その横では、協会の測定から帰ってきたばかりの銀髪の青年狼獣人ザイオンが、拓也に言われた通り、ふわりと純白の光を纏って【体積三倍の巨大綿飴銀狼】の姿へと戻り、拓也の足元へスッと体を滑り込ませていた。
首元には、先ほど勝ち取ったばかりのプラチナ製鑑札と『特級不可侵Fランク』の金ピカプレートが、赤ドット柄バンダナの上で誇らしげに輝いている。
「キャンッ……!(三月殿、配膳の準備は完了しております!)」
ザイオンが極上のフカフカ毛並みで拓也の足首を包み込み、最高の足温器としての役割を完璧に果たす。
「ルルは、お茶碗を並べる係なのにゃ!」
三月のお下がりである黄色いダッフルコートを着た猫耳少女・ルルが、大きめの陶器の丼をトントンとテーブルへ並べた。
換気扇の上からは、首に毛糸のミニマフラーを巻いたミニドラゴン・ポチが、フンスと誇らしげに鼻を鳴らして舞い降りてくる。
「キュピィッ!(我ノ【極微小とろ火排気結界】ニヨリ、換気扇カラ外ヘ漏レ出ル匂イヲ極限遮断イタシマシタ! 近隣ヘノ飯テロ被害ハ皆無デスッ!)」
「あはは、ポチちゃんありがとう! さぁ、熱いうちに食べよう!」
三月が、大きな丼にてんこ盛りの豚骨チャーシュー炊き込みご飯をふんわりとよそい、その隣に山盛りの野菜炒め(キャベツ、もやし、キクラゲ、豚肉)をドンと置いた。
仕上げに、炊き込みご飯の上に小ネギと白ごま、そして刻み海苔が贅沢に振りかけられる。
「うわ……見た目からして絶対にうまいやつじゃん……!」
拓也の喉がゴクリと鳴った。
「いただきます!」
拓也はお箸を割ると、まずは湯気を立てる炊き込みご飯を、角切りのチャーシューごとごっそりと持ち上げ、大口を開けて頬張った。
ハフッ、モグモグ……。
「…………っっっ!!!!」
拓也の咀嚼が止まり、少年の右眼がカッと見開かれた。
その口から、魂の底から絞り出されたような感嘆の叫びが漏れ出た。
「…………っっっ、うっっっっっっっっっっま!!!!」
喉の奥から、呻き声のような快哉が響き渡る。
「なにこれ、めちゃくちゃうめぇ……!!
豚骨スープのコクが米の一粒一粒の芯までしっかり染み込んでて、噛むたびにジュワッて旨味が溢れてくる!
なのに、脂っこさが全然しつこくないぞ!?
角切りのチャーシューが口の中でホロホロ崩れるし、メンマのシャキシャキした食感が最高すぎる……!」
ガツガツッ、ガツガツガツッ!!
拓也は、無我夢中でお箸を動かし、山盛りのご飯を猛烈な勢いでかきこみ始めた。
「えへへー! 拓也、大成功だよーっ!」
三月が嬉しそうに手を叩く。
「お昼に拓也が言ってたからね、ネットで調べたんだよ!
ラーメンのスープだけだと味が濃すぎるから、お水とスープを半々で割って、冷えたときに白く固まった余分な背脂をちゃんとすくい取ってから炊いたの!
だから、お米に芯も残らないで、ふっくらパラパラに炊き上がったんだよー!」
「天才かよ、三月……!
ラーメン食った後の汁、いつも捨てるのもったいねぇなって思ってたけど……こんな美味い炊き込みご飯になるなら、毎回絶対やるべきだわ……!」
拓也は、山盛りの野菜炒めをシャキシャキと頬張り、濃厚な豚骨ご飯をまた口いっぱいに詰め込む。
シャキシャキの野菜炒めの塩胡椒が、甘辛く濃厚な炊き込みご飯の旨味を何倍にも引き立て、食欲の無限ループが完成していた。
「はい、みんなもお疲れ様! 塩分控えめで煮たチャーシューの赤身と、冷ましたご飯だよ!」
三月が、小さな取り皿に一口サイズのご飯とお肉を乗せ、床のザイオンとルル、ポチの前に置いてやった。
「キャンッ……!(あぁ……主と同じ釜の飯……至高の神饌……!)」
「にゃふぅ……お肉がとろけて、すっごく美味しいのにゃ……!」
「キュピィィ……(豚骨ト米ノ融合……コレゾ現世ノ奇跡デスッ!)」
神獣たちは、その一口の温もりを涙を流しながらハフハフと味わい、拓也の足元で幸せそうに身を寄せ合った。
しかし――。
如月家の食卓がそんな家庭的なジャンク飯の至福に包まれていた、まさにその瞬間。
東京・新宿の日本探索者協会本部、最上階の作戦統括室は、未曾有の『グローバル・パニック』に揺れ動いていた。
『――世界探索者連盟(WEF)の全支部門より、緊急ホットラインが殺到しておりますッ!!』
オペレーターのクロエ・アーヴィングが、両耳のヘッドセットを両手で押さえ、悲鳴のような声を上げた。
メインスクリーンには、先ほど生活衛生課と魔獣管理課で正式認可された、ザイオンたちの公的ライセンスデータが投影されている。
そこには、全世界の探索者データベースにリアルタイムで同期された、前代未聞の文字が躍っていた。
【登録個体名:ザイオン】
【所属:如月拓也(日本・練馬区)】
【公認ランク:Fランク(特級不可侵・足温器担当)】
【魔力測定値:測定下限未満(※スイス製神話級測定器アポロン・オメガ完全融解につき計測不能)】
この一行のログが世界中のサーバーへ配信された瞬間、各国の最高幹部たちが狂乱に陥ったのだ。
『米国ペンタゴン特務ギルドより緊急電!
「スイスの素粒子研究所が威信をかけて開発したアポロン・オメガが、配備初日に液体となって消滅したとはどういうことだ!?
しかも、その対象が【Fランク】だと!? 日本の探索者協会は正気を失ったのか!?」』
『欧州連合騎士団より照会!
「測定器を融解させるほどの超高密度マナを持ちながら、なぜ最底辺のFランクに位置している!?
まさか……日本は、神話級の戦略魔獣を【無害な愛玩ペット】と偽装し、国際法を迂回する秘密兵器として隠匿しているのではないか!?」』
鳴り止まない警報と、各国の首脳からの怒号。
しかし――作戦室の中央で、神宮寺蒼太は静かに腕を組み、冷徹な笑みを浮かべていた。
その隣では、アメリカ最強のSランク探索者「雷帝」レオン・カーターが、豪快に鼻を鳴らしている。
「ハッハァ! 騒いでやがるぜ、世界中の能無しどもがよ!」
レオンが肩をすくめて笑う。
「愚かなことだ」
神宮寺の瞳に、狂信的な光が宿った。
「あのお方は、仰せられたのだ。
『一番下のFランクで登録しろ。目立って税金が高くなったり、近所に迷惑がかかったら困る』――と。
これこそが……全宇宙の調律者たる如月拓也様の【絶対不可侵の偽装神託】!
神獣の力を誇示して下界の愚民どもを威圧することなど、あのお方にとっては無価値な低俗行為に過ぎん。
あえて最下位のFランクに身をやつし、平穏なる下町の日常を愛でる……これぞ、真の絶対強者のみに許された究極の境地なのだッ!!」
「その通りですッ!」
クロエが紅潮した顔で立ち上がった。
「さらに、先ほど如月邸より超高密度の生体エーテル反応を観測!
拓也様は、下界のラーメンの残り汁という名の【混濁のエーテル霊液】を、純白の穀物(白米)と融合させ、完全なる調和の神饌へと昇華されました!
濁ったスープすらも至高の美味へと変貌させるあのお方の御手にかかれば……現世の階級制度など、ただの記号に過ぎぬのですッ!!」
「全軍へ通達!!」
神宮寺が、全海外支部への対外声明ラインを切り裂くように命じた。
「各国の探索者ギルド、並びにペンタゴンへ公式回答を送れ!
『ザイオン様は、正真正銘の無害なる愛玩生物(Fランク)である。
これ以上の詮索、あるいは如月邸への不埒な査察を試みる国があれば……我が日本の全戦力、並びに極星の全艦隊をもって、その国家の魔導中枢を更地とする』――となァッ!!」
世界最強の特務組織が、少年の「税金安くなるからFランクでいいや」という一言を命懸けで守るため、地球規模の防諜シールドを展開していたのであった。
しかし――。
この「測定器を壊した謎のFランク魔獣」という情報は、別の危険な闇をも引き寄せていた。
東京都内某所、地下の違法オークション会場。
煙草の煙が立ち込める薄暗いVIPルームで、数名の怪しげな男たちが、タブレットに表示されたザイオンの登録データを覗き込んでいた。
彼らは、絶滅危惧種の魔獣や人造キメラを密猟・密売し、裏社会の富豪たちに売りさばく国際犯罪組織――【悪徳魔獣ブリーダー連合】の幹部たちであった。
「……おい、見たか。この練馬区の登録データ」
葉巻をくわえた大柄な男が、下卑た笑みを浮かべた。
「測定器を狂わせた規格外の生体サンプルが、なんと【Fランク】で登録されてやがる。
しかも飼い主は……ただの無能力者の高校生と、その姉貴の二人暮らしだ」
「ククク……探索者協会の連中も間抜けだな。書類上のミスか何かでFランク判定になったんだろう。
Fランク愛玩動物なら、法律上の保護規定も最も緩い。
街中で事故に見せかけて連れ去るか、夜中に庭先に睡眠ガスを投げ込んで回収すれば……裏のブラックマーケットで数百億円で売れるぞ」
「決まりだな。先日の研究所の生き残りから、あの銀狼と猫耳少女の遺伝子データについてのタレコミも入っている。
明日の夜……如月家を急襲し、あの極上の獲物を根こそぎ狩り獲るぞ」
暗黒街の密猟者たちが、少年の平和な我が家めがけて、凶悪な牙を剥こうとしていた。
夜九時――如月家・居間。
「ふぅー……食った食った! マジで大満足だったわ!」
お風呂から上がり、パジャマ姿になった拓也が、縁側で麦茶を飲みながら大きく伸びをした。
お腹はパンパンに満たされ、足元には巨大な綿飴銀狼ザイオンが、フカフカの背中を少年の足元へ差し入れて温めてくれている。
その横では、お腹を擦りながら満足そうに丸まるルルと、ポチが穏やかな寝息を立てていた。
「あ、拓也! 炊飯器に、炊き込みご飯がちょうどお茶碗二杯分くらい残ってるよ!」
台所で洗い物を終えた三月が、タッパーを手に顔を出した。
「明日の朝ごはんにする? それとも冷凍しとく?」
拓也は、縁側から振り返り、少し考えてから言った。
「あー……明日さ、朝練があるから早めに出なきゃいけないんだよな。
だからさ、その残ったご飯……三角にギュッて握ってさ、味付け海苔をペタッと巻いて【おにぎり】にして置いといてくれない?
ラップに包んどいてくれれば、明日の朝、登校しながらパクッと食えるしさ。
あの味なら、冷めても絶対にうまいだろ」
「うんっ、わかった! 拓也のために、愛情たっぷりの特大おにぎり握っとくね!」
三月が嬉しそうにラップを取り出した。
何気ない、ただの「明日の朝ごはんにおにぎりを握っておいてくれ」という、少年の素朴なリクエスト。
しかし――。
新宿・防衛本部。
『――ぎゃあああああああああっっっ!!!!』
深夜の防衛本部に、本日何度目かのクロエの絶叫が木霊した。
神宮寺とレオンが、椅子を蹴り倒してモニターへ詰め寄る。
「クロエ殿ッ! 今度は何事だ!?」
「た、拓也様より……明朝に向けた新たなる超特大神託が下されました!
【神饌携帯結界核】の鍛造命令ですッ!!」
クロエが、血走った目でスクリーンをバンッと叩いた。
「拓也様は仰せなのです!
『残された至高の神饌飯を、聖なる三角形の幾何学結界へと凝縮せよ!
深海の漆黒結界膜(味付け海苔)で封印し、明朝の出陣において、歩みながら万象の因果を喰らい尽くす』――とッ!!」
「な、何ということだ……ッ!!」
神宮寺が、顔面を蒼白にして後ずさった。
「明朝の通学路において、指揮官様自らが携帯神饌を携えての【神聖親征】を行われるというのか……!
全護衛部隊へ緊急招集!!
明朝の通学路半径五キロメートル圏内に潜むあらゆる不審者、密猟者、裏社会の害虫どもを……指揮官様がおにぎりの一口目を咀嚼される前に、一匹残らず更地に殲滅しろッ!!」
世界中の特務機関が、少年の「朝飯におにぎり握っといて」という一言によって、未明の暗殺者狩りへと駆り出されることとなった。
「……ふぁ〜あ……。あったかいなぁ、ザイオン」
「くぅ〜ん……(我が主、至高の安眠をお楽しみください……)」
そんな大人の狂気など知る由もなく、拓也はフカフカのザイオンの背中に足をうずめ、心地よい睡魔に身を任せていた。
台所からは、三月がおにぎりをリズミカルにキュッキュッと握る温かな音が響いている。
明日の朝、通学路を舞台に巻き起こる密猟者軍団の壊滅劇と、至高のおにぎりの福音。
温かな家族の絆に包まれながら、如月家の平和な夜は、背脂の香ばしい余韻と共に、どこまでも穏やかに更けていくのであった。
(第371話へ続く)
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