第367話 如月家の平和な食卓
翌朝。如月家のリビングには、朝日に照らされてキラキラと眩い光を放つ三つの金属プレートがあった。
練馬区役所の生活衛生課から正式に授与された、純プラチナ製の犬の鑑札である。
「おお、やっぱりプラチナは輝きが違うな。お前ら、似合ってるぞ」
ダイニングテーブルでコーヒーを飲みながら、拓也が満足げに頷いた。
その足元では、銀髪の美青年の姿をとったザイオンが、首から下げたプラチナのプレートを愛おしそうに両手で包み込んでいる。
隣では猫耳少女のルルがプレートを頬にすりすりとしており、ミニドラゴンのポチに至っては、自らの宝物庫に仕舞い込むかのように小さな胸に強く抱きしめていた。
彼らにとって、この小さな金属片は単なる行政の許可証ではない。
「如月家の家族として、人間の社会から公式に存在を許された」という、何よりも重く、温かい絶対の証明であった。
かつて非人道的な研究所で実験動物として扱われ、暗黒の檻の中で死を待つだけだった彼らが、ついに手に入れた光の居場所。
「拓也様……。この御恩は、我ら三匹の命と魂に代えましても、必ずや……っ」
ザイオンが感極まって涙ぐみ、畳の上で深く平伏する。
「大げさだっての。ただの役所の登録証だろ。大事にしてくれるのは嬉しいけど、失くすなよ?」
拓也は苦笑しながら、ザイオンの銀色の髪をわしゃわしゃと無造作に撫でた。
その無意識の接触によって、拓也の指先から『調律』の波動が流れ込む。ザイオンの魂にこびりついていた微かな不安や過去のトラウマが、まるで朝霧が晴れるように完全に浄化されていく。
「……ふふっ、拓也ったら、すっかりお兄ちゃんみたいだね」
キッチンで朝食のフレンチトーストを焼いていた三月が、フライパンを揺らしながら嬉しそうに微笑んだ。
魔力を持たないはずの弟が、規格外の神獣たちを完全に手懐け、見事な主従関係(家族愛)を築いている。最強の姉である彼女にとって、その光景は何よりも守るべき至福の日常であった。
「よし、今日は日曜日だし、みんなでお祝いに商店街へ買い出しに行こうか。夜はすき焼きにするぞ。特上の和牛、奮発しちゃうからな」
「すき焼き! お肉! にゃーっ!」
ルルが歓喜の声を上げ、ポチが空中で嬉しそうに宙返りをする。
ザイオンも尻尾を千切れんばかりに振りながら、力強く頷いた。
一方その頃。
東京の地下深く、不可視の結界で守られた暗黒カルテルの極秘本部『最高評議会』では、重苦しい絶望の沈黙が支配していた。
巨大な円卓を囲む十二人の幹部たちは、冷や汗を流しながら、中央のモニターに映し出されたエラー画面を凝視している。
『……キメラ・ドールズ、全十六機。ロスト』
無機質な電子音声が、事実だけを冷淡に告げた。
「馬鹿な……。我らが数千億の資金と数十年の歳月を費やして完成させた、最高傑作の自律暗殺部隊だぞ!? それが、練馬区役所というただの公共施設で、わずか『0・1秒』で全滅したというのか!?」
評議会の議長が、震える声で叫んだ。
戦闘の記録はおろか、破壊されたというデータすら残っていない。
ただ、区役所の空調ダクトから降下を開始した瞬間に、すべての通信が完全に途絶し、この世界から『消去』されたのだ。
「ドクター・ヴァルターも行方不明のままだ。……間違いない。あの如月拓也という少年と、彼が連れている三匹の化け物は、我々のような裏社会の組織が手を出していい存在ではない」
幹部の一人が、青ざめた顔で頭を抱える。
彼らは知らない。
ドールたちを一瞬でアルミ缶サイズに圧縮・分解したのがザイオンとルルであり、それをわずか一秒で回収し隠滅したのが、日本の防衛を担う暗部『八咫烏』であることを。
そして何よりも、彼らが恐れる「如月拓也」本人は、その事実に一切気づいていないただの一般人であることを。
「……日本からの完全撤退を具申する」
沈黙を破り、議長が絞り出すように言った。
「これ以上あの少年に近づけば、我々カルテルそのものが因果の果てに消滅させられる。直ちに日本支部の全拠点を破棄し、地下トンネルを爆破して封鎖しろ。二度と、あの神の領域に足を踏み入れるな……!」
かくして、日本の裏社会を長年牛耳ってきた巨大な悪の組織は、拓也たちが役所でハンコをもらっている間に、勝手に恐怖し、勝手に自壊して消え去ったのであった。
そんな世界の裏側の激動など露知らず。
午後、如月家の面々は、近所の賑やかな商店街へと買い出しに訪れていた。
「うわぁ、あの子たちすっごく綺麗……。モデルさんかしら?」
「銀髪の男の子、外国のアイドルみたいね!」
商店街を行き交う人々が、三月の圧倒的な美貌と、ザイオンの端正な顔立ちを振り返る。
グレーのパーカーを着こなしたザイオンは、周囲の視線に少し緊張しながらも、拓也の後ろを一歩下がって恭しく追従していた。
「ザイオン、そんなに硬くなんなくていいぞ。ほら、あそこの肉屋で特上の牛肉を買うから、荷物持ち頼むな」
「はっ! このザイオン、拓也様の命とあらば、いかなる重荷であろうと必ずや……!」
「いや、ただのスーパーの袋だから。そんな大げさな」
拓也が苦笑しながら精肉店のショーケースを覗き込んでいた、その時だった。
ピキッ……。
路地裏のマンホールの奥深くで、空間に微小な『歪み』が発生した。
最近の地球の魔力変動によって生じた、極小のダンジョン・クラック(亀裂)である。そこから、鋭い爪を持ったDランクの魔獣『シャドウ・ハウンド』が、人知れず地上へと這い出ようとしていた。
暗がりの路地から、獲物を求めて商店街の喧騒を睨みつける魔獣。
しかし、それが路地から一歩を踏み出そうとした瞬間。
肉屋の前に立っていたザイオンの冷ややかな銀色の瞳が、ギロリと路地裏へ向けられた。
――気安く拓也様の平穏を脅かすな、下等生物が。
声なき圧倒的な神獣の威圧。
拓也の『調律』によって、かつての神代の力を完全に取り戻したザイオンの覇気が、不可視の重圧となって路地裏を襲った。
『キャンッ!?』
悲鳴を上げる間もなかった。
Dランクの魔獣は、ザイオンと目が合った瞬間に己の存在の矮小さを悟り、恐怖のあまり自ら魔力核を砕いて霧散してしまった。
開いたばかりのダンジョン・クラックも、「ここは絶対に開いちゃダメな場所だ」とばかりに、スッと音もなく閉じて消滅する。
「ん? ザイオン、どうかしたか?」
「いえ、拓也様。ただの『虫』が迷い込んでいたようですが、すでにいなくなりましたので」
ザイオンは、何事もなかったかのように穏やかな笑みを浮かべ、拓也から受け取った牛肉の入った袋を恭しく両手で抱え持った。
「そうか? ま、いっか。さあ、今日はとことん美味いすき焼きを食うぞ!」
「にゃーっ! 拓也のごはん、楽しみ!」
最強の姉と、調律された無敵の神獣たち。
彼らに絶対的な忠誠と愛情を注がれる少年指揮官の日常は、世界の危機も裏社会の陰謀も、すべて自動的に更地にされながら、今日も圧倒的に平和に過ぎていくのであった。
夕刻。
如月家のダイニングには、甘辛い醤油とザラメが焦げる極上の匂いが充満していた。
鉄鍋の中でグツグツと煮込まれる霜降りの和牛、焼き豆腐、しらたき、そしてたっぷりの長ネギ。
「よし、肉に火が通ったぞ。みんな、食べていいぞ」
「「「いただきます!!」」」
拓也の号令とともに、三月と神獣たちが一斉に箸を伸ばす。
ザイオンは、生卵にくぐらせた特上肉を口に運んだ瞬間、そのあまりの美味さと「家族の食卓」という温かさに、再びボロボロと大粒の涙をこぼした。
「ううっ……美味いです、拓也様……。このような至福の食事を、我らのような獣が頂けるなど……っ」
「だから泣くなって。お前らも今日から立派なうちの家族だろ。ほら、ネギもちゃんと食えよ」
「はいっ!」
ルルも熱々のしらたきをフーフーと冷まし、ポチは小さく切った肉を大事そうにハムハムと噛み締めている。
「ふふっ、本当に賑やかになったね、拓也」
「……まあ、たまにはこういうのも悪くないかもな」
三月が嬉しそうに微笑み、拓也も照れ隠しのように頬を掻きながら、熱い豆腐を口に放り込んだ。
区役所の登録証という小さなプラチナのプレートがもたらした、確かな居場所。
暗黒カルテルの崩壊も、未然に防がれた魔獣の襲撃も、彼らの食卓に並ぶこの笑顔の前では、ほんの些細な裏話に過ぎない。
かくして、如月家の平和な日曜日は、極上のすき焼きの味とともに、静かに、そして幸せに更けていくのであった。
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