第365話:夕暮れの豚汁と、役所本登録への宣誓
ゴロゴロゴロッ……コトコトコト……。
動物病院での狂犬病予防接種と秋期健康診断を奇跡の「ハナマル満点」で突破した如月家の一行。
夕闇が静かに迫る午後六時半、木造家屋の台所には、芳醇な鰹節の出汁と、炒めたごぼうと豚バラ肉の香ばしい匂いが立ち込めていた。
黄色いヒヨコ柄のエプロンをつけた如月三月が、大きなお鍋の蓋を開け、お玉で具だくさんの汁をすくい上げる。
お鍋の中では、乱切りにした大根、人参、里芋、板こんにゃく、そしてたっぷりの豚バラ肉が、濃厚な信州味噌のスープの中でグツグツと踊っていた。
「ん〜っ! お肉の旨味が大根とごぼうにすっごく染み込んでる!
炊飯器のきのこ炊き込みご飯も、ちょうど今炊き上がったよーっ!」
ピー、ピー、ピーと電子音が鳴り響き、炊飯器の蓋が開けられると、舞茸、しめじ、油揚げの香ばしい湯気が一気に立ち上った。
お茶碗にふんわりと盛られた黄金色の炊き込みご飯。
そして、大きめのお椀に並々と注がれたアツアツの特製豚汁。
仕上げに小ネギがたっぷりと散らされ、秋の味覚が凝縮された最高の夕餉が完成した。
「はーい、拓也! お待たせー! 病院頑張った記念の特製豚汁御膳だよーっ!」
「うわ……マジでうまそうじゃん……!」
食卓についた如月拓也の瞳が、キラリと輝いた。
部活やテストの疲れが残る男子高校生にとって、アツアツの豚汁と炊き込みご飯ほど胃袋を直撃するご馳走はない。
拓也の足元には、体積三倍の巨大綿飴銀狼ザイオンが、赤ドット柄のバンダナを揺らしながらスッと寄り添い、冷えやすい少年の足先を極上の毛並みで包み込んでいた。
その横には、三角巾を巻いたルルが木製のお箸とお茶を丁寧に並べ、換気扇から降りてきた手のひらサイズのミニドラゴン・ポチが、三月手作りのミニマフラーを整えてテーブルの端にお座りしている。
「いただきます!」
拓也はお箸を割ると、まずは湯気を立てる豚汁のお椀を持ち上げ、ズズッと一口すすった。
「…………。」
喉を通る、濃厚な豚バラの脂の甘みと、根菜の滋味。
味噌の塩気が出汁と完璧に調和し、疲れた身体の隅々へと、じんわりと温かなエネルギーが行き渡っていく。
「……っっっ、あぁ……うめぇ……!!
ごぼうの風味がめちゃくちゃ効いてるし、大根がトロットロに煮崩れる手前で最高だわ……!
豚肉もすっごい柔らかい……!」
続いて、きのこ炊き込みご飯を箸でごっそりと持ち上げ、口の中へとかきこむ。
舞茸のシャキシャキとした歯ごたえと、出汁をたっぷり吸い込んだご飯の甘みが弾け飛ぶ。
豚汁をすすり、炊き込みご飯を頬張り、また豚汁をすする。
無限のループに、拓也の箸は一瞬たりとも止まらなかった。
「えへへー! 拓也、そんなに美味しそうに食べてくれたら作った甲斐があるよー!」
三月が嬉しそうに微笑みながら、小皿に柔らかく煮た豚バラの赤身と大根を少し取り分け、床のザイオンとルル、ポチの前に置いてやった。
「はい、みんなもお疲れ様! 塩分控えめのところ、冷ましてあるからね!」
「キャンッ……!(あぁ……大地の恵み、肉と根菜の至高の調和……!)」
「にゃふぅ……大根がすっごく甘くて美味しいのにゃ……!」
「キュピィィ……(神饌ノ温モリカ、魂ニ染ミ渡リマスッ……!)」
神獣たちは、その一口の豚肉と大根を、世界中のいかなる秘宝よりも尊い聖餐として、涙を流しながらハフハフと味わった。
「ぷはーっ! 食った食った! 最高だったわ!」
米粒一つ、豚汁の汁一滴残さず綺麗に平らげた拓也は、お茶をゴクッと飲み干して満足そうに息を吐いた。
そして、食卓の脇に置かれていた、動物病院から三月が持ち帰ってきた封筒へと視線を落とした。
封筒の中からは、ハインリヒ医師が発行した『狂犬病予防注射済証』の書類と、小さなアルミ製の鑑札プレート、そして健康診断結果通知書(全項目S+)が顔を覗かせていた。
「……ん。これで注射と健康診断の証明書は揃ったな」
拓也は書類を指先でトントンと整えながら、足元のザイオンを見下ろした。
「なぁ、ザイオン」
「キャンッ……!(は、はいッ! 我が主!)」
ザイオンが、背筋をピンと伸ばして直立不動の姿勢を取る。
「注射と健診が終わったからって、安心すんなよ?
この注射済証をさ……明日の放課後、ちゃんと区役所の生活衛生課の窓口に持ってって、正式な愛玩動物登録をして、本物の【犬の鑑札(登録プレート)】を貰ってこなきゃいけないんだからな」
ヒュオオオオオオオッ……!!
その瞬間、ザイオンの背筋に、再び冷たい氷柱のような戦慄が走り抜けた。
(く……『区役所の本登録』……!? そして『本物の鑑札』……だとォォォッ!?)
ザイオンの全身の銀毛が、一瞬で逆立った。
その横で、ルルの猫耳がビクッと跳ね上がり、ポチの小さな前足がガタガタと震え始める。
拓也は、湯呑みを手にしたまま、至極真面目な顔で言葉を続けた。
「お前、体がでかいんだからさ。窓口で書類に不備があったり、申請書の文字が汚かったりして突き返されたら、窓口のおばちゃんにめちゃくちゃ怒られるぞ。
『こんな怪しい大型犬、登録できません! 不審動物です!』って言われて門前払いされたら、今度こそ一発でアウトだからな。
明日は三月と一緒に、シャキッと背筋伸ばして、礼儀正しくお座りして、一発でハンコ貰ってこいよ……むにゃ」
拓也は、大きくあくびをしながら立ち上がると、お風呂へ向かうためにリビングを出ていった。
しかし――残されたリビングの空気は、再び絶対零度の緊迫感に包まれていた。
(……聞いたか、ルル、ポチ……ッ!?)
ザイオンが、悲壮な面持ちで二匹へ極小の思念波を走らせた。
(我が主は……明日の【区役所生活衛生課】を、我らにとっての『最終試練』と位置づけておられるのだ!
書類の不備、態度の乱れ、不審な挙動……わずか一つの瑕疵すら許されん!
もし『登録不可の不審動物』と判定されれば……この温かな食卓も、あのフカフカの安眠も、すべてが泡と消えてしまうのだッ……!!)
「にゃぅ……! ルル、怒られるの嫌なのにゃ……! ちゃんといい子でお座りするのにゃ……!」
「キュピィッ……!(書類ノ角一ツ折ラズ、公印ヲ受領スルマデ……我ラノ戦イハ終ワリマセンッ!)」
神獣たちは、明日の区役所出頭に向けて、かつてない覚悟の炎をその瞳に宿したのであった。
その頃――新宿・日本探索者協会本部、最上階作戦統括室。
『――観測班より緊急暗号電ッ!!』
オペレーターのクロエ・アーヴィングが、両手でヘッドセットを力いっぱい押さえ、紅潮した顔で立ち上がった。
巨大スクリーンには、都内某所の如月邸の音声波形データがリアルタイムで解析されている。
『た、拓也様より……明日の午後を指定した……新たなる超特大神託が下されました!
【現世最高至高台帳登録令】、並びに【絶対神聖鑑札拝受の儀】ですッ!!』
「な、何だとォッ!?」
神宮寺蒼太が、氷の長刀の柄を軋ませて身を乗り出した。
その隣で、アメリカ最強のSランク探索者「雷帝」レオン・カーターが、口を開けて唸り声を上げる。
「クロエ殿! 指揮官様は、一体何を仰せられたのだ!?」
「拓也様のお言葉を再生します!」
スピーカーから、拓也の冷徹な声が厳かに響いた。
『……窓口で書類に不備があったりして突き返されたら、めちゃくちゃ怒られるぞ。門前払いされたら一発でアウトだからな。明日はシャキッと背筋伸ばして、礼儀正しくお座りして、一発でハンコ貰ってこいよ……』
「…………ッ!!」
神宮寺とレオンが、息を呑んで顔を見合わせた。
「『不備があれば一発でアウト』……『門前払い』……だと……!?」
レオンが額に青筋を浮かべて唸る。
「ええ、そうです!」
クロエが、狂信の光に目を燃え上がらせながら断言した。
「拓也様は仰せなのです!
先の動物病院における健康診断は、あくまで前哨戦に過ぎぬ!
明日の【練馬区役所】における登録こそが……神獣たちを全宇宙の理、そして現世の法体系という名の【至高台帳】に正式登記するための、究極の儀式であると!
もし……もし我ら人類側の役所手続きにコンマ一秒の不備、書類の誤字脱字、あるいは失礼な態度があれば……!
『不備がある、やり直しだ』として、日本国政府ごと行政機能が更地に消去されるという、明白なる最後通牒ですッ!!」
「な、なんという恐るべき試練だ……ッ!!」
神宮寺が、戦慄のあまり机を叩いて叫んだ。
「内閣府、法務省、厚生労働省、並びに東京都庁へ最優先レッドアラートを発令!!
明日午後、三月様と神獣様方が向かわれる練馬区役所生活衛生課を、直ちに【国家不可侵特級行政聖域】に指定しろ!
当日の窓口対応職員は、全員を東大首席卒業の官僚エリート、並びに国家最高峰の礼法指南役へと差し替えよ!
神獣様方に差し出す申請用紙は、伊勢神宮に奉納される最高級の手漉き和紙、押印する朱肉は千年前の神木から精製された純白聖朱肉を用いろ!
そして……神獣様にお授けする鑑札プレートは、純プラチナと賢者の石を用いて特注で鋳造しろッ!!
書類の角が一ミリでも折れていた場合……担当大臣以下、全員を即刻免職のうえ極北の氷河へ送致するッ!!」
「「「「了解ッッッ!!!!」」」」
世界最強の特務組織が、男子高校生の「書類不備で怒られるなよ」という何気ない一言を受け、ただの区役所の窓口を「全宇宙最高格式の調印式場」へと変貌させるべく、狂気じみた規模で動き出していた。
しかし――。
その極秘作戦の裏側。
先ほど動物病院で不知火凛によって捕縛されたドクター・ヴァルター。
その身柄が亜空間地下牢へと消去される直前、彼が放っていた極小の緊急救難ビーコンが、都内某所の地下深く――生体兵器カルテル『アンダー・キメラ研究所』の最奥、最高評議会のメインフレームへと着信していた。
ピピピ……ガガガッ……。
薄暗い円卓を取り囲む、ホログラムで投影された数名の影。
彼らは、ヴァルターをも駒として使っていた、カルテルの真の出資者たち――国際軍事複合体の闇の重鎮たちであった。
『……ヴァルターが仕損じたか。哀れな男だ』
冷酷な老人の声が響く。
『だが、奴が最後に残したログは極めて有益だ。
明日午後、完全体フェンリルと失敗作キャットが、練馬区役所という公の場に姿を現す。
一般市民が密集する行政庁舎……そこであれば、日本探索者協会の精鋭たちも派手な広域破壊魔術は使えまい』
『うむ。ヴァルターの遺した最高傑作……生体自律型暗殺ドール部隊【キメラ・ドールズ】を全機投入せよ。
区役所の地下配管、空調ダクト、および待合室の一般市民に紛れ込ませ、申請手続きの瞬間を狙って一斉奇襲を仕掛ける。
神獣を回収できずとも構わん。あの場で神獣を暴走させ、一般市民を虐殺させれば……奴らは「危険魔獣」として社会的に抹殺され、我らが合法的かつ強制的に回収できる』
『決定だな。明日の練馬区役所を……神獣たちの墓場としてやろう』
暗黒の組織による、狂気の陰謀が、明日の区役所を標的として静かに照準を合わせていた。
深夜十二時――如月家・居間。
家中の電気が消え、拓也と三月が二階の寝室で寝静まった後。
薄暗いリビングのコタツの周りに、三つの小さな影が、息を潜めて集まっていた。
テーブルの上には、三月が役所から持って帰ってきた『愛玩動物登録申請書』の見本用紙が広げられている。
「キャン……(ルル、ポチ、準備はいいか)」
ザイオンが、真剣そのものの眼光で低く囁いた。
「(明日の提出本番、拓也様に恥をかかせるわけにはいかん。
今夜のうちに、完璧なる【姿勢制御】と【申請書提出の所作】を体に叩き込むのだ)」
「にゃっ! ルル、頑張るのにゃ!」
ルルは、小さな両手で見本用紙の両端を、皺一つつけないように慎重に挟み持った。
そして、コタツの前に正座し、背筋をピンと伸ばす。
「キュピィッ!(我ガ、窓口ノ受付職員役ヲ務メマショウ!)」
ポチが、換気扇の枠から飛び降り、コタツの反対側で胸を張って直立した。
「(コホン……次ノ方、どうぞ! 申請書ヲご提出クダサイ!)」
「キャンッ!(ザイオン、参るッ!)」
ザイオンは、床に両前足を綺麗に揃え、頭を深々と四十五度の角度で下げた。
昨日拓也から教わった「至高の脱力」の精神を研ぎ澄まし、呼吸音すらゼロに抑え込む。
そして、ルルが両手で差し出した申請書を、前歯の先端で紙の繊維を一本も傷つけることなくそっと受け取り、ポチの前へと恭しく差し出した。
「(……コレハ……完璧デス……ッ! 角度、静寂、礼儀、何一ツトシテ非ノ打チ所ガアリマセンッ!)」
ポチが思念波で感涙の拍手を送る。
三匹は、何度も、何度も、夜を徹して「完璧なお座りと書類提出」のシミュレーションを繰り返した。
すべては、この温かな家の一員として、明日、胸を張って拓也の元へ帰ってくるために。
ガララッ……。
「……ん? お前ら、何やってんだ?」
その時、リビングの引き戸が開き、眠たそうに目をこすりながらスウェット姿の拓也が入ってきた。
喉が渇いて麦茶を飲みに降りてきたのだ。
「ヒィッ……!?」
三匹が、ピタッと氷漬けのように静止した。
拓也は、コタツの周りでなぜか正座し、申請用紙を囲んでビシッと背筋を伸ばしている三匹を見て、不思議そうに首をかしげた。
「なんだよ、夜中にコタツ囲んで……。お前ら、ペットのくせに家族会議でもしてんのか?」
拓也は冷蔵庫から麦茶を取り出してコップ一杯飲むと、コタツの前に歩み寄ってきた。
そして、床にしゃがみ込むと――。
ワシャワシャワシャッ……!
緊張でガチガチになっていたザイオンの頭を、大きな手で力いっぱいに撫で回した。
さらに、ルルの頭をくしゃくしゃと撫で、ポチの顎の下を人差し指でコチョコチョとくすぐる。
「明日の役所、そんなに緊張すんなって。
三月も一緒に行くんだし、お前らなら大丈夫だよ。
ほら、夜更かししてないで、早く二階上がって寝るぞ。
足元が冷えるから、ザイオン、お前が布団に入れよ」
「くぅ〜ん……(あぁ……拓也様……!)」
「にゃふぅ……♡」
「キュピィィ……(神ノ……絶対ノ信頼……ッ!)」
拓也の温かな手のひらの温もりに、三匹の胸の奥の緊張が、スーッと優しく溶け去っていった。
怒られるかもしれない恐怖。追放されるかもしれない不安。
そんなものは最初から、少年の深い愛の前には存在しなかったのだ。
「よし、行くぞ」
「キャンッ!」
「にゃーっ!」
「キュピィ!」
拓也の足元をエスコートするように、トコトコと階段を登っていく三匹。
二階の六畳間で、少年を真ん中にぎゅっと寄り添いながら、彼らはどこまでも温かく、どこまでも深い眠りへと沈んでいった。
明日、練馬区役所で待ち受ける国家規模のVIP待遇と、暗黒カルテルの凶悪な罠。
そんな大騒乱の予感すら知らぬまま、少年と神獣たちの穏やかな夜は、静かに更けていくのであった。
(第366話へ続く)
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