第364話:精密触診の試練と、崩壊する魔力測定器
「さて……それでは、秋期総合健康診断を開始いたします」
光が丘セントラル動物病院の第一診察室。
白髪交じりの温厚な老獣医師――その正体たる世界最高峰の聖魔導治癒士、Dr.ハインリヒが、手元の分厚いカルテをめくりながら穏やかに微笑みかけた。
しかし、その温和な眼差しの前に立つ神獣たちにとっては、それはまさに「処刑宣告の第二幕」に他ならなかった。
(……お、お腹をギュッギュッと押される……!?)
診察台の上で、体積三倍の巨大綿飴銀狼ザイオンは、四本の足をピシリと揃えたまま、全身の筋肉を硬直させていた。
その脳裏には、今朝、トーストをかじりながら如月拓也が放った、あの冷徹極まる神託が鮮明に木霊していた。
『ちゃんと獣医さんに太い注射打ってもらって、血ぃ抜いて、お腹ギュッギュッて押してもらってこいよ。
動物病院で暴れて獣医さんに噛み付いたりしたら、その場で即・保健所行きだからな』
(暴れることは断じて許されん……!
痛みに耐えかねて牙を剥けば即座に保健所……如月家からの永久追放だ!
いかに内臓を圧迫されようと、我が身を裂かれようと、声一つ上げてはならんのだッ……!!)
ザイオンの耳の付け根から、冷たい脂汗がツーッと流れ落ちる。
その横で、診察台の縁にちょこんと両手をかけて見守るケットシーの少女・ルルも、黄色いダッフルコートの裾を握りしめて「にゃぅ……」と小さく震えていた。
換気扇の真下でホバリングする白銀のミニドラゴン・ポチに至っては、毛糸のミニマフラーを口にくわえ、歯をガチガチと鳴らしている。
「ふふ、ザイオンちゃん、ちょっと失礼しますね。お腹の張りやリンパの腫れがないか、触診していきますよ」
ハインリヒは両手をアルコールで消毒すると、温かな手のひらをザイオンの白銀の毛並みの中へと差し入れた。
アビスゲート柔軟剤の甘いフローラルの香りがふわりと立ち上る中、老医師の指先が、ザイオンの下腹部へと触れる。
(……来るッ! 拷問の圧迫が……ッ!)
ザイオンはギュッと目を瞑り、奥歯を噛み締めた。
ギュッ……ギュッ……。
ハインリヒの両手が、丹念に、適度な力加減でザイオンの腹部を押し込んでいく。
内臓の位置、腸の蠕動運動、肝臓の硬度を確かめる、ごく一般的な獣医学の触診動作。
しかし――。
(――え……?)
ザイオンの目元が、呆気に取られたように微かに開いた。
痛くない。
苦しくない。
それどころか――触れられた手のひらの奥から、かつて感じたことのないような、ポカポカとした心地よい温もりが下腹部全体にじんわりと広がっていく。
かつて生体兵器カルテル『アンダー・キメラ研究所』にいた頃、ザイオンの腹腔内には、暴走を誘発する魔力核と、内臓を締め付ける無数の金属製拘束具が埋め込まれていた。
しかし、それらの呪縛はすべて、数日前に如月家の居間で拓也が百均のプラスチックブラシでガシガシと背中をブラッシングした際、無意識の『神聖調律』によって跡形もなく粒子となって消滅していたのだ。
今や、ザイオンの内臓器官は、神代の幻獣フェンリルすら凌駕する、完全無欠の調和を保っていた。
触れられるたびに、整えられた魔力ラインが滑らかに共鳴し、極上のマッサージを受けているかのような快感が全身を駆け抜ける。
「くぅ〜ん……(あ、温かい……。お腹が……ポカポカする……)」
ザイオンの喉から、思わずトジけた甘えた声が漏れ出た。
緊張でガチガチだった四肢の力がふわりと抜け、体積三倍のモフモフボディが、診察台の上でパン生地のようにデローンと平たく伸び広がっていく。
「おやまぁ……なんてお利口さんなんでしょう」
ハインリヒの瞳に、深い感動の色が浮かび上がった。
老医師の指先を通じて伝わってくる生体データは、現代のあらゆる医学書を覆す奇跡そのものであった。
腹部の筋肉はビロードのようにしなやかでありながら、鋼鉄以上の弾力を秘めている。
内臓の配置は黄金比を描き、血液の一滴一滴に至るまで、濁りのない高純度のマナが満ち溢れていた。
(す、凄まじい……! 胃腸の蠕動音すら、神殿の鐘のように澄み渡っている……!
この神獣の肉体構造は、すでに病気や老化という概念そのものを超越しているではないか……ッ!)
「はい、お腹の触診は完璧です! 張りもシコリも一切ありません、極めて健康ですよ!」
ハインリヒが笑顔で太鼓判を押した。
「わぁーっ! よかったね、ザイオンちゃん!」
三月が満面の笑顔でザイオンの首元をワシャワシャと撫で回す。
「キャンッ!(た、助かった……! 我が腹部は保健所送りにならずに済んだのだ……!)」
ザイオンの大きな瞳から、安堵の涙がポロポロと零れ落ちた。
「では、お次はルルちゃんですね」
ハインリヒが、ワゴンから一台の特殊な医療機器を引き寄せてきた。
それは、魔導生物の全身の神経系と魔力伝達効率を非破壊でスキャンする、探索者協会が誇る最新鋭の生体診断機『マナ・シナプス・アナライザー』であった。
本体から伸びる数本の柔らかな吸盤型プローブが、青白い光を帯びて明滅している。
「ルルちゃん、怖くないですからね。この小さなパッドを、両手とおでこにペタッと貼るだけですよ」
「にゃぅ……ペタッとするだけなのにゃ?」
ルルはおずおずと、三月の影から小さな顔を出した。
研究所時代、頭部に無数の電極を突き刺され、過剰な魔力電流を流された悪夢が脳裏をよぎる。
(でも……拓也が、ちゃんと診てもらえって言ってたのにゃ……!
ルル、如月家のいい子になるって決めたのにゃ……!)
ルルは覚悟を決め、小さな両手を差し出し、おでこをコトンと差し出した。
ハインリヒが、優しく三箇所の吸盤パッドを装着する。
「はい、いきますよ。生体魔力波形スキャン、スタート」
ピッ。
測定開始の電子音が鳴り響いた、そのコンマ一秒後であった。
キュルルルルルルルルルッッッ!!!!
「……なっ!?」
操作パネルの前にいたハインリヒの助手が、息を呑んだ。
アナライザーの液晶ディスプレイに表示された魔力伝達グラフが、開始と同時に垂直に跳ね上がったのだ。
【魔力伝達効率:99.999%】
【神経シナプス抵抗値:0.0000オーム】
【波形パターン:至高純度・神聖因果律同調】
ピピピピピピピピピピピッ!!
警告アラームが狂ったように甲高く鳴り響く。
「せ、先生ッ! 測定器の受信用クリスタルが限界値を超過しています!
ルル様の体内に流れる魔力……これ、以前の欠陥プロトタイプのデータではありません!
先ほど切り揃えられた爪先と肉球から、まるで春の木漏れ日のような超高密度の神聖エネルギーが、逆流するように計測器へ流れ込んできていますッ!!」
「何だと……!?」
ハインリヒが目を見張る。
ルル自身には、攻撃の意図など微塵もなかった。
ただ、昨日拓也に「痛くないな、偉いぞ」と爪を切ってもらい、優しく撫でられた手の温もりを思い出していただけだった。
少年の右眼が無意識に施した『爪先調律』によって、ルルの肉体は今や「触れるものすべてを優しく癒す神聖な触媒」へと完全に変異していたのだ。
バチバチバチッ……!
アナライザーの内部配線から、青白い火花がプシュプシュと吹き出した。
神聖魔力の純度が高すぎるあまり、人間の作った精密機械がその神々しさに耐えきれず、内部のヒューズが自ら焼き切れて安全停止したのだ。
【システムオーバーロード:測定不能(規格外の超健康体)】
「あ……壊れちゃったのにゃ……?」
ルルが、申し訳なさそうに猫耳をペタンと伏せた。
「ルル、悪いことしちゃったのにゃ……?」
「い、いえっ! 滅相もございませんッ!!」
ハインリヒは慌てて首を横に振った。
「機械が自らの不甲斐なさに耐えかねて眠っただけでございます!
ルルちゃんの魔力神経は、傷一つなく、宇宙で最も美しく澄み渡っておりますよ!」
「えへへ、よかったのにゃ!」
ルルはパァッと笑顔を咲かせ、三月の足元へ飛びついて抱きついた。
「さぁ、最後はポチちゃんですね」
ハインリヒが、診察室の壁際に設置された超音波エコー診断装置へと視線を向けた。
「ポチちゃんの体内にある、火炎放射の源泉……火炎核の状態を画像で確認させていただきます」
「キュピィッ……!(我ノ体内ノ核……竜玉ヲ覗ク気デスネ……!)」
ポチは、意を決して診察台の中央へとトコトコと歩み出た。
古代の竜種にとって、体内の竜玉とは魂そのものであり、最大の急所である。
かつて神罰を受け、数万年もの間、その竜玉には無数のひび割れと黒ずんだ澱みが刻まれていたはずだった。
「ちょっと冷たいゼリーを塗りますね」
ハインリヒが、プローブの先端に透明なジェルを塗り、ポチの白銀の胸元へとそっと押し当てた。
その瞬間――診察室の壁に掛けられた巨大なエコーモニターに、映像が映し出された。
ボワァァァァァァッ……!
「お……おぉ……ッ!?」
ハインリヒ、そして周囲に控えていた特務医療スタッフ全員の口から、感嘆の息が漏れ出た。
モニターに映し出されていたのは、内臓の影などではなかった。
そこにあったのは――晴れ渡る秋の青空をそのまま閉じ込めたかのような、一点の曇りもない【透き通る蒼天の宝玉】であった。
かつて刻まれていたはずの神罰の亀裂は、完全に修復され、表面からは柔らかで温かな黄金の光の輪が幾重にも広がっている。
数日前、拓也が「トカゲのくせに頑張ったな」と、人差し指の腹で眉間をチョンチョンと小突いた、あの奇跡の瞬間。
少年の右眼が放った因果律の調律によって、ポチの魂の傷は、数万年の時を超えて完全に癒やされていたのだ。
「美しい……。なんと神々しい心臓なのだ……」
ハインリヒは膝をつき、モニターに向かって十字を切った。
「欠陥なし……損傷なし……熱効率百パーセント! 幼竜の姿でありながら、その内なる器は、世界の太陽を司る至高の聖竜そのものです……ッ!」
「キュピィィ……(我ノ……我ノ竜玉ガ、コンナニ美シク……)」
ポチはモニターを見上げ、溢れ出る涙を小さな翼でゴシゴシと拭った。
その頃――新宿・防衛本部。
『――観測成功ッ!! 全データ受信完了いたしましたッ!!』
オペレーターのクロエ・アーヴィングが、両手を天に突き上げて絶叫した。
作戦モニターには、光が丘動物病院から暗号転送された、三匹の完全生体データが眩いばかりの純白の光で表示されている。
『神獣三体の健康診断、全項目において【S+(神聖至高領域)】を記録!
ザイオン様の腹部経絡……完全無欠!
ルル様の因果伝達……測定器をオーバーフローさせる超純度!
ポチ様の火炎神核……古代神代の完全修復を確認!
拓也様の何気ない日常のブラッシング、爪切り、おやつのお裾分けこそが……数兆円の国家予算を投じても不可能な【全次元生体再構築(神の調律)】であったことが、完全に証明されましたッ!!』
「うおおおおおおおおっ!!」
神宮寺蒼太が、氷の長刀を振り上げて雄叫びを上げた。
その隣で、レオン・カーターが豪快に笑いながら机を叩き割らんばかりに連打する。
「ハッハァ! 見たかよ世界よ! これが俺たちの少年指揮官の日常の力だぜ!
カルテルの狂気の人体実験なんぞ、あのお方の頭撫で一本で全部ゴミ箱行きよ!」
「直ちに日本国政府、並びに世界保健機関(WHO)へ最優先通達!」
神宮寺が、全軍通信へ向けて吼えた。
「如月家の三神獣に対する【最高特級健康優良証明書】を発行せよ!
今後、この星のいかなる検疫所、いかなる軍事境界線であっても、この神獣たちの健康状態に異議を唱えることは、全人類に対する冒涜と見なすッ!!」
防衛本部全体が、まるで世界大戦に勝利したかのような割れんばかりの歓喜と拍手の渦に包まれていた。
午後五時半――如月家。
ガララッ。
「ただいまーっ!」
「キャンッ!」
「にゃーっ!」
「キュピィ!」
三月を先頭に、誇らしげな足取りで玄関の引き戸が開かれた。
リビングから、高校の制服を脱いでスウェットに着替えた拓也が、麦茶のコップを片手にひょっこりと顔を出した。
「お、三月。帰ってきたか。
どうだったよ、病院。あいつら、暴れたりしなかったか?」
「うんっ! 全然暴れなかったよー!」
三月が満面の笑顔で、病院から貰ってきた『健康診断結果通知書(特級・異常なし)』と、済票のアルミプレートを差し出した。
「お医者さんにもすっごい褒められたんだよ!
ザイオンちゃんもお腹ギュッギュッてされても気持ちよさそうにしてたし、ルルちゃんもポチちゃんも、ハナマル満点の健康体だって!」
「へぇ……。お前ら、注射もお腹ギュッギュッも、ちゃんと大人しく受けてきたのか。偉いじゃん」
拓也の口元が、ふにゃりと優しく緩んだ。
そして、床に膝をつくと、足元で嬉しそうに尻尾をブンブンと振るザイオンの頭を、大きな手でワシャワシャと力いっぱいに撫で回した。
さらに、ルルの顎の下をコチョコチョとくすぐり、肩に乗ってきたポチの頭を人差し指で優しくポンポンと叩いてやる。
「痛いの我慢して偉かったな。暴れなかったから、保健所送りはナシだ。
ほら、病院の帰りに三月が買ってきたこれ、食えよ」
拓也が手渡したのは、動物病院の受付で貰った、犬猫用の『特選・ミルク風味たまごボーロ』であった。
小皿にコロコロと数粒ずつ分けてやると、三匹は目を輝かせて駆け寄った。
サクッ、サクッ……。
「キャンッ……!(あぁ……甘い……! これぞ、現世の試練を乗り越えし者に与えられる、至高の褒美……!)」
「にゃふぅ……お口の中でとろけて、すっごく美味しいのにゃ……!」
「キュピィィ……(我ラハ、完全ニ如月家ノ一員トシテ公認サレタノデスッ……!)」
サクサクとボーロを頬張りながら、神獣たちは拓也の足元に体を寄せ合い、至福の表情で喉を鳴らした。
狂犬病の恐怖も、太い注射のトラウマも、すべては温かな家族の絆の中で、優しい思い出へと溶けていったのだ。
「三月、今日の晩ごはんは何ー?」
「今日はね、みんなが頑張ったから、お肉とお野菜たっぷりの豚汁と炊き込みご飯だよーっ!」
台所から漂う、香ばしい出汁とごぼうの香り。
夕暮れの柔らかな光に包まれた如月家には、どこまでも温かで、どこまでも幸福な笑い声が響き渡っていたのであった。
(第365話へ続く)
読んでいただき、本当にありがとうございます!
少しでも「面白い」「続きが気になる」と思っていただけたら、
下にある【☆☆☆☆☆】の評価やブックマークをいただけると、執筆の大きな励みになります!
次回更新も頑張りますので、どうぞよろしくお願いします。




