第363話:光が丘動物病院の厳戒態勢と、迫り来る黒い注射針
午後四時二十分――。
秋の夕暮れの柔らかな日差しが差し込む、東京都練馬区の閑静な住宅街。
その一角に建つ、地元住民に親しまれてきたレンガ造りの動物病院――『光が丘セントラル動物病院』の前に、一組の異様な一団が到着していた。
「はーい、みんな到着したよー! ここが区の指定病院だって!」
百円ショップで買ってきた頑丈な赤いリードを手に、如月三月が明るい声を弾ませた。
そのリードの先には、首元に赤ドット柄のバンダナを巻き、四本の足を小刻みにガクガクと震わせている体積三倍の巨大綿飴銀狼・ザイオンがいた。
その頭の上では、毛糸のミニマフラーを両手でギュッと握りしめ、顔面を蒼白にした手のひらサイズのミニドラゴン・ポチ。
そして三月の足元には、黄色いダッフルコートを着て、がま口財布を抱きしめながら「にゃぅ……」と怯えた声を漏らすケットシーの少女・ルルが身を寄せていた。
(……ココガ、現世ノ処刑場……動物病院……ッ!)
ポチが、喉をカラカラに鳴らしながら思念波を飛ばす。
(ザイオン先輩、感アリマスカ!? コノ建物ノ内部カラ、尋常ナラザル超高密度ノ結界ト、無数ノ殺気……イエ、異様ナ緊張感ガ漂ッテイマスッ!!)
(あぁ……分かっている、ポチ。だが、退くことは許されん)
ザイオンは、喉の奥から乾いた唸り声を漏らした。
(今朝、拓也様はハッキリと仰せられたのだ。『太い注射を打たれ、血を抜かれてこい。暴れたら即・保健所行きだ』と……!
もし我らがここで逃げ出せば、如月家の家族としての資格を永遠に剥奪される……!
耐えるのだ……! どんな激痛が待ち受けていようと、我らの生存権を賭けて耐え抜くのだッ!!)
「ふふっ、ザイオンちゃん、お外寒かったのかな? 体がブルブル震えてるね! 中は暖かいから早く入ろっか!」
三月は無邪気な笑顔でザイオンの頭をポンポンと撫でると、動物病院の自動ドアを押し開けた。
ウィーーン。
自動ドアが開いた瞬間、三月たちの目に飛び込んできたのは――およそ下町の動物病院とは思えない、あまりにも異様な光景であった。
待合室には、一般の犬や猫の患者が一匹もいない。
それどころか、ピカピカに磨き上げられた大理石の床の上、受付カウンターの前に、白衣を着た男女十数名が、軍隊の儀仗兵のように完璧な直立不動の姿勢で整列していたのだ。
白衣の襟元には、一般の獣医師免許証ではなく、日本探索者協会の最高機密バッジ――そして防刃・対魔力衝撃仕様の漆黒のインナースーツが覗いている。
「「「「い、いらっしゃいませッ!! 如月三月様、並びに尊き神獣様方ッッッ!!!!」」」」
雷鳴のような斉唱と共に、全員が一分の隙もない九十度の深々としたお辞儀を繰り出した。
額から滝のような脂汗を流し、膝を微かに震わせながら。
「えっ……? あ、こんにちはー!」
三月はキョトンとしながらも、ぺこりと頭を下げた。
「あの、練馬区から狂犬病の予防接種と、健康診断のハガキが届いたんですけど……今日って空いてるんですか?」
「は、はいッ!! 空いておりますッ! 完全に貸し切りでございますッ!!」
受付の女性(変装した協会特務医療班のチーフ)が、上擦った声で答えた。
それもそのはずであった。
本日予約が入っていた一般のチワワや柴犬、ペルシャ猫などの患者数十頭は、神宮寺の超法規的指示により、全員が近隣の五つ星ホテルのプレジデンシャル・スイートルームへと極秘移送され、最高級キャビアと和牛のローストビーフを振る舞われながらの「VIP無料健康診断」へと振り替えられていたのだ。
この病院の半径五百メートルは、すでに日本探索者協会と八咫烏によって、完全に外部から隔離された【特級神聖医療要塞】と化していた。
「それでは、第一診察室へどうぞッ! 院長がお待ちしておりますッ!!」
「はーい! ほらザイオンちゃん、行こー!」
三月に引かれ、ザイオンは四肢の爪を床に立てないよう細心の注意を払いながら、診察室へと足を踏み入れた。
第一診察室の中央には、ステンレス製の頑丈な診察台が据え付けられていた。
そこに立っていたのは、白髪交じりの温厚そうな老獣医師――の皮を被った、世界最高峰の聖魔導治癒士・Dr.ハインリヒであった。
かつてバチカンの教皇庁特務病院で数々の聖遺物や神話生物の蘇生を手がけてきた、医療界の生ける伝説である。
ハインリヒは、ザイオンの体積三倍の巨大な白銀の毛並み、そしてルルとポチの姿を一瞥した瞬間、その老眼をカッと見開いた。
(おぉ……何という神聖なる輝き……!
毛先の一本一本に至るまで、至高の調律者たる如月拓也様の御手によって完璧に因果律が安定化されている……!
これほど清浄な肉体に、現世の器具を触れさせることすら恐れ多い……ッ!)
ハインリヒは、震える手で自らの白衣のポケットから、純白の光を放つ特注の器具を取り出した。
日本探索者協会が今朝、数千万円の国家予算を投じて神代のオリハルコンから削り出させた、特注の【神聖聴診器】である。
「さぁ、ザイオンちゃん……台の上に乗れますかな?」
ハインリヒが、神を拝むような敬虔な声で促す。
「キャン……(乗るだけでいいのだな……? 暴れてはならん、絶対に暴れてはならん……!)」
ザイオンは、拓也の「暴れたら即保健所」という言葉を脳裏に刻み込み、奥歯をガチガチと噛み締めながら、前足を診察台の上に乗せた。
そして、昨日拓也から教わった「至高の脱力」を発動させ、自らの数百キロに及ぶ巨躯の重量を、羽毛のように軽く分散させて台の上に伏せをしたのだ。
「よしよし、いい子だねぇ……」
ハインリヒは、恭しくオリハルコンの聴診器をザイオンの胸元へと当てた。
ドクン……ドクン……ドクン……。
聴診器を通じてハインリヒの鼓膜へと響いてきたのは、ただの心音ではなかった。
それはまるで、全銀河の星々が完璧なリズムで運行するような、壮大で澄み切った【宇宙の呼吸音】であった。
「す、素晴らしい……! なんという完全無欠なる生命のリズム……!」
ハインリヒの瞳から、大粒の涙がボロボロと零れ落ちた。
「雑音ゼロ……! 不整脈ゼロ……! 寄生虫や魔力毒素の反応など、分子一つたりとも存在しません! まさに、天地開闢の初日に生まれた純白の神獣そのものです……ッ!」
「えへへ、よかったー! 毎日拓也と一緒にご飯食べて、いっぱい寝てるもんね!」
三月が嬉しそうに手を叩く。
「さて……それでは、狂犬病の予防接種、並びに採血へと移らせていただきます」
ハインリヒが、調剤室の方へと声をかけた。
「助手、準備した特注のミスリル針アンプルを持ってきなさい」
「――はい、ただいま」
調剤室のドアが開き、一台の医療用ワゴンを押しながら、一人の若い男性獣医補佐が静かに診察室へと入ってきた。
医療用キャップを目深に被り、大きな白いマスクで顔の下半分を完全に覆ったその男。
しかし――その白衣の袖口から伸びる指先は、爬虫類のように青白く、異常なほど冷たかった。
(……ククク、間抜けめが……!)
マスクの下で、ドクター・ヴァルターは狂喜の笑みを押し殺していた。
本物の助手は、先ほど調剤室の裏口で音もなく気絶させ、ロッカーの中に放り込んである。
監視カメラの映像も、事前に仕掛けたハッキングプログラムによってループ映像へと切り替え済みだ。
ヴァルターの手元のステンレストレイの上には、一本の大型注射器が乗せられていた。
そのシリンジの中に満たされているのは、透き通るようなワクチンなどではない。
ドス黒い紫色の魔力を帯び、まるで生き物のように不気味に蠢く、超高濃度の【神経麻痺ナノ毒素:オメガ・ベノム】であった。
(世界最高峰の医師が集まっていようと、無駄なことだ。
このオメガ・ベノムは、神話級の巨竜の魔力回路すら一秒で焼き切り、脳死状態へと追い込む我が最高傑作……!
この注射針をフェンリルの頸動脈に突き刺せば、神獣の強大な魔力は暴走することなく完全に凍結される!
後は、地下の特殊搬送カプセルへ放り込み、我が研究所へ凱旋するだけだ……!)
ヴァルターは、足音を消しながら診察台の横へと歩み寄った。
診察台の上では、巨大な銀狼が大人しく目を瞑り、首元を無防備に晒している。
その横には、無邪気に笑う怪力娘と、怯えて固まる失敗作のキャット(ルル)。
(終わりだ、フェンリルよ……! 貴様の平穏なペットごっこは、今ここで幕を閉じるのだッ!!)
ヴァルターは、トレイから大型注射器を手に取ると、親指でピストンのロックを解除した。
そして、ザイオンの太い頸動脈めがけて、渾身の力を込めて太いチタン針を突き刺そうと振り下ろした――!
その、まさに刹那――。
ピクッ。
「あ……」
三月が、ふとヴァルターの手元に目を留めた。
「助手さん、ダメですよ! ほら見て、その注射器……!」
三月は、まるで小さな子供のいたずらを注意するかのような、屈託のない笑顔でスッと右手を伸ばした。
そして、振り下ろされようとしていた太いチタン製注射針の先端を――親指と人差し指の腹で、【チョン】と優しくつまみ上げたのだ。
「針の先っぽ、ちょっと曲がっちゃってますよ? そんなの刺したら、ザイオンちゃんが痛がっちゃうじゃないですか!」
ギュムッ……。
三月にとっては、本当にただの「曲がった針を指先で直してあげようとした」だけの、極微小な力加減であった。
しかし――彼女の指先に宿る『魂喰い』の余剰出力は、現代物理学のあらゆる硬度基準を嘲笑う、絶対の空間圧搾そのものであった。
メキメキメキメキッ……パキィィィィンッッッ!!!!
「――ぶ、へっ!?」
ヴァルターの口から、間の抜けた悲鳴が漏れた。
戦車の装甲をも貫くはずの特注超重力チタン針が、三月の指先でまるで茹でたパスタのようにグニャリと知恵の輪状にねじ曲げられたのだ。
さらに、針の内部が完全に押し潰されたことにより、シリンジ内の圧力が逃げ場を失い、瞬時に数千気圧まで跳ね上がった。
ボゴォォォォォォンッッッ!!!!
「ぎゃあああああああああっっっ!?」
シリンジの強化ガラスが内側から大爆発を起こし、中に満たされていた高濃度神経毒素が、ヴァルターの顔面めがけて全量逆流噴射された。
目、鼻、口からドス黒い毒素を浴びたヴァルターは、自ら開発した猛毒の激痛に白目を剥き、全身をエビのように痙攣させながら床へと転がり落ちた。
「あ、あれれ……!? ご、ごめんなさい! 注射器、割れちゃいました……!」
三月が両手を口元に当ててオロオロと慌てる。
その時であった。
スッ……。
診察室の床の影が、生き物のようにヌルリと立ち上がった。
影の中から現れたのは、漆黒の忍装束を纏った八咫烏の頭領・不知火凛であった。
凛の冷酷な瞳が、床で泡を吹いて悶絶するヴァルターを見下ろす。
手には、音もなく抜かれた漆黒の苦無。
「……身の程知らずの毒虫め。あのお方の尊き眷属に、己の汚らわしい劇薬を向けた報いを受けよ」
凛が印を結ぶと、床の影が大きな顎のように開き、気絶したヴァルターの身体を、衣服や割れた注射器の破片ごとジュルリと飲み込んでいった。
わずか一秒。
診察室の床には、薬品の匂い一筋すら残されず、世界を揺るがす狂気の主席研究員は、完全なる無音の中で亜空間の拷問地下牢へと消去されたのである。
「あ、あれ……? あの助手さん、どこに行っちゃったの……?」
三月が不思議そうに首をかしげる。
ハインリヒは、背中に冷たい汗を滝のように流しながら、即座にプロフェッショナルな笑顔を張り直した。
「あ、あぁ……! あの助手は、急な腹痛により退席いたしました! お気になさらず!
さぁ、本番のワクチンはこちらにございます!」
ハインリヒが金色のトレイから取り出したのは、神代のミスリル合金で鍛造された、髪の毛よりも細い極細の特製注射器であった。
中には、最高純度の聖水と、神聖アンプルが黄金色に輝いている。
「チクッといたしませんよ……ほら、終わりました」
シュッ……。
ハインリヒがザイオンの首元へ針を当てた瞬間、痛みの代わりに、ポカポカとした春の陽だまりのような温かな光の粒子がザイオンの体内へと浸透していった。
「…………え?」
ザイオンが、目をパチクリとさせた。
痛くない。
針が刺さった感触すら、全くない。
それどころか、体内を巡る聖水の清純なエネルギーが、残っていたわずかな疲労感すら綺麗に洗い流してくれたのだ。
「キャンッ……!?(お、終わったのか……!? 処刑台の拷問ではなかったのか……!?)」
「わぁーっ! ザイオンちゃん、全然泣かなかったね! えらーいっ!」
三月がザイオンの首元を抱きしめ、満面の笑顔でワシャワシャと撫で回した。
「にゃはは! ザイオン、カッコいいのにゃ!」
ルルが尻尾を振って飛びつき、ポチも「(ヤリマシタ! 我ラハ注射ヲ克服シタノデス!)」と翼を広げて歓喜した。
「はい、これにて狂犬病の予防接種は完了です! 済票のプレートをお渡ししておきますね」
ハインリヒは、純白の鑑札プレートを恭しく三月へと手渡した。
「ありがとうございました! 先生、注射お上手ですねー!」
三月がお礼を言って頭を下げた。
だが――ハインリヒは、優しく微笑みながら、カルテの次のページをめくった。
「さて……予防接種は終わりましたが、ハガキに記載の通り、本日のメインはここからです。
次は……【秋期総合健康診断】。
ザイオンちゃんの腹部精密触診、ルルちゃんの魔力伝達器官測定、そしてポチちゃんの体内火炎核のエコー検査へと移らせていただきます」
ヒュオオオオオオオッ……!!
その瞬間、神獣たちの全身が、再びカチコチに凍りついた。
(ま、まだ終わっていなかったのかァァァッ……!?)
(お腹ヲ触ラレル……魔力器官ヲ測定サレル……エコー検査……ッ!?)
拓也の「お腹ギュッギュッて押してもらってこい」という言葉が、再び悪夢のように蘇る。
注射の危機を乗り越えた神獣たちを待ち受ける、さらなる「健康診断パニック」の幕が、静かに上がろうとしていたのであった。
(第364話へ続く)
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