第360話:休日の爪切りと、神聖調律の午後
サワサワサワ……。
庭木の剪定を終え、綺麗に掃き清められた如月家の庭先に、穏やかな秋の木漏れ日が降り注いでいた。
特製ソース焼きそばを綺麗に平らげた如月拓也は、縁側に腰掛け、食後の麦茶をズズッとすすって一息ついていた。
開け放たれた窓からは、チベット高地とアルプス山脈の霊気(神宮寺たちが路地裏から極秘送風したもの)を含んだ澄み切った秋風が吹き抜け、家中の空気を清々しく満たしている。
「ふぅー……食った食った。腹いっぱいになると、なんか落ち着くなぁ」
拓也が縁側で足をブラブラさせていると、その足元に、体積三倍の巨大綿飴銀狼ザイオンがスッと体を滑り込ませてきた。
アビスゲート柔軟剤の甘いフローラルの香りを漂わせながら、拓也の足首を温めるように伏せをする。
その背中のフカフカな毛並みの上では、ケットシーの少女・ルルがお腹を擦りながら満足そうに丸まり、頭の上ではミニドラゴンのポチが小さな翼をパタパタと休ませていた。
「にゃふぅ……焼きそばのウインナー、すっごく美味しかったのにゃ……」
「キュピィ……(神ガ下サレタ紅生姜ノアクセント、最高ノ神饌デシタ……)」
平和そのものの、幸福な休日の昼下がり。
しかし、そんな神獣たちの至福の時間は、拓也のふとした視線によって、突如として破られることとなった。
「……ん? なぁ、ザイオン」
拓也が、ザイオンの大きな前足を見つめながら、眉をひそめた。
「お前さ……よく見たら、爪が結構伸びてんな。
先端がちょっと尖ってて危ないし、歩くたびに廊下の板がカチャカチャ鳴るだろ。
畳やソファをバリバリ引っ掻いて傷つけられたら困るしな……」
拓也は縁側から立ち上がると、リビングのテレビ台の引き出しをガラガラと開けた。
そして、爪切りとヤスリがセットになった、百円ショップのプラスチックケースを取り出して戻ってきたのだ。
「よし。今のうちに爪切ってやるから、前足出せよ」
ヒュオオオオオオオッ……!!
その瞬間、ザイオンの人工頭脳の全回路に、けたたましい非常警報が鳴り響いた。
(つ……『爪切り』……だとォォォッ!?)
ザイオンの全身の銀毛が、一瞬でバチバチと逆立った。
その背後で、ルルの猫耳がビクッと跳ね上がり、ポチの全身の鱗が青ざめて硬直する。
(ヒ、ヒィッ……! ザ、ザイオン先輩……! コレハ……かつて研究所で行ワレテイタ【兵器武装ノ強制解体】デハナイデスカッ!?)
ポチが、恐怖で震え上がる思念波を飛ばす。
生体兵器カルテル『アンダー・キメラ研究所』で造られた彼らにとって、『爪の切除』とは極めて忌まわしいトラウマであった。
反抗的な個体に対し、魔力伝達器官である爪を根元から万力でへし折り、激痛を与えて精神を屈服させる拷問の記憶。
ザイオンの脳裏に、冷酷な研究員たちの嘲笑がフラッシュバックする。
(違う……! 拓也様はそんな冷酷な実験者などではない……!
だが、拓也様は仰せられた……『畳やソファを傷つけるな』と!
もしこの爪が、如月家の生活環境を脅かす凶器であると判定されれば……我が牙も爪も、すべて根本から消滅させられかねん……ッ!!)
「ほら、ザイオン。痛くしねぇから、力抜けって」
拓也は、ザイオンの前にあぐらをかくと、太い前足をそっと持ち上げた。
ザイオンは、恐怖で四肢をガクガクと震わせながらも、拓也に教わった「至高の脱力」を必死で維持し、肉球を少年の掌の上へと預けた。
(覚悟はできた……! 我が爪のすべてを奪われようと、この御方に命を捧げると決めたのだ……ッ!)
ザイオンがギュッと目を瞑った、その瞬間――。
パチンッ。
軽快な、爪切りの小さな音が庭先に響いた。
(――え……?)
痛みが、ない。
それどころか――爪先に触れた金属の刃から、温かな光の奔流がザイオンの四肢の骨格へと一気に逆流してきた。
ザイオンの爪は、ただの角質ではない。
古代神獣フェンリルの因子を無理やり結合させたことで、爪の内部には常に「制御不能な魔力毒素」と「ひび割れた因果律の残滓」が、黒ずんだ結晶となって詰まっていたのだ。
それが日夜、ザイオンの神経を苛み、微細な鈍痛を与え続けていた。
しかし今。
拓也が百均の爪切りをパチン、パチンと鳴らすたびに――。
少年の右眼が無意識に放つ『深層言語・限定解析』の干渉波が、爪の内部に溜まっていた数千年来の魔力毒素だけをピンポイントで切り離し、黒い煤となって空気中へサラサラと霧散させていく。
シャッ、シャッ、シャッ……。
さらに拓也は、爪切りの裏についている金属ヤスリで、尖った角を丁寧に丸く整えていった。
「よし、これで角が取れて丸くなったな。引っ掻いても痛くないぞ」
拓也が満足そうに息を吹きかける。
整えられたザイオンの爪は、以前の禍々しい黒銀色から一変し、まるで最高級の真珠のように滑らかで、透き通るような白銀の神聖な輝きを放っていた。
(か、軽い……!? 痛みが……数年間俺の四肢を縛り続けていた鉛のような重圧が、完全に消え去っている……!?)
ザイオンの瞳から、大粒の涙がボロボロと零れ落ちた。
奪われたのではない。
拓也は、兵器としての呪われた毒爪を、主を守るための「神聖なる純白の爪」へと、極上の優しさをもって調律してくれたのだ。
「お、次はルルだな。手ぇ出してみな」
「にゃはは! ルルも爪パッチンしてもらうのにゃ!」
ルルは怖がる様子もなく、小さな両手を拓也の膝の上に乗せた。
拓也は、ルルの小さな指の腹を優しく押して、ちょこんと出てきた猫爪を、パチン、パチンと手際よく切っていく。
ルルの指先からも、プロトタイプ特有の魔力漏洩の歪みが綺麗に解消され、ピンク色の健康的な肉球がさらにぷにぷにと柔らかさを増していった。
「はい、最後はポチな。お前、翼の先っちょにも爪があるんだな。危ないから切っとくぞ」
「キュ、キュピィィッ……!(神ノ御手ニヨル……直接調律……ッ!)」
ポチは直立不動のまま、拓也に翼の先端をパチンと整えてもらい、至福のあまり頭からプシューと煙を吹いて昇天しかけていた。
「よし、全員完了! これで畳もカーテンも安心だな」
拓也は爪切りをケースにしまい、満足そうに手を叩いた。
しかし――その頃、新宿の防衛本部。
『――観測班より緊急暗号電ッ!!』
オペレーターのクロエ・アーヴィングが、ヘッドセットを両手で押さえ、興奮のあまり頬を紅潮させて叫んだ。
大スクリーンには、如月邸を中心とした高次元エーテルスキャン画像が映し出されている。
『如月邸内において……拓也様による【全次元神聖爪調律】を確認いたしました!
神使ザイオン様、ルル様、ポチ様の爪先に蓄積されていた「旧世界の因果毒素」が完全消滅!
調律された爪先から放たれる微細な共振波により、日本列島の上空を覆っていた不法魔力回線、並びに裏社会の通信衛星網八十基が、一瞬で電子切断(無力化)されましたッ!!』
「な、何だとォッ!?」
神宮寺蒼太が、氷の長刀の柄を握りしめて立ち上がった。
その隣で、レオン・カーターが口を開けて唸り声を上げる。
「爪を切っただけで、裏社会の暗号通信網が丸ごとスライスされただとォ!? おい神宮寺、指揮官様はいったい何をなさったんだ!?」
「お分かりにならんのか、レオン殿!」
神宮寺の瞳に、狂信的な敬愛の光が宿った。
「指揮官様は仰せられたのだ!
『畳やソファを傷つけるな』――すなわち、『現世の秩序ある器(社会インフラ)を傷つけることなく、敵の悪意のみを正確に刈り取る刃を持て』と!
あのお方は、神使たちの武装を単に強化されたのではない。
【無駄な破壊を排し、悪意のみを分子レベルで剪断する絶対の慈悲の爪】をお授けになられたのだッ!!」
「オーウ……! なんて深遠な調律だ……!」
レオンが額を叩き、感嘆の息を漏らす。
「不知火凛殿へ緊急指令!」
神宮寺が無線機へ向けて叫んだ。
「世界中に潜む生体兵器カルテルの残党どもが、通信遮断により恐慌状態に陥っているはずだ!
混乱に乗じ、奴らの残存研究施設、並びにクローン製造プラントを即刻【全箇所特定・完全消去】しろ!
指揮官様の磨き上げられた爪の余波により、今や奴らの防御結界は紙屑同然だ! 一匹たりとも逃すなッ!!」
『了解。八咫烏全軍、出撃する』
凛の冷徹な声と共に、世界中の闇の拠点を一掃する大作戦が、少年の爪切りの余波によって電光石火で完遂されようとしていた。
そんな世界規模の電脳戦と殲滅戦が展開されていることなど、如月家には届かない。
「わぁー、みんな爪がすっごく綺麗になったねー!」
三月が、麦茶のおかわりをテーブルに置きながら嬉しそうに目を細めた。
「爪が綺麗だと、清潔で気持ちいいよね! ザイオンちゃん、足踏みしてみて!」
「キャンッ!」
ザイオンが、縁側の板張りの上をトコトコと歩いてみる。
以前のようなカチャカチャとした爪の引っ掛かりは一切なく、まるで最高級のスエード生地が触れるかのように、無音で滑らかに足裏が床へと吸い付いた。
体内の魔力循環も劇的にスムーズになり、四肢のバネがこれまでの数倍に研ぎ澄まされている。
「くぅ〜ん……(あぁ……身体が羽のように軽い……!)」
ザイオンは感動のあまり、拓也の膝の上に大きな頭をすり寄せ、喉をゴロゴロと鳴らした。
「にゃはは! ルルもハイタッチできるのにゃ!」
ルルが、ピンク色の柔らかな肉球を拓也の掌へと「ぽふっ」と合わせる。
爪が完璧に丸められているため、どれだけ強くタッチしても相手を傷つける心配は一切ない。
「お、痛くないな。偉いぞ、ルル」
拓也がルルの頭をワシャワシャと撫でると、ルルは「えへへー!」と満面の笑顔を咲かせた。
「ふぁ〜あ……。なんか、庭掃除して、爪切ってやったら……急にどっと眠くなってきたわ……」
拓也は、大きく口を開けて盛大にあくびをした。
秋の柔らかな木漏れ日、満腹の胃袋、そして足元には極上のフカフカ毛皮。
高校生の休日に、抗いようのない「午後の睡魔」が容赦なく襲いかかってくる。
「……三月……夕飯まで……ちょっと縁側で昼寝するわ……」
拓也は、縁側の畳の上にゴロンと横になった。
すると、ザイオンが音もなく寄り添い、自らの体積三倍のフカフカな背中を、少年の頭の下へとそっと差し入れた。
最高級の羽毛枕すら足元にも及ばない、極上の生体クッションである。
「……ん……。枕……めちゃくちゃ気持ちいい……。すぅ……すぅ……」
拓也は、ザイオンの極上の毛並みに顔をうずめ、わずか数秒で深い眠りの底へと沈んでいった。
その胸元にはルルが丸まり、枕の横にはポチが寄り添って、穏やかな寝息を立て始める。
「ふふっ、おやすみ、拓也」
三月は優しく微笑むと、部屋の奥から大きなタオルケットを持ってきて、拓也と神獣たちの上へとそっと掛けてあげた。
世界を救った少年と、最強の怪力姉、そして愛を知り、爪の先まで温かな調律を受けた人造の神獣たち。
彼らが過ごすどこまでも平和で穏やかな休日は、秋の静かな風と共に、幸福に満ちて更けていくのであった。
(第361話へ続く)
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