第361話:第一幕完結・夕暮れのシチューと、神獣たちの確固たる居場所
サワサワサワ……。
秋の夕暮れの柔らかな茜色の光が、綺麗に剪定された庭先を抜け、如月家の縁側を穏やかに包み込んでいた。
庭木の椿や柿の木はすっきりと風通しが良くなり、開け放たれた窓からは、澄み切った秋風が心地よい冷涼感を運んでくる。
その縁側の畳の上では、大きめのタオルケットを掛けられた如月拓也が、至福の表情でぐっすりと眠り続けていた。
「……すぅ……すぅ……」
少年の頭を優しく受け止めているのは、体積三倍の巨大綿飴銀狼ザイオンの背中である。
拓也によって爪の先まで極限の神聖調律を施されたザイオンの四肢は、重力波と魔力循環が完璧に調和し、一ミリの軋みも振動も発しない。
アビスゲート柔軟剤の甘いフローラルの香りをふわりと立ち上らせながら、主の頭部の形状に合わせて背中の毛並みをミリ単位で沈み込ませ、極上の安眠を支え続けていた。
拓也の胸元には、ケットシーの少女・ルルが丸まり、ぷにぷにの肉球を少年のスウェットの袖に添えて、喉をゴロゴロと鳴らしている。
そして拓也の耳元では、白銀のミニドラゴン・ポチが、三月お手製のミニマフラーを巻き直しながら、鼻先から一定温度の極小温風をそっと送り出し、夕暮れの冷え込みから少年の体温を守っていた。
(……平穏ダ……。コレホドマデニ澄ミ渡ッタ平穏ガ、現世ニ存在シテ良イモノダロウカ……)
ポチは、薄く目を開け、茜色に染まる空を見上げた。
数万年前、神代の天空を支配しながらも常に孤独と戦禍に塗れていた古竜。
それが今や、温かな木造住宅の縁側で、大好きな家族の耳元を温める「生体暖房」として、命の芯から満ち足りた安らぎを噛み締めていた。
(キャン……ポチ、ルル。我らの戦いは、ひとまずの勝利を収めたのだ)
ザイオンが、極小の思念波を二匹へと送る。
その瞳には、深い感慨と誇らしさが宿っていた。
(目玉焼きのめんつゆ調達に始まり、役所での特級認可証の獲得、深夜の害虫駆除、特売卵の無傷輸送、そして本日の庭木剪定……。
我らは、生体兵器としての呪われた過去を乗り越え、この如月家において『なくてはならない生活基盤』としての地位を確立したのだ)
(にゃはは! ルル、もう捨てられる心配はないのにゃ? ずっと拓也と三月お姉ちゃんと一緒にいられるのにゃ?)
ルルが、夢見心地のまま尻尾をパタパタと揺らす。
(あぁ。拓也様は先ほど、我らの爪を切り、優しく頭を撫でてくださった。
あれこそは……我らを真の家族として受け入れてくださった、至高の契約の証なのだ)
兵器として生まれ、ただ破壊と廃棄の恐怖に怯えていた人工生命体たち。
彼らは今、この下町の小さな一軒家で、誰よりも温かな「確固たる居場所」を完全に手に入れたのであった。
コトコトコト……グツグツグツ……。
その時、台所の方から、たまらなく甘く香ばしい湯気がふわりとリビングへと流れ込んできた。
牛乳とバター、そしてじっくり煮込まれた鶏肉と野菜の濃厚な香り。
エプロン姿の三月が、大きな両手鍋の蓋を開け、木べらで丁寧にかき混ぜていた。
「ん〜っ! すっごくいい香り!
じゃがいももホクホクだし、にんじんも甘くなってる!
お掃除をいっぱい頑張ってくれたから、今夜は拓也の大好物の具だくさんホワイトシチューだよーっ!」
シチュー鍋の脇には、先ほどスーパーで買ってきたばかりの、表面がパリッと香ばしい焼き立てのフランスパンが籠に盛られていた。
三月は、コトコトと煮える鍋を見つめながら、嬉しそうに目を細めた。
「拓也、起きたらびっくりするかな?
ザイオンちゃんたちも、シチューの鶏肉なら塩分控えめに煮たやつ、いっぱい食べられるもんね!」
家族の喜ぶ顔を思い浮かべながら料理をする、至福の時間。
その温かな台所の風景こそが、如月家の平和そのものであった。
その頃――。
東京・新宿の日本探索者協会本部、最上階の作戦統括室。
巨大なメインスクリーンには、如月邸を中心とした日本列島全域、さらには極東および全世界の【エーテル安定度マップ】が映し出されていた。
その画面全体が、かつて見たこともないほど澄み切った、穏やかなエメラルドグリーンに染まり上がっている。
「……信じられん」
日本探索者協会本部長・神宮寺蒼太が、氷の長刀を床に立て、感極まった面持ちでスクリーンを仰ぎ見ていた。
その隣では、アメリカ最強のSランク探索者「雷帝」レオン・カーターが、腕を組みながら呆然と呟く。
「おい神宮寺……これ、本当に現実の数値かよ……?
世界中の犯罪発生率が過去最低を更新、ダンジョンの活性化指数は完全安定、各国の魔力暴走インシデントはゼロ……。
まるで、地球全体が一つの巨大な平穏の結界に包まれちまったみたいじゃねぇか」
「然り」
神宮寺の瞳から、静かに熱い涙が頬を伝った。
「すべては……如月拓也様がこの数日間で執り行われた、一連の【日常的調律神事】の結実だ」
オペレーターのクロエ・アーヴィングが、手元の記録コンソールを操作しながら、敬虔な声で読み上げる。
『総括報告書を作成いたしました。
第一段階:神饌(目玉焼きのめんつゆ)の確保による、主の機嫌の安定化。
第二段階:使役眷属の公的認可、並びに国際密売組織ウロボロスの無音殲滅。
第三段階:燻煙神薬の託宣による、全世界の裏社会の自主的武装解除。
第四段階:神使たちの爪先調律による、不法魔導衛星網の電子切断。
第五段階:庭木剪定を通じた、全地球霊脈の黄金比再編……!』
クロエは胸に手を当て、狂信に満ちた笑みを浮かべた。
「拓也様は、一歩もご自宅から出られることなく……ただ高校生活とお昼寝、そしてご家族との食卓を楽しまれるだけで、この星を蝕んでいた数千年の歪みを、すべて綺麗に【更地】へと清掃されたのです……!」
「なんという御方だ……」
レオンが深いため息をつき、頭を抱えた。
「世界を救うために血眼になってダンジョンを駆け回っていた俺たちの努力が、全部ガキの昼飯の余談で片付けられちまったぜ。
だが……最高だ。あのお方がこの地上で穏やかに暮らしておられる限り、この世界は絶対に滅びねぇ」
「うむ」
神宮寺が、全軍通信回線に向かって厳かに告げた。
「八咫烏、並びに極星の全隊員へ通達。
【如月邸平穏維持作戦・第一幕】は、これをもって完全勝利にて完了とする!
だが、決して気を緩めるな。
来週以降、あのお方がどのような日常を望まれるか、我らには計り知れん。
指揮官様の次なる神託に備え、全監視網は最高度の待機態勢を維持せよッ!!」
「「「「了解ッッッ!!!!」」」」
世界最強の英雄たちが、一人の少年の何気ない日々に敬意を捧げ、次なる日常の護衛へと誓いを新たにしたのであった。
そして――夕闇が静かに迫る如月家。
「……ん……んぅ……」
縁側で眠っていた拓也が、ふわりと瞼を押し上げた。
視界に飛び込んできたのは、薄暗くなった庭先と、頭の下にある極上のフカフカな毛皮の感触。
「……ふぁ〜あ……! よく寝た……!」
拓也は、ザイオンの背中の上で両手を大きく伸ばし、盛大にあくびをした。
身体の芯まで疲れがすっかり取れ、驚くほど頭が冴え渡っている。
「キャンッ!(我が主、お目覚めになられましたか!)」
「にゃはは! 拓也、おはようなのにゃ!」
「キュピィ!(良イ目覚メデス、指揮官様!)」
三匹が一斉に顔を寄せ、嬉しそうに尻尾や翼を振る。
拓也は、寝ぼけ眼をこすりながら、ザイオンの首元をワシャワシャと撫でた。
「お前、マジで最高の枕だな……。高級ホテルでもこんなフカフカな枕ねぇぞ。
ルルもポチも、ずっとそばにいてくれたのか。ありがとな」
「くぅ〜ん……」
「にゃふぅ……♡」
拓也の優しい手の温もりに、神獣たちはとろけそうな顔で喉を鳴らす。
「あ、拓也! 起きたー?」
リビングの引き戸が開き、三月が湯気の立ち上るお玉を持って顔を出した。
「ちょうどシチューが完成したところだよ! 拓也の好きな鶏肉とじゃがいも、すっごく柔らかく煮込んであるからね!」
「うわ、シチューか! めちゃくちゃ腹減ってたんだよな!」
拓也が跳ね起きるように立ち上がり、縁側のスリッパを履いた。
「よし、お前ら! 晩メシにするぞ! ちゃんと手洗って座れよ!」
「キャンッ!」
「にゃーっ!」
「キュピィ!」
トコトコと廊下を駆けていく三匹の足音。
温かなオレンジ色の電灯が灯るリビングには、アツアツのホワイトシチューと、香ばしいフランスパンが並べられていた。
「いただきまーす!」
スプーンを握りしめ、幸せそうにシチューを口に運ぶ少年の笑顔。
その足元で、自分たちの取り分けられたお肉を嬉しそうに頬張る神獣たち。
そして、それを見守りながら満面の笑顔を咲かせる姉。
世界を揺るがす神獣たちと、無自覚なる少年指揮官。
彼らが紡ぎ出した最初の一週間――如月家のペットサバイバルは、完全なる幸福と絆を手に入れ、ここに美しく第一幕の幕を下ろすのであった。
(第五章・第一幕 完)
(第362話・第二幕へ続く)
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