第三十六話:偽りの檻、研ぎ澄まされる刃
ヴォルグの影が通路から消え去るまで、三月は壁に張り付いたまま動けなかった。
心臓の鼓動が、狭い通路に響くほど大きい。
(……危なかった。ヴォルグの気配察知、あそこまで精度が高いなんて)
彼らは三月の強さを疑い始めている。単なる「異常な新人」から、「監視すべき脅威」へと認識が変わりつつある。
もし、あと数分立ち止まっていたら、壁の裏の死骸を見つけられ、すべてが終わっていただろう。
三月は汚れた手袋を脱ぎ捨て、新しいものに替えながら、迷宮の出口へと急いだ。
地上の空気は、相変わらず冷たく、そしてどこか偽りに満ちている。
ギルドのカウンターへ戻ると、結衣が心配そうな顔で出迎えた。
「三月ちゃん、どこに行っていたの? ガランたちがあなたの足取りについて、ギルドのログを全部チェックしていたわよ。あまり無理をしちゃだめ」
「……ありがとう、結衣さん。大丈夫、ただちょっと、効率の良い狩り方を試していただけ」
三月は結衣に微笑んで見せる。その顔には一切の不安などない。
だが、その笑顔の裏で、彼女は思考をフル回転させていた。
(……ヴォルグが調べたということは、協会は私の『行動範囲』を制限しようとするはず。第八層での狩りは、もう限界ね)
ギルドを出ると、そのまま『黒鉄堂』へ向かう。
店内では鉄山が黙々と武器のメンテナンスをしていた。
「……随分と荒っぽい狩りをしてきたみたいだな。その手、血の匂いが染み付いてるぞ」
鉄山は鋭い目で三月を見抜き、溜息をつく。
「鉄山さん。ヴォルグが動いた。……私、これ以上八層に留まるのは危険だと思う」
「だろうな。連中はお前を泳がせて、限界を見極めようとしてる。だが、お前も馬鹿じゃねえ。……次は、どこを『食卓』にするつもりだ?」
三月は店の隅に広げられた迷宮の地図を指差した。
彼女が選んだのは、第八層の通過点でも、第九層の入り口でもない。
「第十二層。ここは攻略パーティの滞在が少ない、かつ『水底の蛇』と呼ばれる魔獣が巣食う環境だ。私の磁力操作と相性がいい」
鉄山は眉を潜める。
「第十二層だと……? そこは協会の主要調査範囲からは外れているが、環境が劣悪だ。一歩間違えれば、魔獣以前に迷宮の毒素で自分がやられるぞ」
「毒耐性(中)がある。それに、あの場所ならヴォルグやガランの目から隠れながら、密かに魔力を蓄えられる」
三月は言い切った。
彼女の目は、迷いの中に燃える意志の光を宿している。
「手術まで、あと二週間。ここから先は、ただ強い魔獣を食うだけじゃ足りない。私自身の回路を、彼らの監視魔導回路と『共鳴』させないために、迷宮の環境そのものを私の『盾』に変えるわ」
鉄山はその覚悟を見て、不敵に笑った。
「……面白い。武器屋として、その覚悟、最高の武器に仕立ててやるよ」
その夜、三月は隠れ家へ戻ることなく、迷宮の入り口にある小さな休憩所で夜を明かした。
高橋たちが待つ手術台の日が、刻一刻と近づいている。
だが、今の彼女にとって、それは恐怖ではない。
協会という怪物を、迷宮の底から毒で侵食し、自分の一部として吸収するための「決戦の日」だった。
(待ってなさい。……私の魂を食べるなんて、高橋には百万年早いのよ)
彼女は、自分の中に住まう「怪物」が、以前よりも確実に静かになっているのを感じる。
それは、感情を排し、ただ「生き残る」ための機能を突き詰めた、純粋な殺意の塊となっていた。
第三十六話をお読みいただき、ありがとうございました!
第八層での危機を乗り越え、より過酷な環境である第十二層へ活動拠点を移すことを決意した三月。
ただ強くなるだけではなく、迷宮の環境すらも自分の戦術に取り込もうとする彼女の狡猾さが、ますます際立ってきました。
高橋たちが用意した「回路」の手術の日まで、あと二週間。
次回、第十二層での激闘と、彼女の「偽りの開頭」に向けたさらなる準備が動き出します!
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それでは、第三十七話でお会いしましょう!




