第358話:黄金の朝餉と、皮までパリパリの神焼き魚
ジリジリジリ……パチッ……ジュワァァァァ……ッ。
爽やかな秋風が吹き抜ける、水曜日の午前六時四十五分。
如月家の台所に備え付けられた、古びた二口ガスコンロの中央――魚焼きグリルの中から、脂の乗った魚が香ばしく焼き上がる、たまらなく食欲をそそる音が響いていた。
台所を包み込んでいるのは、芳醇な合わせ味噌の湯気と、こんがりと香ばしい焼き鮭の匂い。
黄色いヒヨコ柄のエプロンを着た如月三月が、お鍋のお味噌汁をお玉でそっとかき混ぜながら、嬉しそうに目を細めていた。
「ん〜っ! お母さんが長野の実家から送ってくれた信州味噌、すっごくいい香り!
具はお豆腐とワカメ、それに刻んだ油揚げとおネギね! 拓也、お味噌汁には油揚げが入ってるのが一番好きなんだよね!」
三月が鼻歌混じりに小ネギを散らす横で、魚焼きグリルの排気口の上。
換気扇の金属フレームにちょこんと両足の爪を引っ掛け、真剣そのものの眼光でグリル内部を見下ろしている影があった。
首に三月お手製の毛糸のミニマフラーを巻いた、手のひらサイズの白銀ミニドラゴン――ポチである。
(……集中セヨ……全神経ヲ、網ノ上ノ紅鮭ヘト研ギ澄マスノデス……ッ!)
ポチの全身の白い鱗が、極度の魔力集約によって、まるで朝露のようにキラキラと輝いていた。
昨夜の茶碗蒸しで「弱火蒸気結界」を完璧に成功させ、自らの真の天職が料理のアシストにあると覚醒した元・神代の古竜。
今朝彼が挑んでいるのは、日本の伝統的朝食の最高峰――【焼き鮭の極限調律】であった。
魚焼きグリルという調理器具は、家庭料理において極めて難易度が高い。
上火だけでは裏面が生焼けになり、強火すぎれば皮が黒焦げになって苦味が出る。
弱すぎれば身の水分が抜け落ちてパサパサになり、脂の旨味が失われてしまう。
目指すべき至高の境地とは――。
【皮の表面:極薄のガラスのようにパリッパリのクリスピー食感】
【身の内部:ふっくらと柔らかく、箸を入れた瞬間にジューシーなサーモンピンクのエーテル脂が溢れ出すミディアムレア】
【骨の処理:微小レーザーにより、小骨の先端をカルシウム化して完全無害化】
(我ガ神罰ノ劫火ヲ……【〇・〇〇〇〇〇三パーセント】ニ精密固定……!
遠赤外線ノ波長ヲ網ノ裏側ヘト回り込マセ、熱ノ対流ヲ完全対称ニ制御……ッ!!)
ポチの鼻先から、極細の青白いプラズマ温風が、シュルシュルと排気口を通じてグリル内部へと注ぎ込まれる。
グリル内の鉄網の上で、分厚い紅鮭の切り身が、まるで呼吸をするかのように微かに膨らみ、皮の表面にきめ細やかな黄金色の気泡がプツプツと弾けていった。
「ポチちゃん、そろそろいいかな?」
三月がお皿を用意しながら声をかける。
「キュピィッ!(今デス! 余熱ト大気圧ノ調和、今コソガ至高ノ瞬間デスッ!)」
ポチがビシッと前足でサインを送ると同時に、三月が魚焼きグリルの引き出しをスーッと引き出した。
パァァァァァァッ……!
「わぁぁっ……! すごい! すっごく綺麗に焼けてるーっ!」
三月が歓声を上げた。
引き出された網の上には、焦げ目一つない、見事な琥珀色の焼き目がついた紅鮭が二切れ。
皮はパリッと波打ち、身の断面からはツヤツヤとした透明な脂がジュワジュワと音を立てていた。
「にゃはは! ルルはお椀にご飯をよそうのにゃ!」
三角巾をつけたルルが、大きめの陶器のお茶碗に、炊きたてのツヤピカ白米をてんこ盛りにふんわりと盛り付ける。
そして、三月の足元では、体積三倍の巨大綿飴銀狼ザイオンが、赤ドット柄のバンダナを揺らしながらスッと身を寄せていた。
「キャンッ!(三月殿、配膳の導線上に障害物は皆無でございます! 我が極上の毛皮を足場とし、滑り止めとしてご活用ください!)」
ザイオンが敷物のごとく滑らかに体を滑り込ませ、三月の安全を完璧にサポートする。
こうして、如月家の食卓には、湯気を立てる山盛りご飯、具だくさんの信州味噌汁、皮までパリパリの焼き鮭、そして小鉢のほうれん草のおひたしと温泉卵が、料亭の朝御膳のように完璧な布陣で並べられたのであった。
「……ふぁ〜あ……。ゴミ出し行ってきたら、なんか急に腹減ったわ……」
勝手口から戻ってきた如月拓也が、手を洗ってリビングへと入ってきた。
寝癖のついた黒髪に、首元の伸びたスウェット。
どこからどう見ても平凡な男子高校生であるが、食卓の前に座った瞬間、その黒い瞳がキラリと輝いた。
「うわ……マジかよ。今朝の朝飯、すげぇ豪華じゃん」
「えへへ! お母さんのお味噌汁と、ポチちゃんが一生懸命焼いてくれた紅鮭だよ!」
三月が誇らしげに胸を張り、拓也の正面の席に座る。
「トカゲが魚焼くのかよ……まぁいいや。いただきます」
拓也はお箸をパチンと割ると、まずは温かいお味噌汁のお椀を持ち上げ、ズズッと一口すすった。
「…………。」
喉を通る、濃厚な信州味噌のコクと、昆布と鰹の上品な出汁。
油揚げの甘みと、ワカメの磯の香りがじんわりと胃袋に染み渡っていく。
「……あぁ……うめぇ……。朝の味噌汁って、なんでこんなに体に染みるんだろうな……」
拓也の強張っていた肩の力が、ストンと抜け落ちる。
そして、少年のお箸が、いよいよメインディッシュである焼き鮭へと伸びた。
ザイオンが固唾を呑み、ルルが両手を握りしめ、換気扇から降りてテーブルの端に座ったポチが全身をガチガチに緊張させて見つめる。
サクッ……パリリッ。
箸先が皮に触れた瞬間、朝の静かなリビングに、パイ生地を割ったかのような軽やかな快音が響いた。
皮を破ると、中から湯気と共に鮮やかなサーモンピンクの身がほろりと解け、溢れ出た良質な脂が白いお皿にツヤリと広がる。
拓也は、その皮付きの身をごっそりと箸でつまみ上げ、炊きたてのご飯の上にバウンドさせてから、大口を開けて頬張った。
サクサクッ、フワァッ……モグモグ……。
「…………っっっ!!!!」
拓也の咀嚼が止まり、少年の右眼がカッと見開かれた。
その口から、魂の底から絞り出されたような感嘆の叫びが漏れ出た。
「…………っっっ、うっっっっっっっっっま!!!!」
「キュピィィィッ……!?(ほ、褒め言葉キタァァァッ!!)」
ポチの小さな前足が歓喜に震える。
「なにこれ、皮が信じられないくらいパリッパリじゃん! 全然生臭くないし、ポテトチップスみたいにサクサクしてる!
なのに、中の身がめちゃくちゃふっくらしてて、脂がじゅわーって溢れてくる……!
塩加減も完璧だし、小骨が一本も当たらないんだけど……どうやって焼いたんだこれ!?」
ガツガツッ、ガツガツガツッ!!
拓也は、鮭を一切れ口に運ぶたびに、山盛りのご飯を二口、三口と猛烈な勢いでかきこんでいく。
香ばしい皮の塩気と、ふっくらした鮭の旨味、そして甘い白米のコンビネーションに、箸が全く止まらない。
「えへへー! ポチちゃんがね、換気扇の上からすっごい集中して火加減見てくれたんだよー!」
三月が嬉しそうにポチの頭を撫でる。
「へぇ……お前、トカゲのくせにめちゃくちゃ魚焼くの上手いんだな。焼き魚職人になれるぞ」
拓也が、ご飯を頬張りながら、ポチの小さな頭を人差し指の腹でトントンと優しく叩いてやった。
さらに、お皿の端の皮のカリカリした部分をほんの少しちぎり、小皿に乗せて床のザイオンとルル、ポチの前に置いてやる。
「ほら、お前らも一口食うか。塩分控えめのとこ分けといたからさ」
「キャンッ……!(あぁ……我が主の……愛の分け前……!)」
「キュピィィ……(皮ノ……我ガ焼キ上ゲタ皮ノ至高ノ食感……ッ!)」
「にゃふぅ……サクサクしてすっごく美味しいのにゃ……!」
神獣たちは、そのカリカリの鮭の皮を、全宇宙のいかなる秘宝よりも尊い聖餐として、涙を流しながらハフハフと味わった。
その頃――新宿・防衛本部。
巨大作戦モニターに映し出された生体エーテル波形と地球環境マップが、突如として眩いばかりの『真紅と黄金の極光』に包まれていた。
『――観測班より、超特大エマージェンシー・コールッ!!』
通信席のクロエ・アーヴィングが、両手でヘッドセットを力いっぱい押さえ、絶頂に達したような歓喜の叫びを上げた。
『如月邸内において……神饌【紅鱗の神魚と黄金霊液(味噌汁)の受肉】を確認いたしましたッ!!
拓也様が鮭の皮膜を咀嚼された瞬間……測定不能の【至高覚醒波動】が解放!
太平洋、日本海、並びにオホーツク海の全海洋エーテル循環が瞬時に調律され、近海の赤潮・海洋汚染が百パーセント浄化されましたッ!!』
「な、何だとォッ!?」
神宮寺蒼太が、机をバンッと叩いて立ち上がった。
その横では、レオン・カーターが口をあんぐりと開けてモニターを凝視している。
「クロエ殿! 朝の焼き魚一切れで、地球の全海洋環境が再生したというのか……!?」
「はいッ! 拓也様のお言葉を傍受しております!
『皮までパリッパリでめちゃくちゃうまい、骨も当たらない、どうやって焼いたんだ』――ッ!
これは全人類に対する、神聖なる海洋資源の調律完了宣言です!
神使ポチ様の放たれし神代の劫火が、紅鮭の持つ生命因果を現世の理へと昇華させ、この星の食物連鎖の頂点を完全に調和させ給うたのですッ!!」
「なんという奇跡……なんという壮大なる朝の儀式……ッ!!」
神宮寺が、両手で顔を覆い、感涙の嗚咽を漏らした。
「レオン殿! 直ちに水産庁、並びに米海軍海洋調査船団へ極秘通達を送れ!
太平洋全域の漁船団に告ぐ! 乱獲を即時中止し、神の調律に感謝を捧げる【大漁奉納礼拝】を執り行え!
また、アラスカおよび北海道の最高級紅鮭養殖場をすべて【国家不可侵特級保護区】に指定しろ!
あのお方の朝の食卓に並ぶ魚に、ウロコ一枚の濁りもあってはならんのだァァァッ!!」
「オーウ! アラスカ州知事と大統領に直通ホットラインを繋げ! 国家予算を組んで世界一のサーモンを日本へ届けるぜッ!!」
レオンがデスクの電話を引っ掴んで咆哮する。
男子高校生が「皮がパリパリでうまい」と喜んだその裏で、世界の漁業政策と海洋安全保障条約が、わずか数分間で根本から書き換えられていたのであった。
一方――如月家の食卓。
「ぷはーっ! 食った食った! 朝から最高だったわ!」
米粒一つ、鮭の骨一本残さず綺麗に完食した拓也は、お茶をズズッと飲み干して満足そうに息を吐いた。
そして、時計を見上げて立ち上がる。
「やべ、もう七時二十分じゃん。歯磨いて着替えて学校行かなきゃ」
拓也が洗面所へと向かおうとした、その時。
ふとリビングの窓ガラスの外、庭の塀のあたりを見つめながら、独り言のように呟いた。
「……あ、そういえばさ、三月」
「ん? どうしたの、拓也?」
三月がエプロンを外しながら振り返る。
「なんかさ、昨日から庭のあたりがやけに静かすぎるっていうか……。変なドローンもいなくなったし、鳥の鳴き声すらピタッと止まってんだよな。
うち、ボロいからさ。あんまり静かすぎると、逆に風通しが悪くてジメジメしてきそうじゃん。
今週末あたりさ……たまには窓を全部全開にして、庭の木もバッサリ剪定して、家中の空気をガラッと入れ替えたいよな……」
拓也は、首をコキコキと鳴らしながら、何気なく言葉を続けた。
「近所のやつらもさ、うちの前を通る時にジロジロ見てくるし……。
もっとこう、パァーッと明るくて、誰もが入りやすいような……オープンな家にしたいよな……むにゃ」
ただの、「古い木造住宅の換気と、生い茂った庭木の剪定をしたい」という、少年の気まぐれな希望。
しかし――。
新宿・防衛本部。
『――ぎゃあああああああああっっっ!!!!』
早朝の防衛本部に、本日二度目のクロエの絶叫が木霊した。
神宮寺とレオンが、持っていた書類を放り投げて通信席へと詰め寄る。
「クロエ殿ッ! 今度は何だ!?」
「た、拓也様より……週末に向けた新たなる超特大神託が下されました!
【如月神殿の全面開帳】、並びに【全大気の強制循環再編】ですッ!!」
クロエが、血走った目でスクリーンをバンッと叩いた。
「拓也様は仰せなのです!
『現在の如月邸を取り巻く防衛結界は、あまりにも閉鎖的で重苦しい! 窓を全開にし、生い茂る障壁(庭木)をすべて切り払い、この星の全人類が拝謁できるような、光り輝く開かれた神殿へと改修せよ』――とッ!!」
「な、何ということだ……ッ!!」
神宮寺が、顔面を蒼白にして後ずさった。
「指揮官様は……我らの敷いていた厳重な隠密包囲網すらも『ジメジメして風通しが悪い』と見抜いておられたのか……!
しかも、全世界に向けて『神殿をオープンにする』と仰せられただとォォッ!?」
「オーウ……! つまり今週末、世界中の首脳やトップ探索者が、如月邸への【公式参拝】を許されるってことじゃねぇかッ!!」
レオンが頭を抱えて叫ぶ。
「全軍へ非常呼集!!」
神宮寺が、全日本および連合軍へ向けて怒号を放った。
「今週末までに、如月邸の庭園を世界最高峰の庭師と結界術士の手で整えろ!
如月邸周辺の大気を、チベット高地とアルプス山脈の霊気を用いて完全換気しろ!
そして……全世界のVIPによる『如月家参拝サミット』の受入れ態勢を、直ちに構築するのだァァァッ!!」
世界中の国家元首と特務組織が、少年の「窓開けて庭木切りたいな」という呟き一つによって、空前絶後の国際外交パニックへと突入することとなった。
「行ってきまーす!」
「はーい、気をつけてねーっ!」
玄関から元気に飛び出していく拓也の背中を、三月と、足元でお座りをするザイオン、ルル、ポチが見送る。
秋晴れの心地よい風が、下町の住宅街を優しく撫でていく。
週末、自宅の庭に世界各国の首脳やトップ探索者たちが土下座で行列を作ることになるなど、少年は夢にも思わない。
どこまでも温かく、どこまでも平和な如月家の日常は、パリパリに焼けた焼き魚の幸せな余韻と共に、新たな騒乱の予感を孕んで動き出すのであった。
(第359話へ続く)
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