第354話:朝のお弁当防衛戦と、崩せぬ玉子焼きの砦
チュン、チュン、チュン……。
清々しい秋晴れの朝、東の空から柔らかな朝靄を抜けて差し込む陽光が、如月家の台所を黄金色に染め上げていた。
午前六時十五分。
いつもなら家全体が深い静寂に包まれている時間帯に、パタパタと軽やかなスリッパの足音が廊下に響く。
黄色いヒヨコ柄のエプロンをキュッと腰で結んだ如月三月が、気合十分といった様子で両手の拳を握りしめていた。
「よーし! 今日は拓也のリクエストだからね! 腕によりをかけて最高のお弁当作っちゃうぞー!」
昨夜、拓也がどんぶりを抱えて「明日の弁当もこれ入れてよ。冷めてもタレが染みてて絶対うまいからさ」と、満面の笑みで言ってくれたのだ。
姉として、これ以上にモチベーションが爆発する瞬間があろうか。
三月の背中からは、アビスゲートの深淵すら照らし出すような、凄まじいまでの「弟への慈愛オーラ」が立ち上っていた。
「キャンッ!(総員、起床! 如月家台所防衛隊、直ちに各配置へつけッ!)」
体積三倍の巨大綿飴銀狼ザイオンが、鋭い小声で号令をかける。
赤ドット柄のバンダナをきりりと整え、静かに三月の足元へ滑り込むと、毛皮の一本一本を器用に広げて「極上のクッション兼足拭きマット」としてスタンバイした。
三月が料理中に万が一油を飛ばしたり、足を滑らせたりしないための、完璧な安全足場である。
「キュピィッ!(コンロ下、火炎制御班スタンバイ完了デス! 今朝モ神代ノ劫火ヲ【〇・〇〇〇〇一パーセント】ニ精密絞リ込ミ、理想ノ熱源ヲ提供イタシマス!)」
ミニドラゴンのポチが、毛糸のミニマフラーを巻き直して換気扇の縁に陣取る。
「ルルは、お弁当箱のセッティング係なのにゃ!」
黄色いダッフルコートを脱ぎ、小さな三角巾を頭に巻いたルルが、ピカピカに洗われた拓也の二段式お弁当箱をトントンとまな板の横に並べた。
「ふふ、みんな朝からありがとうね!」
三月は優しく微笑み、昨夜の残りの特製タレと、スーパー『ライフマート』のタイムセールで勝ち取った極上黒豚の切り落としを取り出した。
ジュワァァァァァァッ……!
フライパンの上で、薄切りの玉ねぎと豚肉が軽快な音を立てて踊る。
拓也の好みに合わせ、炒め油は一切使わない。
豚肉自体の良質な脂と、玉ねぎから滲み出る自然な甘みだけでじっくりと火を通し、そこへ鰹だしの効いた秘伝の甘辛タレを回し入れる。
立ち上る香ばしい湯気が、台所いっぱいに充満した。
三月はお弁当箱の一段目にホカホカの白米をきっちり詰めると、スプーンの背で軽く均し、その上から炒めた豚肉と玉ねぎを、タレごとたっぷりと乗せていく。
甘辛い黄金色のタレが、炊きたてのご飯の隙間へと、じゅわぁっと吸い込まれていく。
「うんっ、これこれ! タレが下のご飯までしっかり染み込んでるのが、拓也の大好物なんだよね!」
仕上げに、上から白ごまを指先でひとつまみ、パラパラと美しく散らす。
「そして……今日のおかずの主役は、昨日の特売卵で作る【甘い厚焼き玉子】と、茹でたてのブロッコリーにほうれん草のおひたし!」
三月がボウルに卵を三個、リズミカルに割り入れた。
しかし――その時であった。
その頃、新宿の防衛本部。
『――観測班より、極めて異例の超緊急事態を通報ッ!!』
オペレーターのクロエ・アーヴィングが、ヘッドセットを両手で強く押さえ、悲痛な叫びを上げた。
巨大スクリーンには、如月邸を中心とする衛星魔力分布図と、国際指名手配組織の移動データが赤黒い警告色で表示されている。
『如月邸の周囲半径一キロメートル圏内において、未確認の遮断結界が展開されつつあります!
侵入者の正体は……先日の大粛清から逃げ延びた、多国籍生体兵器カルテル【アンダー・キメラ研究所】の最高戦力――生体強化クローン暗殺部隊【キメラ・オメガ】!
総勢十二名、全身を完全機械化および魔獣遺伝子融合させた、国家転覆級の生体兵器群ですッ!!』
「何だとォッ!?」
神宮寺蒼太が、氷の長刀を握りしめて立ち上がった。
その背後で、レオン・カーターが額に青筋を浮かべて咆哮する。
「あのゴキブリ共め、まだ生き残りがいやがったのか! いったい何が目的だ!?」
「音声傍受データを再生します!」
クロエが震える指で操作盤を叩いた。
『……標的は、如月三月が今まさに製造している【超高密度生体活性エネルギー塊(拓也の弁当)】だ……!』
スピーカーから、機械加工された冷酷な暗殺部隊長の不気味な声が流れる。
『あの弁当に封入されているのは、最高純度の黒豚エーテルと黄金玉の凝縮核……!
あれを口にすれば、無能力者の少年指揮官は神域の全能覚醒を果たす!
奴が覚醒する前に、通学路および庭先から奇襲を仕掛け、あの弁当を奪取・あるいは毒素を混入して破壊せよ!
邪魔をする実験体フェンリルとケットシーは、神経破壊パルスで肉片に変えろ!』
「き、貴様らァァァッ!!」
レオンの全身から、青白い雷撃が怒り狂ったように吹き荒れた。
防衛本部の強化防弾ガラスが、ビリビリと振動して悲鳴を上げる。
「指揮官様が楽しみにしていらっしゃる、お姉ちゃんの手作り弁当を狙うだとォォッ!?
豚肉のタレ染みご飯に、玉子焼きだと!?
それを奪うだの毒を入れるだの……てめぇら、全宇宙の法則に対する反逆罪だぞッ!!」
「八咫烏、並びに極星の全戦力へスクランブル発令!」
神宮寺の瞳が、絶対零度の怒りで研ぎ澄まされた。
「如月邸の敷地内に、塵一つの侵入も許すな!
だが……待て。クロエ殿、三月様とお弁当の現在の調理状況は!?」
「は、はいッ! 三月様は現在、卵焼き器に溶き卵を流し込み、一巻き目の繊細な成形に入っておられます!
微細な大気の揺らぎや振動が発生した場合、玉子焼きの表面に亀裂が入り、形が崩れる危険性がありますッ!!」
「ぬぅっ……何という緊迫した戦局……!」
神宮寺の額から、脂汗がツーッと流れ落ちた。
「外で派手にドンパチやれば、その余波で玉子焼きのふんわり感が失われてしまう!
全軍へ通達! 迎撃は【完全無音・ゼロ衝撃波】に限定!
一デシベルの音、ミリ単位の大気圧変動すら、あのキッチンのフライパンに届かせてはならんッ!!」
新宿の防衛本部が、かつてない極限の「玉子焼き防衛オペレーション」に突入した瞬間であった。
しかし――。
外部のそんな命懸けの隠密迎撃を掻い潜り、研究所の誇る超低周波ステルス迷彩を纏った三名のサイボーグ暗殺者が、如月家の台所の勝手口の真下まで、音もなく這い寄っていた。
(……フハハ、愚かな警備網め。我が【次元迷彩クローキング】を見破ることはできん)
暗殺員の一人が、機械化された義眼で勝手口のガラス窓をスキャンする。
その窓の向こうでは、三月が背中を向け、卵焼き器の前で真剣な顔で菜箸を構えていた。
そして作業台の端には、綺麗に詰められた豚丼弁当と、これから詰められるのを待つ色鮮やかなおかずカップが並んでいる。
(隙だらけだ。換気扇の排気口から、触手型ナノニードルを侵入させ、あの弁当箱の中央に劇毒アンプルを射出する……!)
暗殺員が、指先から極細の毒針をシュルシュルと伸ばし、排気口の隙間へと滑り込ませようとした。
その、まさに刹那――。
ピクッ。
三月の足元にいたザイオンの鼻先が、微かな「機械油の臭気」を捉えた。
アビスゲートの極上フローラル柔軟剤の香りを愛する銀狼にとって、その下品な工業油の匂いは、耐え難い汚辱であった。
(……嗅ぎ慣れた、忌まわしき研究所の鉄サビの匂い……。ルル、ポチ、来たぞ)
ザイオンが、極小の思念波を台所内に走らせた。
(ヒィッ! 勝手口ノ外デス! 奴ラ、拓也様ノお弁当ニ毒針ヲ向ケテオリマスッ! なんという外道……ッ!)
ポチが換気扇の真下で瞳を怒りに燃え上がらせる。
(許さないのにゃ……! 三月お姉ちゃんが、朝早く起きて一生懸命作ってるのにゃ! 拓也の大好きなお肉のご飯を邪魔する奴は……ルルが許さないのにゃーーっ!!)
ルルの全身の毛が、逆立った。
兵器として生み出され、冷たい檻の中で廃棄を待つだけだった自分を救い、名前をくれ、甘いプリンや温かな毛布をくれた如月家。
その大好きな家族の食卓を汚そうとする敵に対し、温厚なケットシーの少女の胸の奥で、純粋な守護の意志が覚醒したのだ。
「キャンッ!(ルル、行け! 拓也様に教わった【至高の脱力】を忘れるな! 皿一枚、卵焼きの形一つ崩してはならんぞ!)」
「りょうかいなのにゃっ!!」
三月が、フライパンに向かって「えーっと、お砂糖は大さじ一杯半……」と呟いて調味料に手を伸ばした、わずかコンマ五秒の死角。
シュタッ!!
ルルは、作業台から勝手口の網戸の上へと、羽毛よりも軽く音もなく跳躍した。
そして、換気口から侵入しかけていた毒針の先端を、小さな二本の爪で【チョン】と挟み込んだ。
(――なっ!? バカな、我がナノニードルが素手で止められた……!?)
暗殺員が驚愕に目を見開く。
「お弁当を狙う悪い子には……ルルのお手伝い猫パンチなのにゃっ!!」
ルルは、拓也に頭を撫でられた時の手の温もりを思い出しながら、右の肉球をふわりと繰り出した。
力まない。握りしめない。
ただ、三月に教えてもらった「綿あめをぽふっと乗せる」イメージのままに。
ぽふっ。
勝手口のガラス窓越しに、ルルの小さな肉球が、外壁に張り付いていた暗殺員の額へと優しく触れた。
ガラスにはヒビ一つ入らない。
だが――。
ドォォォォォォンッッッ……!!
外壁の外側だけに、局所的な【因果透過衝撃波】が炸裂した。
触れられた暗殺員の分厚いサイボーグ装甲が、外傷を一切残さずに、内部の機械回路と魔導コアだけをドロドロの液体へと融解させられたのだ。
「ガ……バッ……!?」
暗殺員は声すら出せず、目と鼻からショートした火花をプシュッと吹き出しながら、糸の切れた操り人形のように裏庭の芝生へと崩れ落ちた。
「キュピィッ!(残リ二体! 我ガ任セ下サイ!)」
ポチが、換気扇の隙間から細い尾を器用に伸ばし、外にいた二体目の足首を絡め取った。
そして、目玉焼きで培った「極微小とろ火レーザー」を逆流させ、暗殺員の動力ケーブルをピンポイントで焼き切る。
バチバチッと小さな放電と共に、二体目も完全沈黙。
そして、最後の一体が逃げ出そうとした瞬間――。
ザイオンが、勝手口のドアの隙間から、フカフカの前足をスッと差し出し、地面を【ぽふん】と軽く踏みしめた。
局所的な重力反転。
逃げようとした暗殺員の足元が突如として三倍の引力に捕らわれ、そのまま庭の柔らかい土の中へと、首までスポンと綺麗に埋没させられたのである。
わずか二秒。
台所の調味料の容器一つ揺らすことなく、国家転覆級の暗殺部隊は、完全なる無音の中で全滅させられていた。
「――よしっ! 綺麗に巻けたーっ!」
三月が、菜箸で黄金色の厚焼き玉子をクルリと巻き上げ、嬉しそうに声を上げた。
焦げ目一つない、ふんわりと湯気を立てる完璧な仕上がりである。
三月が振り返ると、ルルはすまし顔で作業台に座り、お弁当用の緑のバランを前足で押さえていた。
ザイオンもまた、何事もなかったかのように床で大人しく伏せをし、ポチは換気扇の上でフンスと誇らしげに胸を張っている。
「あ、ルルちゃん、バラン持っててくれたの? ありがとう!」
三月は包丁で玉子焼きをトントンと等分に切り分けると、お弁当箱の二段目へと、丁寧に並べていった。
一段目には、甘辛いタレが下のご飯までたっぷりと染み込んだ、ジューシーな黒豚こま切れと玉ねぎの豚丼。上には香ばしい白ごま。
二段目には、出汁と砂糖が絶妙な黄金の厚焼き玉子が三つ、色鮮やかな茹でブロッコリー、そして醤油と鰹節で和えたほうれん草のおひたし。
「できたーっ! 拓也特製・がっつりスタミナ豚丼弁当、完成ーっ!」
三月が両手を合わせて満面の笑顔を咲かせた。
パタパタパタ……。
その時、階段から寝癖のついた頭をかきながら、制服姿の拓也が降りてきた。
「……ん……おはよ、三月。なんか……朝からすげぇいい匂いすんな」
拓也が目をこすりながら台所を覗き込む。
「拓也、おはよう! ほら見て、昨日の約束のお弁当! 豚丼、タレをたっぷりご飯に吸わせておいたよ!」
三月が誇らしげにお弁当箱を差し出す。
拓也の視線が、お弁当箱へと注がれた。
ツヤツヤと輝く豚肉の照り、ご飯に染み込んだ琥珀色のタレ、そしてふんわりと分厚い玉子焼き。
「うわ……マジでうまそうじゃん……! 卵焼きもめっちゃ綺麗に焼けてるし。サンキューな、三月」
拓也の口元が、嬉しそうにふにゃりと緩んだ。
その笑顔を見た瞬間――。
足元で控えていたザイオンとルル、そしてポチの三匹は、胸の奥から熱いものが込み上げ、互いに顔を見合わせて小さくガッツポーズを作った。
(守り切った……! 我らの手で、主の至高の朝食とお弁当を死守したのだ……ッ!)
(ヤリマシタ! 卵焼キハ、ヒビ一ツ入ラズニ完成シタノデスッ!)
(にゃはは! 拓也が喜んでくれて、ルルもすっごく嬉しいのにゃーっ!)
「よし、じゃあ朝飯食ったら学校行くわ。……ん? そういえばお前ら、なんか今朝やけにお行儀いいな」
拓也が不思議そうに首をかしげながら、ザイオンの頭をワシャワシャと撫で、ルルの顎の下をコチョコチョと掻いてやる。
「くぅ〜ん……」
「にゃふぅ……」
極上のスキンシップに、神獣たちはとろけそうな顔で喉を鳴らした。
午前七時三十分――。
「行ってきまーす!」
「はーい、気をつけてねー! お昼休みにしっかり食べるんだよー!」
カバンにお弁当箱を大事にしまい、拓也が元気に玄関を出ていった。
三月と神獣たちが、笑顔で手を振って見送る。
秋の爽やかな風が吹き抜ける住宅街。
なお、如月家の裏庭に首まで埋まっていた暗殺部隊の残党たちは、拓也が出発したコンマ五秒後、不知火凛率いる八咫烏の隠密部隊によって、音もなくスコップで掘り起こされ、影の中へと綺麗に回収・更地送りとなった。
少年が大切そうに抱えて歩く通学カバンの中には、温かな家族の愛と、神獣たちが命懸けで守り抜いた、世界で一番美味しいお弁当が、幸せな湯気を閉じ込めて揺れていたのであった。
(第355話へ続く)
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