第350話:週末の燻煙神薬(バルサン)と、自首する裏社会
「……くん煙タイプと、水を使って煙を出すタイプ……どっちが効くんだろうな」
火曜日の夕暮れ時。
学校から帰宅した如月拓也は、リビングのコタツの上に広げた近所のドラッグストア『マツモト・ファーマシー』の特売チラシを真剣な目で見つめていた。
チラシの左隅、日用品セールのコーナーには、見慣れた赤いパッケージの防虫燻煙剤――『バルサン・プロEX(三個パック・特売千九百八十円)』と『水ではじめるアースレッド(ノンスモーク・千七百八十円)』の写真がデカデカと掲載されていた。
「火災報知器にカバーかけるのめんどくさいし、煙が出ない水タイプにするか……? いや、でも一階の床下と縁側の隙間までしっかり煙を行き渡らせるなら、やっぱり煙がモクモク出る強力なジェット燻煙タイプだよな……。シロアリとかクモとか、隅っこに潜んでるやつらも根こそぎ全滅させたいし……」
拓也は、赤い油性ペンでチラシの『バルサン強力ジェット』の文字にキュキュッと二重丸をつけた。
築三十年の木造住宅を快適に保つための、至極真っ当で庶民的な害虫対策の検討である。
しかし――その呟きをリビングの隅で正座(伏せ)して聞いていたザイオン、ポチ、ルルの三匹にとっては、それはまさに「全宇宙の害虫に対する死の宣告書」に他ならなかった。
「キャン……(ルル、ポチ、聞いただろうか……)」
ザイオンが、体積三倍の銀毛を微かに震わせながら、二匹へ極小の思念波を送った。
「(拓也様は、本気だ……。先日のゲル状暗殺者どもが床下を這い回ったことに、底知れぬ嫌悪感を抱いておられる。『水を用いて煙を立ち上らせる神水精製法』か、あるいは『炎と煙で全方位を浄化する劫火燻煙法』か……その二大殲滅魔導の選定に入られたのだ……!)」
「キュピィィッ……!(ヒ、ヒィッ……! チラシニ刻マレタ文字ヲ見テクダサイ! 『プロ仕様・隅々マデ根こそぎ全滅』ト書カレテイマス! コレハ、この星ノ地殻変動スラ伴ウ特級大粛清ノ呪文デスッ!)」
ポチが、三月手作りのミニマフラーをギュッと握りしめて青ざめる。
「にゃはは! 拓也、週末に煙モクモクのお買い物行くのにゃ? ルルも一緒についていくのにゃ!」
ルルだけは、事の重大さを全く理解せぬまま、がま口財布を首に下げて拓也の膝の上にぴょんと飛び乗り、甘えるように喉を鳴らしていた。
「よしよし、ルルは偉いな。週末、お前らのノミ除け首輪も一緒に見てやるよ」
拓也がルルの頭をワシャワシャと撫でる。
その無邪気な少年の笑顔の裏で、全世界を揺るがす「大粛清のタイムリミット」の秒針が、カチカチと狂気じみた速度で回り始めていた。
その頃――。
新宿の防衛本部を経由し、世界各国の防衛首脳部、探索者ギルド連盟、そして各国の警察庁へ発令された最高機密指令――コードネーム【週末の燻煙神薬】。
その影響は、世界中の裏社会を未曾有のパニックと絶望の地獄へと叩き落としていた。
欧州・地中海沖に浮かぶ、国際テロ組織の武装要塞島。
かつて数々の国家を脅迫し、数千人の私兵を抱えていた武装カルテルの首領は、モニターに映し出された日本の速報情報を見つめながら、拳銃を持つ手をガタガタと震わせていた。
「……お、終わりだ……。全能の調律者……如月拓也が動いた……」
「ボス! 日本の極星遊撃部隊、並びに不知火凛の『八咫烏』が、我が組織の全支部に音もなく突入しています! 反撃を試みた第一防衛ラインは、神宮寺の絶対零度によって氷漬けにされ、レオンの雷撃で島内の全レーダーが蒸発しましたッ!」
「奴らの要求は何だ!? 金か!? 兵器の引き渡しか!?」
首領が絶叫する。
通信兵は、血の気の引いた顔で答えた。
「い、いえ……! 奴らの通信要求はただ一言……『週末までに地球上のすべての害虫を自主的に消去しろ。指揮官様がドラッグストアでバルサンを手に取られた瞬間、この星の裏社会は物理的に蒸発する』……とッ!!」
「ば、バルサンだとォォォッ!?」
首領の頭の中で、想像を絶する恐怖のシナリオが組み上がった。
先日のアビスゲート三十階層の完全踏破。概念神すら手動プレスでゴミキューブに圧縮する如月三月の怪力。
その頂点に君臨する少年が、自らの手で「燻煙神薬」を解放する。
それは、世界中の地下組織、隠しアジト、違法研究所を、空間ごと煙で満たし、分子レベルで消滅させる大崩壊の儀式に他ならない!
「に、逃げ場はない……! 神の手で燻し殺されるか、今すぐ白旗を揚げるか……選択肢は一つだけだッ!!」
首領は手元の拳銃を床に投げ捨て、両手を高々と挙げた。
「全軍、武器を捨てろッ! 直ちにインターポールと国際探索者協会へ電話しろ! 我々は今この瞬間をもって全面降伏する! 刑務所の地下独房でも、極北の強制収容所でもどこでもいい、神の煙が届かない頑丈な牢屋へ我々を匿ってくれと懇願しろォォォッ!!」
「「「了解ィィィッ!!」」」
同様の光景が、地球上のあらゆる闇社会で同時多発的に発生していた。
南米の麻薬カルテルが、自らアジトを爆破して全財産を国連へ寄付し、警察署の前で長蛇の列を作って土下座自首。
中東の非合法魔獣ブリーダー組織が、檻を開け放って全ての魔獣を自然保護区へ解放し、涙を流しながら慈善団体へ改組。
極東の裏カジノグループに至っては、看板を『地域防犯パトロール隊』に掛け替え、全員で町内のゴミ拾いを始める始末であった。
「神のバルサンが焚かれる前に、自ら害虫であることをやめろ!」
その合言葉のもと、世界中の犯罪発生率は、わずか四十八時間で【九十九・八パーセント低下】するという、人類史上前代未聞の治安改善が達成されていたのである。
そして――迎えた土曜日の午前十時。
からりと晴れ渡った秋の青空の下、如月家の玄関が開いた。
「拓也ー! お買い物バッグ持ったー? お肉とお野菜も安くなってるみたいだから、帰りにスーパーも寄ろうね!」
白いニットにチェックのスカートを合わせた三月が、ウキウキとした足取りで玄関を飛び出してきた。
その横には、休日用のパーカーに着替えた拓也が、あくびをしながらスニーカーを履いている。
「おう。とりあえずバルサン買って、早めに部屋を燻しとかないと、夕飯までに煙の匂いが抜けないからな」
「キャンッ!(総員、護衛隊形を維持せよ! 本日こそが、現世の浄化を執り行う聖なる決戦の日であるぞッ!)」
ザイオンは、赤ドット柄のバンダナを風になびかせ、凛々しい顔つきで拓也の左脇にピタリと追従。
その頭上ではポチが毛糸のマフラーをなびかせて上空を警戒し、拓也の右手には、黄色いダッフルコートを着たルルがしっかりと手を繋いで歩いている。
一家揃ってのお散歩のような、ひどく平和な光景。
だが、彼らが目指す駅前商店街の『マツモト・ファーマシー』の周囲は、すでに一般人の知る由もない「異常な空間」へと仕上がっていた。
「……来たぞ。あのお方が、ついに神薬の選定にお出ましになられた……!」
ドラッグストアの向かいの喫茶店のテラス席。
サングラスをかけ、客を装った神宮寺蒼太が、震える手でアイスコーヒーのストローを握りしめていた。
その隣の席では、作業着姿に変装したレオン・カーターが、新聞を広げながら通信インカムに低く囁いている。
「クロエ、全戦域の状況を報告しろ。地球上の害虫共は、予定通り全滅したのか?」
『はいッ!』
防衛本部のクロエから、極度の緊張を孕んだ声が返ってくる。
『極星遊撃部隊、八咫烏、並びに世界各国警察の総力作戦により、国際指名手配犯四万二千名が全員自首を完了! 残存していたカルテル拠点八百九十箇所はすべて更地化され、現在、地球上に「拓也様の不興を買うレベルの悪党」は一人たりとも存在いたしません!』
「ふぅ……間一髪だったな」
レオンが胸を撫で下ろす。
「だが、最後の関門が残っているぜ。もし店内に置いてある神薬の品質が指揮官様の基準に達していなかった場合……今度はドラッグストアごと東京が吹き飛ぶ可能性がある!」
「抜かりはない」
神宮寺が、冷徹に眼鏡のブリッジを押し上げた。
「店内の防虫剤コーナーは、昨夜のうちに我が協会の手によってすべて『極星特注品』へと差し替えてある。いかなる神の眼であろうと、瑕疵を見出すことはできん」
ウィーーン。
自動ドアが開き、拓也と三月、そしてザイオンたちが店内へと足を踏み入れた。
ドラッグストア特有の洗剤とシャンプーの清潔な香りが漂う店内。
しかし、どこか雰囲気がおかしい。
客が一人もいないのだ。
それどころか、レジに立つ店員たち全員が、なぜか背筋をピンと伸ばし、自衛隊の儀仗兵のような完璧な直立不動の姿勢で、滝のような汗を流しながら前方を凝視している。
「……ん? なんか今日、ドラッグストアやけに空いてんな。セールじゃないのか?」
拓也が首をかしげる。
「あ、拓也! 防虫剤のコーナー、あそこだよー!」
三月が指さした棚へ、拓也は歩み寄った。
そこには、赤と黒のパッケージが整然と並べられていた。
だが――拓也は棚の前に立った瞬間、猛烈な違和感を覚えて眉をひそめた。
「……おい、三月。なんかこれ……おかしくないか?」
「え? 何が?」
拓也は、棚に置かれた『バルサン・ジェットPRO』の箱を一つ手に取った。
箱の質感が、おかしい。
ただの紙箱のはずなのに、触れた瞬間、ズシッとチタン合金のような重厚な手応えがある。
さらにパッケージの文字をよく見ると――。
【品名:超空間燻煙式・万象浄化神薬(バルサン Type-Ω)】
【効能:ゴキブリ、ダニ、シロアリ、並びに深淵の悪魔、邪神の眷属、不法魔力因子の完全消滅】
【特記:起動後、半径三キロメートルの因果律を無音で初期化します。火災報知器のカバーは不要です】
【お値段:特売・三百九十八円(税込)】
「…………。」
拓也の右眼の『深層言語・限定解析』が、頼んでもいないのに箱の内部構造を解析し始めた。
(……中身、純度九十九・九パーセントのミスリル製カプセル……? 充填されているのは、最高等級の対魔力浄化触媒……? なんでこんな軍事機密レベルの素材が、三百九十八円で売ってんだよ……?)
拓也の眉間に、深い、深いシワが刻まれていく。
店内の空気が、ピキピキと張り詰めた。
レジの店員(変装した協会のエリート探索者)の膝が、ガクガクと震え始める。
棚の影に隠れていたザイオンもまた、「神薬の仕様が拓也様の逆鱗に触れたのか……!?」と息を呑んだ。
そして――拓也は、箱を棚に戻すと、深いため息をついてポツリと零した。
「……ダメだわ、これ」
ヒュオオオオオオオッ……!!
店内の全員の心臓が、恐怖で一瞬停止した。
「な、何がダメなの、拓也!?」
三月がおずおずと尋ねる。
拓也は、隣の棚に置かれていた、緑色の何の変哲もない小さなプラスチック容器――『コンバット・置くだけで巣ごと全滅(四個入り・四百九十八円)』を指さした。
「よく考えたらさ。煙モクモク出すやつ使うと、後で食器全部洗わなきゃいけないし、ザイオンたちの毛に煙の匂いが染み付いたら可哀想じゃん。
せっかく柔軟剤のいい匂いになってんのに、煙臭い犬になったら嫌だろ?」
「キャンッ……!?」
ザイオンが、目を見開いてハッと息を呑んだ。
(俺の……俺の毛並みの匂いを……心配してくださったというのか……!? 神薬による天地消滅を取りやめ、我が身を案じてくださったのかッ……!)
ザイオンの瞳から、ボロボロと大粒の涙が溢れ出た。
「だからさ、煙が出ない『置くだけタイプ』のこれにするわ。縁側とキッチンの隅にコソッと置いとけば、勝手に食べて巣ごと消えてくれるらしいし。手間もかからないしな」
拓也は、『コンバット』を買い物カゴにコトンと放り込んだ。
そして、レジへと歩いていく。
「すいませーん、これ一個お願いします。あと、レジ袋一枚ください」
「は、はひぃッ!! ま、毎度ありがとうございますッッッ!!」
店員は直立不動のまま、震える手でバーコードをピッとし、深々と九十度のお辞儀をして商品を袋詰めした。
店を出た拓也たちは、秋晴れの心地よい風に吹かれながら、のんびりと帰路についた。
「ふぅ、これで今夜、縁側に置いとけば安心だな」
拓也が小さなレジ袋をぶら下げて笑う。
「うんっ! 拓也、優しいねー!」
三月が嬉しそうに腕に抱きつき、ルルが足元で楽しそうにスキップする。
ザイオンは、自らの毛並みに顔を埋めるようにして、「我が主の慈悲の深さよ……」と終生変わらぬ忠誠を心に誓っていた。
そして――喫茶店のテラス席。
通信機を握りしめたクロエが、全軍に向けて歓喜の絶叫を響かせていた。
『――全作戦部隊へ告ぐ!!
拓也様の無限の慈愛により、全世界に対する【煙霧浄化】は直前で回避されましたッ!!
拓也様は、我が星の全生命を憐れみ、『静かに巣ごと滅びを待つ猶予(コンバットの恩寵)』をお与えくださったのですッ!!』
「うおおおおおおおおっ!!」
世界中の警察署、軍事基地、そして留置場の悪党たちから、地鳴りのような歓喜と感謝の咆哮が沸き起こった。
地球を滅ぼしかけた「バルサン騒動」は、一匹の犬の毛並みを気遣う少年の優しさによって、奇跡の平和的結末を迎えたのであった。
秋の柔らかな木漏れ日の中、如月家の庭先には、ちょこんと置かれた黒い小さな『コンバット』が、世界を救った記念碑のように静かに佇んでいた。
(第351話へ続く)
最後までお読みいただき、本当にありがとうございます!
お姉ちゃん(三月)の理不尽なまでの弟愛と、
周囲の全力すぎる深読み(アンジャッシュ)に振り回される拓也たちの日常、
少しでもクスッと笑っていただけたり、楽しんでいただけましたら幸いです!
「このテンポ感が好き!」「続きが気になる!」「ペットたちの明日はどっちだ!?」
と少しでも思っていただけましたら、
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