第346話:神の二度寝と、静寂なる不可侵結界
秋の柔らかな木漏れ日が、薄いレースのカーテン越しに六畳間の畳を穏やかに照らしていた。
築三十年を超える木造家屋、如月家の二階・拓也の部屋。
ギシギシと軋むパイプベッドの上では、お腹いっぱいに目玉焼きと炊きたて白米を平らげた如月拓也が、至福の表情で大の字になって爆睡していた。
「……すぅ……すぅ……」
少年の呼吸は深く、穏やかだった。
その周囲を固める布陣は、人類のあらゆる要人警護プログラムを嘲笑うかのような、規格外の『神獣防壁』である。
拓也の冷えやすい足元から腰にかけては、アビスゲートの柔軟剤と拓也の無自覚ブラッシングによって完全覚醒した巨大綿飴銀狼――ザイオンが、体積三倍のフカフカな毛皮で完全に覆い尽くしていた。
そのシルクのような白銀の毛並みは、極上の羽毛布団すら足元にも及ばない保温性と弾力を誇り、少年の体温をミリ単位で最適化している。
さらに拓也の胸元には、ケットシーの少女・ルルが丸まり、ゴロゴロと愛らしい喉を鳴らしながら「極上の生体湯たんぽ」として密着。
そして枕のすぐ横では、手のひらサイズの白銀ミニドラゴン・ポチが、丸くなって鼻先から極小の温風をプシュー、プシューと規則正しく吐き出し、部屋の湿度と温度を「最高級スパのVIPルーム」と同等に保ち続けていた。
(……完璧ダ……。温度、湿度、魔力濃度、全テガ至高ノ調和ヲ保ッテイル……!)
ポチは薄く目を開け、心の中で神代の誇りを込めて呟いた。
かつて世界を滅ぼす天空の覇者と呼ばれた古竜の全知能が、今や「少年の快適な二度寝環境の維持」のためだけに全稼働している。
(キャン……油断するなよポチ。拓也様は現在、極めて繊細な急速休眠状態(二度寝)に入っておられる。我らの任務は、この聖域の平穏を何者にも侵させぬことだ)
ザイオンが、毛皮の微細な振動を通じてポチへテレパシーを送る。
体内の時限爆弾であった崩壊因子を拓也の安物ブラシで消し去ってもらったザイオンにとって、この少年こそが魂を捧げるべき唯一無二の主であった。
だが――。
平和な安眠の時間は、無情にも外界の日常の音によって揺らぎ始めた。
ピピピピッ、チュンチュン! カァー、カァー!
窓の外の電線に止まった数羽のカラスとスズメが、朝の縄張り争いで騒がしく鳴き立てる。
さらに遥か数百メートル先の大通りからは、ガガガガガッ! ドドドドッ! と、水道管工事のアスファルト破砕機の鈍い重低音が響いてきた。
「……ん……んぅ……」
拓也の眉間が、わずかにピクッと動いた。
寝返りを打ち、布団を頭から被ろうとしながら、微かな寝言が唇から零れ落ちる。
「……うるせぇな……。外のカラス……あと工事の音……。頼むから……静かに寝かせろよ……むにゃ……」
ヒヤリッ。
その瞬間、部屋の中の空気が氷点下まで凍りついた。
ザイオンの耳がピンと直立し、ポチの全身の鱗が逆立ち、ルルの猫耳がビクッと跳ね上がる。
(し、指揮官様の眉間に……シワが寄ったァァァッ!!)
(音波ノ侵入ニヨリ、神ノ安眠ガ妨害サレテイルノデスッ!!)
三匹が戦慄したその刹那――ガラッ!! と、部屋の引き戸が音もなく開いた。
そこに立っていたのは、エプロンを外した如月三月であった。
三月の瞳には、弟の睡眠を脅かされたことに対する、底知れない『静かな怒り』が宿っていた。
「……拓也が……『静かに寝かせろ』って、言ってる……」
ゴゴゴゴゴゴゴゴ……ッ!!
三月の全身から、漆黒の闘気が立ち上る。
彼女は足音を完全に消したまま、玄関の傘立てに突っ込んであった漆黒の大剣『魔鉄の塊剣』をスッと右手で引き抜いた。
そして、二階のベランダへと軽やかに躍り出ると――。
「拓也の二度寝を邪魔する子は……めっ! だよっ!!」
三月は、大剣を振るうことすらなく、ただ右手をスッと虚空にかざし、手のひらを【キュッ】と握り込んだ。
彼女がアビスゲートで極限まで鍛え上げた固有スキル『魂喰い』――その余剰出力である規格外の重力と空間圧搾が、如月家の上空半径一キロメートルへと無音で展開された。
バチィィッ!!
電線の上でギャーギャーと鳴いていたカラスとスズメたちが、突如として降り注いだ「全能の捕食者の絶対威圧」に直面し、白目を剥いて嘴をガチガチと震わせた。
『鳴いたら、存在ごと握り潰される』――鳥たちの野生の本能がそう叫び、鳥類は一羽残らず嘴を両翼で塞ぎながら、音もなくバサバサと地平線の彼方へと飛び去っていった。
さらに三月は、遥か遠くの工事現場の方向をジロリと睨みつけた。
足元の小石を一つ拾い上げると、親指でピンッと弾く。
音速の十倍で射出された小石は、数百メートル先の工事現場にあるアスファルト破砕機のメインエンジンブロックを精密に貫通し、騒音を撒き散らしていた重機を内部から完全沈黙させたのである。
「よしっ! これで静かになったね!」
三月は満足そうに微笑み、大剣を背負って部屋の中へと戻っていった。
しかし――。
三月のその「弟のための些細な音消し」と、拓也の「静かに寝かせろ」という呟きは、新宿の防衛本部を通じて、全世界を未曾有のパニックへと叩き落としていた。
『き、緊急事態発生ッ!!』
防衛本部の通信回線に、クロエ・アーヴィングの悲鳴のような絶叫が響き渡った。
巨大スクリーンには、如月邸を中心とした東京都心の音響マップが映し出されている。
『た、拓也様より、全地球に向けた新たなる神託が下されました!
「うるさい、外の音をすべて止めろ、静かに寝かせろ」――ッ!!
これは、全人類に対する【絶対静寂令】ですッ!!』
「な、何だとォォォッ!?」
神宮寺蒼太が、通信卓を両手で叩いて身を乗り出した。
背後に控えるレオン・カーターも、雷を帯びた瞳を見開いて息を呑む。
「クロエ殿! 神託の真意を詳しく報告せよ!」
「拓也様は、深淵の門を平定された後、この星の因果を安定させるための【至高の瞑想(二度寝)】に入られました! しかし、人類の撒き散らす下品な雑音――大気の振動、機械の駆動音、生物の啼鳴が、その神聖なる意識の調律を乱しているのです!
先ほど、三月様が御自ら動かれ、上空の鳥類と遠方の重機を即座に沈黙させました! これは、『我ら人類が自ら音を止めねば、神の手によって東京ごと音の概念を消去される』という、明白なる警告ですッ!!」
「総員、直ちに動けェェェェッ!!」
神宮寺の怒号が、防衛本部を揺るがした。
「内閣官房、警視庁、国土交通省へ最優先レッドアラートを発令!
如月邸を中心とする半径五十キロメートル圏内を【特級絶対静寂空域】に指定しろ!
すべての道路工事、建設作業を即刻中断!
救急車やパトカーであってもサイレンの使用を全面禁止!
違反した現場の責任者は、国家反逆罪として八咫烏が即時拘束しろッ!!」
「航空管制はどうする、神宮寺!?」
レオンがデスクに飛びつき、マイクを握りしめた。
「羽田および成田を発着する全民間機、米軍輸送機に告ぐ! 直ちに航路を変更しろ! 東京上空の進入は全面禁止だ! 高度一万メートル以上の成層圏ですら、ジェットエンジンの低周波が神の耳に届く可能性がある! すべて太平洋上へ迂回させろッ!!」
「鉄道各社へも通達!」
神宮寺がさらに叫ぶ。
「山手線、中央線、新幹線はすべて『静音走行モード』へと切り替えろ! レールに防音結界符を敷き詰め、車輪とレールの摩擦音を氷系魔術でゼロにしろ! 咳払い一つ、赤ん坊の夜泣き一つすら、如月邸の空気に届かせるなッ!!」
世界を救った最強の組織が、今や総力を挙げて「男子高校生の二度寝のための完全無音都市」を作り上げるべく、凄まじい規模で動き出した。
東京の上空から、飛行機のエンジン音が完全に消え失せた。
大通りを走る自動車は徐行し、ハイブリッドカーのモーター音すら、路肩に潜む探索者たちの防音魔術によってかき消される。
街を歩く人々は「突如始まった極秘の大規模防音訓練」に戸惑いながらも、なぜか街全体が図書館の自習室のようにシーンと静まり返っていく異様な光景に息を呑んでいた。
大都市・東京が、たった一人の少年の「静かに寝かせろ」という寝言によって、人類史上かつてない『完全なる静寂の都』へと変貌を遂げたのである。
そして――如月家の六畳間。
部屋に戻ってきた三月が満足げに布団の端を直す横で、ベッドの上のペットたちもまた、自分たちにできる「防音任務」を命懸けで遂行していた。
「キャン……(ポチ、ルル、外の音は三月殿と地上の兵たちが封じた。だが、家の中の微細な環境音は我らが防がねばならん)」
ザイオンは、自らの三倍に膨らんだ毛並みを、ベッドの周囲に扇状に広げた。
その極上の毛皮は、ただフカフカしているだけではない。
生体兵器としての音響迷彩機能が働き、空気中を伝わる微細な振動や、木造家屋特有のキシキシという軋み音を、毛先の一本一本が完全に吸収・減衰させていく。
「キュピィ(了解デス、先輩! 我ハ気流ヲ制御シ、空気ノ対流音ヲ相殺シマス!)」
ポチは、両翼をミリ単位で微動させ、部屋の中に発生する風の摩擦音を極小の熱波で打ち消し続けた。
ルルもまた、拓也の耳元に自分のフワフワの尻尾を優しくあてがい、天然の耳栓となって少年の耳を包み込む。
「にゃふぅ……これなら、拓也もぐっすり眠れるのにゃ……」
完璧な静寂。
窓の外の木漏れ日、柔らかな布団、そして神獣たちによる絶対防音結界。
「…………。」
拓也の眉間に寄っていたシワが、フッと消え去った。
少年は、深く、満足そうに息を吐き出す。
「……ん……。静かになった……。最高……」
モフモフのザイオンの背中に足を潜り込ませ、ルルの頭を抱き枕のように無意識に引き寄せながら、拓也は再び夢の世界の深淵へと沈んでいった。
「ふふっ、おやすみ、拓也」
三月は嬉しそうに微笑むと、忍び足で部屋を出て、静かにドアを閉めた。
階下へ降りた三月は、リビングのカレンダーに目を留める。
そこには、由美子(お母さん)の丸っこい文字で、こう書かれていた。
『今週中に、新しいペットたちの登録と健康診断!』
「あ……そうだった。ザイオンちゃんたち、うちに住むならちゃんと役所と探索者協会に登録に行かなきゃいけないんだよね」
三月は、コロンと首をかしげた。
「ただの大きなモフモフ犬と、猫耳の可愛い女の子と、ちょっと珍しい白いトカゲ」。
三月にとっては、それが彼らのすべてであった。
しかし――それが週明け、日本の探索者協会本部、そして魔獣管理課の測定器を木っ端微塵に爆発させる『神獣適性検査パニック』の引き金になろうとは、この時の三月はまだ知る由もなかったのである。
秋の静寂に包まれた如月家で、少年と神獣たちの穏やかな二度寝は、どこまでも幸福に続いていった。
(第347話へ続く)
最後までお読みいただき、本当にありがとうございます!
お姉ちゃん(三月)の理不尽なまでの弟愛と、
周囲の全力すぎる深読み(アンジャッシュ)に振り回される拓也たちの日常、
少しでもクスッと笑っていただけたり、楽しんでいただけましたら幸いです!
「このテンポ感が好き!」「続きが気になる!」「ペットたちの明日はどっちだ!?」
と少しでも思っていただけましたら、
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