第345話:至高の琥珀雫と、無自覚なる『神の手』
ガララッ!!
「た、ただいま帰ったのにゃぁぁぁぁぁぁっ!!」
秋の柔らかな朝風を切り裂き、如月家の玄関の引き戸が勢いよく開け放たれた。
首にがま口財布をぶら下げたケットシーの少女・ルルが、ザイオンの背中から転がり落ちるようにして板張りの廊下へ滑り込む。
その両手には、駅前のスーパー『ライフマート』の小さなビニール袋――その中に入った、オレンジ色のキャップが眩しい『追いがつおつゆ(二倍濃縮)』のボトルが、まるで世界を救う秘宝のように大切に抱えられていた。
「キャンッ!(急げルル! 目玉焼きの余熱が失われる前に、神饌を届けるのだッ!)」
「キュピィィッ!(タイムリミットハ極小! 冷メテシマエバ白身ノ食感ガ死ンデシマイマスッ!)」
体積三倍の巨大綿飴銀狼ザイオンが爪先立ちで廊下を駆け抜け、その頭上でミニドラゴンのポチが小さな翼を必死に羽ばたかせる。
三匹が雪崩れ込むように飛び込んだリビングでは――。
「……うぅ……俺の朝ごはん……消しゴム……」
テーブルの前で、如月拓也がどんよりとした漆黒の絶望オーラを背中に背負い、冷めかけたフライパンを見つめて項垂れていた。
その横で、エプロン姿の如月三月が「拓也、ごめんね……! お姉ちゃん、今からコンビニまで走ろうか!?」と半泣きでオロオロしている。
「ま、間に合ったのにゃーっ!! 拓也、めんつゆ買ってきたのにゃっ!!」
ルルが、ビニール袋から取り出したばかりの冷えためんつゆのボトルを、テーブルの上へとコトンと差し出した。
お値段、税込み二百九十八円。庶民の食卓を支え続ける、鰹だしの香り豊かなド定番調味料である。
「…………え?」
拓也の視線が、ゆっくりと持ち上がった。
その目に飛び込んできたのは、息を切らしながら誇らしげに胸を張る猫耳の少女と、汗だくでハァハァと息を吐く巨大モフモフ狼、そして換気扇の上で燃え尽きそうになっている白銀のトカゲの姿だった。
「……お前ら……本当に買ってきたのか……? ていうか、犬と猫とトカゲだけでスーパー行って買えるもんなのか……?」
拓也が、呆気に取られたように目をパチクリとさせる。
「ああっ、ルルちゃん! ザイオンお兄ちゃん、ポチちゃん! ありがとうーっ!!」
三月が満面の笑みを咲かせ、パッとボトルのキャップを開けた。
そして、フライパンの上で湯気をかすかに残していた目玉焼きの上へと、黄金色の琥珀の雫をツーッと回しかけたのだ。
ジュワッ……。
極限の精密とろ火調整によって焼き上げられた白身の縁に、甘辛い鰹だしのつゆが染み渡り、ふわりと香ばしい湯気が立ち上る。
拓也は、割り箸を手に取ると、ぷるぷると震える半熟の黄身の中央へ、スッと箸先を突き立てた。
トローリ……。
濃厚な黄金の黄身が、決壊したダムのように溢れ出し、めんつゆと混ざり合いながら、炊きたての白米の上へと雪崩れ込んでいく。
そこに、香ばしく焼き目のついたウインナーを一本乗せ、黄身とめんつゆをたっぷりと絡めて――拓也は、大口を開けて白米ごとかきこんだ。
「…………。」
拓也の咀嚼が止まる。
リビングに、張り詰めた静寂が訪れた。
ザイオンが唾を飲み込み、ポチの喉がゴクリと鳴り、ルルが両手を握りしめて少年の顔を見つめる。
もし、この調味料が口に合わなければ。もし、冷めた料理に神が怒りを露わにすれば――。
しかし。
「…………っっっ、うまっ……!!」
拓也の口から、魂の底から漏れ出たような感嘆の声が零れた。
その険しかった眉間が一瞬でほどけ、少年の顔全体に、朝の木漏れ日のような至福の笑みがパァッと広がったのだ。
「うわ、なにこれ、めちゃくちゃうまい……! 黄身がトロットロだし、ウインナーの皮もパリッパリじゃん! めんつゆの出汁がご飯に染みて……マジで最高だわ……」
ガツガツ、ガツガツッ! と、拓也は夢中になって茶碗のご飯を口の中へと流し込んでいく。
その背中から立ち上っていた禍々しい絶望のオーラは完全に雲散霧消し、リビング全体がポカポカとした春の陽だまりのような暖かな空気に包まれていった。
「キャンッ……!(や、やった……!)」
「キュピィィ……(神ガ……神ガ微笑マレタ……ッ!)」
テーブルの下で、ザイオンとポチが互いに前足を握り合い、滝のような感涙を流した。
生き延びたのだ。如月家の食卓防衛任務は、完全なる大勝利に終わったのである。
その頃――。
東京・新宿の防衛本部、および各国の合同軍事衛星通信ラインは、劇的な歓喜の渦に包まれていた。
『――観測班より緊急入電ッ!!』
オペレーターのクロエ・アーヴィングが、ヘッドセットを両手で押さえながら、割れんばかりの声で叫んだ。
『如月邸を中心として観測されていた、時空歪曲レベル9の【虚無の怨嗟場(機嫌最悪オーラ)】が完全消滅! 代わりに……全銀河を包み込むような、超高純度の【至高慈愛パルス(機嫌最高波動)】の放射を確認いたしましたッ!!』
「な、何だと……!?」
巨大モニターを仰ぎ見ていた神宮寺蒼太が、その場に崩れ落ちるように膝をついた。
その瞳からは、熱い涙がボロボロと溢れ出している。
「受け入れられたのか……! 神獣たちが下界より持ち帰りし『深淵の琥珀雫』が、指揮官様の御心を満たし、世界の終焉が回避されたというのか……ッ!」
「ハッハァ! やったぜェェェッ!!」
アメリカ最強の探索者・レオン・カーターが、自らの魔剣を床に突き立て、天井に向かって雄叫びを上げた。
「おい神宮寺! すぐに第七艦隊と空輸部隊に連絡しろ! 太平洋上で待機させていた特級出汁の輸送ヘリは全機帰投だ! 今日、この星は滅亡の危機を免れたんだぞォォッ!!」
「あぁ……だが、油断は禁物だ」
神宮寺は、涙を拭いながら立ち上がり、鋭い眼光を新宿の地下へと向けた。
「レオン殿。先ほど、スーパーの裏で捕縛した例の不届き者ども――ルル様とザイオン様を狙っていた、裏社会の生体兵器カルテル『アンダー・キメラ研究所』の件だが」
「あぁ? あんなチンケなゴミ共がどうしたって?」
「不知火凛殿率いる『八咫烏』、および遠征軍の遊撃班に命じ、彼らの国内拠点三十六箇所、並びに極東の研究プラント全施設を、先ほど午前九時十五分をもって【完全消去(更地)】にしておいた。指揮官様が二度目の咀嚼を終えられる前に、塵一つ残さず処分完了だ」
「ハッ、仕事が早ぇな! 当然だぜ、神の眷属に泥を塗ろうとした大罪人どもだ、この世に存在していた痕跡すら残す必要はねぇ!」
世界を裏から操っていたはずの巨大軍事カルテルが、少年が目玉焼きを美味しく食べている間のわずか十分足らずで、国家最高戦力の手によって地球上から完全に消滅させられていた。
もちろん、そんな国際規模の暗闘など、如月家の狭いリビングには露ほども届かない。
「ふぅー……食った食った! ごちそうさま!」
拓也は、米粒一つ残さずに空になった茶碗とフライパンをテーブルの端に置き、満足そうにお腹をさすった。
そして、ふと足元を見下ろす。
そこには、任務を完遂して安堵のあまり床にへたり込んでいる、ルル、ザイオン、ポチの三匹がいた。
「……そういえばお前ら、お使い行ってくれたんだよな」
拓也は、お皿の隅に残しておいたウインナーの端切れ二つと、ちぎったパンの耳を小皿に乗せ、床へとコトッと置いた。
「ほら、お前らも腹減ってんだろ。これ食いなよ。あと……よく頑張ったな」
そう言って、拓也は床にあぐらをかくと、一番近くにいたルルの猫耳の生えた頭を、ワシャワシャと大きな手で無造作に撫でた。
さらに、テレビ台の引き出しから、百円ショップで買ったプラスチック製の古びたペット用ブラシを取り出すと、足元に丸まっていたザイオンの銀色の背中を、ガシガシと力強くブラッシングし始めたのである。
「お前、毛並みはすげぇいいのに、なんか背中のあたりがゴワゴワしてんな。ちゃんとブラッシングしてやらないと毛玉になんぞ」
拓也にとっては、ただの「拾ってきたペットへの気まぐれな世話」に過ぎなかった。
しかし――。
(――な、なんだ……これは……ッ!?)
拓也の手が頭に触れた瞬間、ルルの全身を、温かな光の奔流が貫いた。
ルルは、生体兵器カルテルの初期プロトタイプとして造られた欠陥品だった。
魔力の過剰漏出により、日夜、全身の神経回路が焼き切れるような微細な激痛に蝕まれていたはずの身体。
それが――少年の乱暴な掌が頭を撫でるたびに、まるで乱れていた糸が綺麗にほどけていくように、魔力回路がカチリ、カチリと完璧な位置へと収まっていく。
(痛くない……!? ずっと苦しかった胸の奥のモヤモヤが……全部、消えていくのにゃ……!)
ルルの瞳から、ポロポロと大粒の涙が零れ落ちる。
そして、それ以上の衝撃を受けていたのは、背中をガシガシと梳かれているザイオンであった。
(ば、馬鹿な……ッ!? あり得ん……こんなことが、現実に起こり得るのかッ!?)
ザイオンの体内には、造物主たちが埋め込んだ最悪の呪縛――暴走死を強制する時限爆弾『崩壊因子』が刻まれていた。
いかに最強の生体兵器であろうと、定期的に組織の抑制剤を投与されねば、自らの強大すぎる魔力によって内臓から焼き尽くされて自壊する宿命。
その崩壊因子が。
拓也がプラスチックのブラシをシュッ、シュッと動かすたびに。
少年の右眼に宿る『深層言語・限定解析』が無意識のうちに放つ極微細な因果律の干渉波によって、遺伝子レベルで書き換えられ、ボロボロと砂のように崩壊して消滅していくのだ。
(解呪……いや、違う! これは『再構築』だッ! 数兆円の国家予算と数百人の狂気の錬金術師たちが束になっても解けなかった我が肉体の構造欠陥を……この御方は、ただの安物のブラシ一本で、まるで埃でも払うかのように調律しておられる……ッ!!)
ザイオンの全身から、淀んだ紫色の魔力毒素が白い湯気となってシュウシュウと蒸発していく。
三倍に膨らんでいた毛並みは、柔軟剤の甘い香りを保ったまま、シルクよりも滑らかで、神代の神獣すら凌駕する神聖な白銀の輝きを取り戻していた。
「キュピィィ……ッ!?」
さらに、拓也が「お前もトカゲのくせに頑張ったな」と、人差し指の腹でポチの眉間をチョンチョンと小突いた瞬間。
ポチの竜玉に数万年間蓄積していた神罰の反動――魂のひび割れが、パリンと音を立てて砕け散り、透き通った蒼天の光へと浄化された。
兵器として造られ、道具として消費されるはずだった哀しき獣たち。
その魂の歪みと痛みのすべてが、少年の一杯の朝食の余韻と、無造作なスキンシップによって、跡形もなく救済されてしまったのだ。
「くぅ〜ん……(あぁ……温かい……。これが、命の安らぎなのか……)」
ザイオンは、陶酔しきった顔で拓也の膝の上に大きな頭を乗せ、喉をゴロゴロと鳴らした。
ルルもまた、「拓也ぁ……大好きにゃぁ……」と少年のスウェットの袖に顔をスリスリと擦り付ける。
ポチは拓也の肩の上にちょこんと座り、至福の吐息と共に小さな煙の輪っかをポッポと吐き出した。
「わぁ、拓也! みんな、拓也にすっごい懐いてるねーっ!」
三月が、洗い物をしながら嬉しそうに目を細めた。
「んー……まぁ、お使い行ってくれたしな。よしよし」
拓也は、大きく口を開けて盛大にあくびをした。
お腹がいっぱいになり、美味しい目玉焼きを食べ、足元には極上のフカフカの毛皮がある。
日曜日の午前九時半。高校生にとって、これ以上抗いようのない『至高の誘惑』が訪れていた。
「……ふぁ〜あ……。なんか、食ったら急に眠くなってきたな……」
「もう、拓也ったら! せっかく起きたのに、また二度寝するの?」
三月が苦笑いしながら振り返る。
「いいだろ、日曜日なんだからさ……。課題は……夕方からやればいいや……。お前ら、ベッド行くぞ……」
拓也が立ち上がり、フラフラとした足取りで二階の自室へと向かう。
その背中を、ザイオンが「喜んでお供いたします、我が主!」とばかりに極上の歩法でエスコートし、ルルとポチが先を争うように階段を駆け上がっていった。
トントンと階段を上がる音。
そして、バフッと柔らかな布団に倒れ込む音。
数分後。
ベッドの中央で大の字になって眠る拓也を囲むように、巨大な銀色の毛布となったザイオンが丸まり、その胸元でルルが幸せそうに喉を鳴らし、枕の横でポチが丸くなって寝息を立てていた。
「ふふっ、みんな仲良しだね」
そっと部屋のドアを開けた三月が、起こさないように静かに微笑みながら、四人の上へ大きな羽毛布団をそっと掛けてあげる。
窓からは、穏やかな秋の木漏れ日が差し込み、部屋の中を優しく照らしていた。
世界を救った最強の英雄たちの、どこまでも平凡で、どこまでも温かな日曜日。
神獣たちの穏やかな寝息と共に、如月家の平和な朝は、静かに、そして幸福に更けていくのであった。
(第346話へ続く)
最後までお読みいただき、本当にありがとうございます!
お姉ちゃん(三月)の理不尽なまでの弟愛と、
周囲の全力すぎる深読み(アンジャッシュ)に振り回される拓也たちの日常、
少しでもクスッと笑っていただけたり、楽しんでいただけましたら幸いです!
「このテンポ感が好き!」「続きが気になる!」「ペットたちの明日はどっちだ!?」
と少しでも思っていただけましたら、
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