第340話:第三十階層『深淵の玉座』。深淵の吸引と、限界突破の紙パック(中編)
「ア、アバババババババッ!! 待テェェェェッ! 掃除機ノ口ヲ、我ニ向ケルナァァァァッ!!」
純白の第三十階層【深淵の玉座】に、迷宮の意志たるアビス・コアの、神の威厳など微塵も感じられない情けない絶叫が木霊した。
三月が構える大剣の切っ先。
そこには、彼女自身の膨大な純粋魔力を、神域の握力によって無理やり超圧縮した『物理的特異点(漆黒の極小ブラックホール)』が展開されていた。
魔術理論など一切無視した、純粋な筋肉と魔力密度が生み出したその怪力ブラックホールは、まさに概念をも吸い尽くす【ダイソン式・超重力掃除機】。
空間を満たしていたはずの「崩壊の死の灰(概念的な死の灰)」は、すでにハウスダストよろしく九割九分吸い尽くされ、真っ白な空間はピカピカに磨き上げられたリビングのように清浄な静寂を取り戻していた。
「よしよし、ホコリはあらかた吸い取れたね! あとは、部屋の真ん中に落っこちてる『大物のゴミ(アビス・コア)』を吸い込むだけだー!」
三月は、無邪気な笑顔のまま、大剣の吸引ノズルを空間の真ん中でパニックに陥っているアビス・コアへと向けた。
ズゴゴゴゴゴゴゴゴゴッ……!!!!
圧倒的な引力が、アビス・コアの不可視の輪郭を捉える。
空間そのものと同化していたはずの深淵の意志が、まるで掃除機のヘッドに吸い寄せられるティッシュペーパーのように、ズルズルと大剣の切っ先へと引きずり込まれ始めたのだ。
「ヒィィィッ!? 引力ガ強スギル! 吸イ込マレル、吸イ込マレテシマウゥゥッ!!」
アビス・コアの悲鳴が響き渡る。
本来なら、万物を無に帰す絶対の力を持つ存在である。
それが今や、ただの「吸い込みにくい大きめのゴミ」として扱われ、三月の規格外の腕力に抗うことすらできずにいた。
「キャンッ!(おい、俺たちまで吸い込まれそうだぞ!)」
「キュピィィッ!(先輩、爪ヲ立テテ下サイ! 我ガ竜ノ尾ガ引ッ張ラレテオリマス!)」
後方では、体積が三倍に膨れ上がったフローラル・モフモフ狼ことザイオンが、純白の空間の床(?)に必死で爪を立てていた。
そのフワッフワの極上毛皮にルルとしがみつくポチ(元・神代の古竜)が、強い風圧に小さな体をバタバタと靡かせながら必死に耐えている。
「にゃはは! すごい風圧なのにゃー! アトラクションみたい!」
ルルだけが、ザイオンの背中の上で呑気に笑っていた。
「……オノレ、オノレェェェッ! 我ヲタダノゴミトシテ処分スル気カッ!!」
吸引力に引きずり回されるアビス・コアの電子音が、怒りと恐怖に歪んだ。
このままでは、あのデタラメな腕力ブラックホールの中に放り込まれ、完全に消滅させられてしまう。
絶体絶命に追い詰められた迷宮の意志は、最後の手段へと打って出た。
「物理ガ通ジヌトイウノナラバ……! 貴様ノ『魂ノ深淵』ニ直接侵入シ、精神ゴト乗っ取ッテヤルワァァッ!!」
アビス・コアは、実体を捨てて純粋な【深淵の思念体】へと姿を変えた。
そして、大剣の引力に逆らうのではなく、あえてその吸引の風に乗るようにして、三月の眉間を目掛けて弾丸のように飛び込んだのだ!
シュパァァァンッ!
「あ、あれ? 掃除機の中に飛び込んできちゃった?」
三月が、パチパチと瞬きをする。
アビス・コアの思念は、三月の肉体を通り抜け、彼女の精神世界――『魂の最奥』へと雪崩れ込んだ。
いかに肉体が無敵であろうと、魂の内側に入り込んでしまえば、深淵の虚無で彼女の自我を塗り潰すことができる。
寄生し、内側から破壊する。それこそが、概念神としての絶対的な勝利の方程式のはずであった。
「フハハハハッ! 成功ダ! 貴様ノ魂ノ器ヲ、深淵ノ闇デ喰ライ尽クシテ――」
勝ち誇ったアビス・コアが、三月の精神世界を見渡した、その瞬間だった。
「……ハ……?」
アビス・コアの思考回路が、完全に凍結した。
そこは、闇であった。
しかし、アビス・コアが知る「深淵の闇」などとは、次元も規模も根底から違っていたのだ。
底がない。
果てがない。
重すぎる。
そこに広がっていたのは、如月三月という少女が抱える、常軌を逸した【弟(拓也)への底知れない愛執】と、かつてFランク探索者として泥を舐め、生きるために目覚めさせた【魂喰いの無限の飢餓感】。
世界を飲み込む深淵の門ですら、この少女の魂の器に比べれば、小さなコップ一杯の水にすら満たなかった。
『――ゴク、リ。』
闇の奥底から、巨大な「何か」が喉を鳴らす音が響いた。
三月の中に眠る【意識を奪う原初の闇】が、外から勝手に入り込んできたアビス・コアという極上の魂の塊を見下ろし、ジュルリと舌なめずりをしたのだ。
「な……ナンダコレハ……!? 深淵ヨリ深イ闇ダト……!? 喰ラウ……? 我ガ、タダノ小娘ノ精神ニ……喰ワレルというノカ……ッ!?」
アビス・コアの全身から、存在を否定されるレベルの悪寒が走った。
乗っ取るどころではない。自分から進んで、巨大な怪物の胃袋の中に飛び込んでしまったのだ。
「ヒィィィッ! 出シテ! 出シテクダサイ! ココ、怖イ! 暗イ! 弟ノ写真ト思イ出シカナイノニ、底ガ見エナイィィィッ!!」
アビス・コアは半狂乱になりながら、三月の精神世界から脱出しようと全力で逆噴射した。
しかし、あまりにも重すぎる愛の引力に捕らわれ、足元からズルズルと飲み込まれかけていく。
その、絶対的な精神の怪異が暴走しかけた、まさにその時だった。
「……むにゃ。……あー、もう……」
インカムの向こうから。
これまでずっと自室のベッドで爆睡していた『魔力ゼロの少年指揮官』――如月拓也の、ひどく面倒くさそうな寝言が聞こえてきたのである。
『ハッ! 拓也様!』
クロエ・アーヴィングが、息を呑んで耳を澄ます。
「……掃除機の……紙パック……パンパンだな……むにゃ……」
拓也は、夢の中で掃除機をかけながら、本体の赤いランプが点滅しているのに気づいて顔をしかめていた。
「……ゴミを吸いすぎて……フィルターが詰まってる……。このまま吸い続けたら……モーターが焼き切れちゃうよ……」
拓也は、夢の中で掃除機のフタを開けた。
「……新しい紙パックないから……とりあえず、手でゴミをギューッて押し込んで……圧縮して……体積を減らさなきゃ……むにゃ……スゥ……」
拓也は、紙パックの中の綿ボコリを指先でグイグイと押し込んでスペースを作り、そのまま何事もなかったかのように再び深い二度寝へと落ちていった。
『…………ハッ!!』
インカムの向こうで、クロエ・アーヴィングの眼の奥に、狂信的な光がギラギラと灯った。
『承知いたしました、拓也様ッ!! 敵の思念はお姉様の広大な精神世界という紙パックを詰まらせる、ただの「かさばる粗大ゴミ」! 暴走させる前に、お姉様の神域の握力でギューッと押し込み、限界まで超圧縮して「ゴミキューブ」に成形せよとの仰せですね!!』
クロエの狂信フィルターは、拓也の「単なる掃除機のゴミ圧縮」を、深淵の精神侵食を完全制圧するための『完璧な神の啓示』として完全に誤認(受信)した。
『お姉様! 聞こえますか、お姉様! 拓也様より戦術指示です! 精神に飛び込んできた敵の思念を、魂の奥底から引きずり出し、両手の【怪力】で限界まで押し潰して圧縮なさいませッ!!』
「なるほどー! 紙パックがパンパンになっちゃったんだね! 拓也、教えてくれてありがとー!」
三月は、精神世界の奥底で震えていたアビス・コアの襟首(思念の塊)を、ガシィィィッ!! と素手で鷲掴みにした。
「ギエェェッ!? 掴マレタァァッ!?」
「よいしょっと!」
ズボォォォォンッ! と、まるで便詰まりのスッポンを抜くような豪快な音を立てて、三月はアビス・コアの本体を自らの額から引っこ抜いた。
現実世界の純白の空間に、引きずり出されたアビス・コアがポロリと転がり出る。
「出タ……出ラレタ……! シカシ、我ハ一体ドウナル――」
「ゴミはね、圧縮して小さく捨てるのが、如月家のルールなんだよ!」
三月は、大剣を地面に突き刺すと、両手を大きく広げた。
その瞳には、慈悲の欠片もない「お掃除当番の気合い」が宿っている。
「いくよー! 如月家秘伝・ゴミ圧縮プレェェェスッ!!」
三月は、逃げ出そうとするアビス・コアを両手のひらで挟み込むと、長き眠りを経て極限まで研ぎ澄まされた彼女の【怪力(極)】を、全開で発動させた。
メキメキメキメキッ!!!!
「ア、アバババババババッ!? 痛イ! 痛イ! 潰レル! 世界ノ意志ガ、両手ノ平デ潰サレテイクゥゥゥッ!!」
アビス・コアの悲鳴が、物理的な圧力によって高音へと変わっていく。
本来なら形のない概念。しかし、三月のデタラメな腕力は、その概念すらも「質量のある物質」として無理やり定義し、問答無用で押し潰していた。
メシャァァッ!
ギチギチギチッ……!!
「もーっと、ちっちゃく! ギューッ!!」
三月が、さらに体重を乗せて両手を押し込む。
空間の歪みすらも圧縮され、アビス・コアの莫大な深淵の魔力は、逃げ場を失って極限まで濃縮されていく。
そして。
ピキィィィィィィンッ……!!
まばゆい紫色の閃光と共に、三月の手のひらから、プシュゥゥゥ……と余分な蒸気が吹き出した。
「ふぅ! 綺麗に圧縮できたー!」
三月が、満足そうにパッと両手を開いた。
そこにちょこんと乗っていたのは。
縦十センチ、横十センチ。
完璧な正六面体の形にカチコチに押し固められ、角がピシッと立った、まるでインテリア用のクリスタルのような『高密度お掃除キューブ(SSSランク魔核)』であった。
「ピガ……。我ハ……四角イ……ゴミ……」
キューブの表面に、かすかにアビス・コアの電子音が浮かんでは消えた。
深淵の門の最高意志は、拓也の怠惰な寝言と、姉の理不尽な怪力プレスの前に、完全なる「燃えないゴミ」として成形され、完全に沈黙したのである。
「…………。」
「…………。」
背後でその光景を見ていたザイオンとポチは、もはや言葉を失っていた。
「……キャン(……見ろ、ポチ。あれが、抵抗した者の末路だ)」
「……キュピィ(……ハイ、先輩。我ガ、トカゲノ姿デ『ポチ』ト呼バレテ甘ンジテイタノハ、奇跡的ナ幸運ダッタノデスネ……)」
二匹の神話級ペットは、互いに身を寄せ合い、二度と如月三月に逆らわないことを魂に深く誓い合っていた。
「よしっ! 部屋のお掃除、かーんりょう!」
三月は、ピカピカの四角いキューブ(ボス)をポイッと放り投げ、片手でキャッチすると、満面の笑みでバンザイをした。
純白の空間には、もはや塵一つ落ちていない。
こうして、深淵迷宮の最深部・第三十階層は、覚醒したスキルの死闘ではなく、『掃除機による吸引』と『手動ゴミ圧縮プレス』という、究極の家庭内清掃によって完全に踏破されたのであった。
しかし、戦いはまだ終わっていない。
迷宮の最深部で起きたこの『概念の完全吸引と、超高密度圧縮』の余波は。
アビスゲートの外、東京・新宿の上空で防衛戦の最終局面を迎えていたSランク探索者たちの頭上へと、かつてない規模の「奇跡」となって降り注ごうとしていた。




