第317話:第二十二階層『獣たちの処刑場』。無慈悲なる防壁と、0.1ミリの鉄槌(中編)
「逃げろぉぉっ……! ルル……っ!」
血の涙を流しながら、自らの意志に反して愛する妹分へと凶爪を振り下ろす銀狼の獣人、ザイオン。
第二十二階層のボス魔獣として改造され、首に嵌められた『隷属の呪縛環』によって肉体の制御を完全に奪われた彼の攻撃は、まぎれもなくSランク魔獣のそれであった。
音速を超えた鋭い爪撃が、空気を切り裂き、ルルの小さな頭上へと迫る。
ルルが、あまりの恐怖に悲鳴すら上げられず、ギュッと両目を閉じた、まさにその絶体絶命の瞬間。
ガシィィィィィィィィィィィィィィンッ!!!!!!!!
広大な闘技場を揺るがすほどの、凄まじい衝撃音が響き渡った。
ザイオンの爪が振り下ろされた地点から、爆発的な衝撃波が全方位へと撒き散らされ、床に敷き詰められていた赤黒い砂が巨大なクレーターを描いて吹き飛ぶ。
しかし。
血は、一滴も流れなかった。
「……えっ?」
ルルが恐る恐る目を開けると、自分の目の前には、見慣れた漆黒のロングコートの背中があった。
「ルルちゃんは、私の妹。……傷つけるのは、絶対に許さないよ」
如月三月であった。
彼女は、ルルを背中で庇いながら、ザイオンが全力で振り下ろした巨大な凶爪を、なんと素手で、しかも『右手一本』だけでガッチリと受け止めていたのだ。
「な、なぜ……どうして……っ!?」
ザイオンの黄金色の両目が、驚愕に見開かれた。
彼の爪は、鋼鉄の扉をも容易く紙のように切り裂く真空の刃を纏っている。さらに今は、首輪の強制リミッター解除によって、本来の筋力の数倍の出力が引き出されていた。
だが、その必殺の爪は、人間の少女の細い指先によって、まるで『落ちてきた木の葉を拾う』かのように、完全に動きを止められていた。
三月の白い肌には、傷一つ、血の滲み一つ生じていない。神域へと覚醒した【堅牢(極)】の前では、Sランクの物理攻撃など児戯にも等しかった。
「ガァァァァァァァッ!!!! (逃げろ! お前も殺されるぞ!!)」
ザイオンの意志とは無関係に、首輪の赤い光が明滅し、彼の肉体に次なる『殺戮命令』を下す。
ザイオンは三月の手から無理やり爪を引き抜くと、今度は両手、両足、さらには鋭い牙までもを使い、嵐のような連続攻撃を三月へと叩き込み始めた。
ヒュンッ! ガキンッ! ギギギギギギッ!!
凄まじい速度で繰り出される銀狼の連撃。
しかし、三月は避けることすらしなかった。
彼女は、自身の顔面や胸元に殺到する爪撃を、ただ静かに立ち尽くしたまま、真正面からその身に受け続けたのだ。
鋭い爪が三月の肌に触れるたび、金属同士が激突したような甲高い音が鳴り響き、火花が散る。
しかし、やはり三月の身体には、擦り傷一つとして刻まれることはなかった。
「殺してくれ……っ! 頼む、俺を殺してくれぇぇぇっ!!」
ザイオンは、自分の全力が全く通用しない相手であると理解しながらも、肉体を止めることができず、血の涙を流しながら絶叫した。
「俺は、ここで……この処刑場で……一緒に造られた兄弟たちを、何人も、何十人も……自分の手で引き裂いてきた……っ! この首輪がある限り、俺は狂ったモンスターなんだ! だから、お願いだ……俺を壊してくれ……っ!!」
自分が犯してきた罪の重さと、心を残したまま操り人形として生き続ける地獄。
それは、どんな過酷な拷問よりも恐ろしい、終わりのない精神の凌遅処刑であった。
ザイオンの悲痛な叫びを聞き。
三月は、降り注ぐ爪の雨を無傷で受け止めながら、深緑色の瞳に静かな慈愛の光を宿した。
「……いっぱい痛くて、いっぱい苦しかったね」
三月は、ザイオンの胸に飛び込むように、静かに一歩を踏み出した。
「ガァァァァッ!! (来るな! 腹をえぐられるぞ!)」
首輪の強制命令が、ザイオンの腕を動かし、三月の心臓を貫こうと真っ直ぐに爪を突き出させる。
だが、三月はやはり避けない。
ガキィィィィンッ!! という音と共に、ザイオンの爪が三月の胸元に激突するが、彼女の歩みを止めることはできなかった。
「今まで、よく一人で頑張ったね。……ルルちゃんを守ってくれて、ありがとう」
三月は、ザイオンの懐に完全に入り込むと、彼の首元に嵌められた、禍々しい赤い光を放つ『隷属の呪縛環』に向かって、スッと右手を伸ばした。
その瞬間。
『お、お待ちください、お姉様ッ!!』
インカムの向こうで、これまで数々の理不尽な破壊を見守ってきたクロエ・アーヴィングが、かつてないほど緊迫した悲鳴を上げた。
『あの首輪には、絶対に直接触れてはなりません! データ照合の結果、あの古代遺物は、外部からの破壊工作(物理的衝撃や魔力干渉)を検知すると、即座に【自爆】するよう設計されています!』
クロエの言葉に、ルルが「えっ……」と息を呑んだ。
『首輪の内部には、強烈な圧縮爆薬が仕掛けられています。力任せに破壊しようとすれば、首輪が砕けるよりも早く爆発し、ザイオン殿の首ごと吹き飛ばしてしまいます! 解除キーがない以上、あれを安全に外す方法は存在しません! 彼の魂を救う唯一の手段は……その命ごと、彼を絶つことのみです!』
それが、迷宮を創造した古代文明が用意した、完全無欠の奴隷管理システムであった。
逃げることも、誰かに助けられることも許されない。
首輪を壊そうとすれば死に、そのままにすれば殺戮兵器として生き続ける。
「ルル……もう、いいんだ」
ザイオンは、自らの首元に伸ばされた三月の手を見つめながら、最期の抵抗のように微かに口角を上げた。
「俺の命と一緒に……この忌まわしい鎖を、断ち切ってくれ。……お前が、無事でよかった」
彼は、自らの死による救済を、心から受け入れていた。
しかし。
「……私は、誰も殺さないよ」
三月の声は、どこまでも静かで、そして絶対的な確信に満ちていた。
「私の可愛い妹をいじめる悪い機械は、跡形もなくスクラップにするけど。……妹の大切な家族を殺すほど、お姉ちゃんは無慈悲じゃないの」
『お、お姉様!? しかし、それでは首輪の自爆機構が――』
「大丈夫。痛くないから、ちょっとだけ動かないでね」
三月は、クロエの制止も、ザイオンの絶望も意に介さず。
ザイオンの首にガッチリと食い込んでいる『隷属の呪縛環』の表面に、自らの右手の人差し指と中指の、わずか「指先二本」だけをそっと触れさせた。
(……あのね、クロエちゃん。私はただの「力持ち」じゃないんだよ)
三月は、心の中で静かに呟いた。
彼女の持つ【怪力(極)】とは、単に山を吹き飛ばし、海を割るだけの粗雑な破壊力ではない。
弟の拓也が最高の笑顔を見せてくれるように、パンケーキを焼くためのフライパンの火加減を完璧に調節し、猫耳幼女のルルを怖がらせないように無音の真空刃を作り出す。
そう、彼女の真の恐ろしさは、その絶大な物理エネルギーを、1ミリの狂いもなく操る『究極の精密制御』にこそあったのだ。
「――【怪力(極)】、浸透破壊」
三月は、自身の体内に眠る数万トンという絶望的な物理エネルギーを、指先の、さらにその先端にある「一点」にのみ極限まで圧縮した。
そして、それを。
金属の首輪と、ザイオンの皮膚の間にある、『わずか0.1ミリの隙間』に向かって、寸分の狂いもなく流し込んだのである。
自爆機構を作動させるための「外部からの衝撃センサー」は、首輪の表面にしか存在しない。
ならば、表面に一切の衝撃を与えず、内側の構造だけを『物理的な振動』で直接粉砕してしまえばいい。
パキッ……。
静まり返った闘技場に、ひどく場違いな、小さな乾いた音が響いた。
その直後。
絶対に破壊不可能であり、衝撃を与えれば即座に自爆するとされていた神造の金属『隷属の呪縛環』の内部から。
無数の、目に見えない微細な亀裂が走り始めた。
「あ……?」
ザイオンが、信じられないものを見るように目を見開く。
赤い禍々しい光を放っていた首輪の明滅が、突如として不規則になり、そして完全にフッと消え去った。
自爆機構の起爆回路も、洗脳の強制プログラムも、強固な金属の装甲も。
三月が流し込んだ『0.1ミリの浸透破壊』によって、内部から完全に、そして完璧に粉砕されたのだ。
パラ……パラパラパラ……。
次の瞬間。
ザイオンの首には一切の火傷も、ダメージも与えることなく。
彼の心を永遠に縛り付けていた忌まわしい首輪だけが、まるで砂上の楼閣が崩れ去るように、粉雪のようなサラサラとした金属の粉となって、足元の赤黒い砂の上へと崩れ落ちていった。
「……首輪、とれたよ。もう、誰も殺さなくていいんだよ」
三月は、完全に沈黙した金属の粉を払い落とすと。
太陽のように温かく、慈愛に満ちた笑顔で、呆然と立ち尽くすザイオンの頭を、ポンポンと優しく撫でた。
それは、成功作の戦闘兵器として造られた彼が、物心ついてから今まで、一度も向けられたことのない『無条件の肯定と優しさ』であった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
首輪の洗脳によって愛する妹分に牙を剥いてしまうザイオン。
しかし、三月お姉ちゃんはそのSランクの凶爪を「素手」で無傷で受け止め、さらには絶対に破壊不可能(壊せば自爆する)という神造の首輪を、【0.1ミリの浸透破壊】というデタラメな精密制御によって、見事に粉砕してしまいました!
ただの力任せの破壊ではなく、愛する者を守るための究極のコントロール。
これこそが、如月三月が「最強の姉」と呼ばれる所以ですね。
次回(第317話)、ついにザイオンとルルちゃんの感動の再会、そして……この「絶対に壊せない首輪を壊した」という事象が、またしても外のSランクたちにとんでもないバフをもたらすことになります!
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次回(第317話)もどうぞよろしくお願いいたします!




