第307話:第十六階層『忘却の廃都』。猫耳幼女の遭遇と、お姉ちゃん無双(サイレント)
第十五階層の砂漠を丸ごと高熱で溶かし、ツルツルのガラスのスケートリンクへと変貌させた如月三月。
彼女はそのままスーッとスケートのように滑りながらガラスの床を蹴り割り、次なる第十六階層へと軽やかに降り立った。
「わぁ……。今度はなんだか、ボロボロの街だね。誰も住んでないのかな?」
三月は、漆黒のロングコートの裾をパタパタと払いながら、周囲を見渡した。
第十六階層――そこは【忘却の廃都】と呼ばれる、かつて魔界に存在した文明が滅び去った後の、薄暗く広大な廃墟の都市であった。
崩れかけた灰色の高層建築物が墓標のように立ち並び、空はどんよりとした鉛色に覆われている。不気味なほどの静寂が支配する、死の空間だ。
『お姉様ッ!! 第十六階層の到達、確認いたしましたッ!!』
三月のインカムから、爆睡中の拓也に代わってナビを務める狂信者、クロエ・アーヴィングの元気な声が響き渡る。
『私のデータによれば、そこは無数のアンデッド魔獣や、廃墟に潜む機械兵器が徘徊する極悪な市街地戦エリア! 先ほどのように街ごとひっくり返すか、あるいは全てを更地にする極大魔法で――』
「うーん、でもこのお部屋、すっごく静かだよ? 敵さん、どこにも見当たらないし」
三月が小首を傾げながら廃墟のメインストリートを歩き始めた、その時だった。
――きゅるるるるるるる……。
静寂に包まれた廃墟の路地裏から、ひどく可愛らしい、だがとても切実な『音』が響いてきた。
「……ん? 今の音、魔獣の鳴き声?」
三月はピタリと足を止め、音のした崩れかけたレンガの壁の裏へと回り込んだ。
そこで彼女が見たものは、恐ろしいアンデッドでも、強大な機械兵器でもなかった。
「……ひぃっ!?」
瓦礫の陰で、ボロボロの灰色のローブを被り、ガタガタと震えながら蹲っている『小さな影』があったのだ。
年齢にして、人間で言えば七、八歳ほどの少女。
肩までのサラサラとした銀色の髪。そしてその頭頂部には、ピコピコと怯えたように動く『銀色の猫耳』が二つ生えており、ローブの隙間からは細い尻尾が丸まっているのが見えた。
「た、食べないで……! わたし、お肉ついてないから、ぜんぜん美味しくないの……にゃ……」
猫耳の幼女は、大きなエメラルドグリーンの瞳に涙を溜め、三月を見上げて必死に後ずさった。
『お、お姉様ッ!? な、なんと、アビスゲートの深層に亜人の幼女が!? データのイレギュラーです! アビスの瘴気から生まれた幻影か、あるいは特殊な擬態能力を持つ魔獣の可能性が――』
クロエがインカム越しに警戒を促す。
確かに、ここはSSSランクの迷宮の深層である。こんなか弱そうな子供が存在できるはずがない。常識的に考えれば、侵入者を油断させるための高度なトラップだ。
しかし。
三月の目は、別の意味で完全に釘付けになっていた。
(……ね、猫耳の、ちっちゃい女の子……!?)
三月は、弟である拓也を溺愛する重度のブラコンであるが、それと同時に「小さくて可愛いもの」を無条件で保護したくなるという、極めて強い『お姉ちゃん属性(母性)』を併せ持っていたのだ。
「きゅるるるるるるる……」
再び、猫耳の幼女のお腹から、限界を知らせる切実な音が鳴り響く。
幼女は顔を真っ赤にして、両手で自分のお腹をギュッと押さえた。
その瞬間。
三月の中から、迷宮のギミックも、罠の疑いも、すべてが完全に吹き飛んだ。
「お腹、空いてるの!?」
三月は、一切の警戒もなく幼女の目の前にしゃがみ込むと、満面の笑みを浮かべた。
「ひゃうっ!? ク、喰われる……ッ!?」
「食べないよ! あのね、私は三月。三月お姉ちゃんって呼んでいいよ! 君はお名前なんて言うの?」
三月が優しく頭を撫でると、幼女はビクッとした後、その掌から伝わる『温かさ』と、三月から放たれる絶対的な安心感(神域の覇気)に、ポカンと目を丸くした。
「わ、わたし……『ルル』。アビス・ケットシーっていう、魔獣……だよ」
ルルと名乗った猫耳の幼女は、おずおずと答えた。
彼女は、アビスゲートの環境に稀に発生する、非戦闘系の亜人種モンスターだった。
しかし、力が弱すぎるため、他の凶悪な魔獣から逃げ隠れしながら、この廃墟でずっと飢えに耐えて生きてきたのだという。
「ルルちゃんっていうんだね! 可愛いお名前! ずっとここで一人ぼっちで、ご飯も食べてなかったの?」
三月が尋ねると、ルルは涙目でコクリと頷いた。
「うん……。外に出ると、こわいワンワンたちがいっぱいいて……食べられちゃうから……」
『お姉様! たとえ見た目が幼女であろうと、迷宮の産物である以上、危険な存在には変わりありま――』
「クロエちゃん」
三月の声が、突如として『絶対零度』に冷え込んだ。
インカムの向こうで、クロエがヒッと息を呑むのが聞こえる。
「この子が、嘘をついてるように見える? ……こんなに小さくて、お腹を空かせて震えてるのに、一人ぼっちで置いていくなんて、お姉ちゃんとして絶対にできないよ」
三月はルルの小さな手をギュッと握ると、太陽のような笑顔を向けた。
「ルルちゃん! 私の帰るお家に、私の自慢の弟の『拓也』っていうすっごくかっこいい男の子がいるの! その子がね、これから世界一美味しい『特製パンケーキ』を焼いてくれるんだよ!」
「ぱん……けーき……?」
「そう! 甘くて、フワフワで、お腹いっぱいになる魔法のご飯だよ! ルルちゃんも、私と一緒にお家に帰って、パンケーキ食べよっか!」
「……っ! い、いいの……!? わたしも、たべていいの……にゃ!?」
「もちろん!」
三月の底抜けの優しさと、甘い匂いのしそうな言葉に、ルルの尻尾がパタパタと歓喜に揺れた。
その、心温まる触れ合いの真っ最中だった。
『グルルルルルルルル……ッ!!』
『ガウウウウッ!!』
廃墟の路地裏を囲むように、崩れた建物の屋上や路地から、赤黒い炎を纏った巨大な漆黒の犬――第十六階層のボス魔獣『アビス・ヘルハウンド・ロード(Sランク)』と、その群れが数十匹も姿を現したのだ。
ルルが怯えていた「こわいワンワンたち」である。
「ひぃぃぃッ!? で、でたぁぁッ!! ご、ごめんなさい三月お姉ちゃん! わたしのせいで……ッ!」
ルルが、三月の背中にしがみついてガタガタと震え出した。
「お姉ちゃん……?」
三月は、その言葉の響きに、ピクッと肩を震わせた。
ルルが自分を『お姉ちゃん』と呼んで頼ってくれた。
その事実が、三月の脳内で危険な化学反応を引き起こした。
三月は、背中のルルを庇うように立ち上がると、周囲を囲む巨大な魔犬の群れに向かって、深緑色の瞳をスッと細めた。
「……ねえ。今、私の可愛い妹(仮)がお話してる最中なんだけど。空気、読めないのかな?」
ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴッ……!!!!
三月から、先ほどの階層を更地にした時とは全く質の違う、極度に圧縮された『静かなる殺意』が放たれた。
「ルルちゃん。ちょっとだけ、目と耳を塞いでてね。大きな音が出たら、びっくりしちゃうもんね」
三月はルルに優しく微笑みかけると、右手で『魔鉄の塊剣』をスッと引き抜いた。
これまでの三月であれば、ここで「邪魔ッ!」と叫んで剣をフルスイングし、第十六階層の廃墟ごと魔犬たちを物理で吹き飛ばして更地にしていたはずだ。
しかし今は、背中に「大きな音で怯える小さな猫耳幼女」がいる。
だから彼女は、最強の力に『最凶の精密制御』を掛けた。
「――【磁力操作(極)】、真空圧縮」
三月が剣を軽く振るった瞬間。
魔犬たちの周囲の空間(磁場)が、コンマ一秒の間に『絶対真空』へと強制的に引き剥がされた。
音が伝わる空気すらも存在しない真空の檻。
そこに、三月の覚醒した【怪力(極)】を乗せた、神速の剣閃が放たれる。
シュパァァァァァァァァァァァンッ。
一切の『音』がなかった。
ただ、空間に幾筋もの青白い光の線が引かれたかと思うと。
周囲を囲んでいた数十匹の巨大なSランク魔犬たちは、一鳴きする暇すら、爆発音を立てる暇すら与えられず、サイレント映画のように完全にバラバラに両断され、光の粒子となって音もなく消滅したのである。
建物の倒壊音もない。足元の瓦礫一つ吹き飛ばない。
ただ敵だけが、無音の世界で完璧に「お掃除」された。
「……あれ? ワンワンたち、みんなどっか行っちゃった?」
耳を塞いでいたルルが、恐る恐る目を開けて不思議そうに首を傾げる。
「うん! お姉ちゃんが、しつけをしてお帰りいただいたよ!」
三月は剣をスッと鞘に収めると、ルルを軽々と持ち上げ、自身の背中におんぶした。
「わぁっ……! お姉ちゃんの背中、あったかい……!」
「ふふっ、しっかり掴まっててね! 拓也とパンケーキが待ってるから、ここから超特急で帰るよー!」
『おおおおおッ!! なんという慈愛ッ! なんという完璧な戦闘制御ッ!! 力で全てを破壊するだけでなく、弱き者を護るために力を極限まで制御されるとは!』
インカムの向こうで、クロエがまたしても新しい方向性の感動で泣き崩れていた。
『これより、ルル殿を我が如月家の【第一メイド候補生(見習い)】として歓迎いたしますわッ!!』
一方その頃。
アビスゲートの外、東京・新宿の上空で防衛戦を死守していたSランク探索者たちの間では、これまでの常識を覆す『全く新しいバフ』が展開されていた。
「……おい、なんだこの光は……?」
神宮寺が、空から降り注ぐ『淡い黄金色の光の粉』を手のひらで受け止めた。
これまでは、時間加速や絶対反射、貫通といった「攻撃・防衛」に特化したバフが続いていた。
しかし今、上空のアビスゲートから降り注いできたのは、三月が猫耳幼女に向けて放った『底なしの母性と慈愛』が、魔力となって逆流したものであった。
それが、戦場全体に広域の【絶対治癒と聖域化】のパルスとなって降り注いだのである。
「ああっ……! 傷が……塞がっていく……!」
レオン・カーターが、戦闘の余波で負っていた擦り傷や、雷撃の使いすぎによる筋肉の断裂が、光の粉に触れた瞬間から『温かい温泉に浸かっているかのように』急速に回復していくのを感じていた。
それだけではない。
光の粉が降り注いだ新宿の空域から、魔獣たちが放っていた凶悪な瘴気や毒素が完全に浄化され、まるで神殿の中にいるような清浄な空気に満たされたのだ。
「ハッハァァァァッ!! 冗談だろオイ!? 今度は【完全回復】と【浄化結界】の広域展開だとォ!?」
レオンが、全身から疲労も痛みも完全に消え去り、全盛期の力を取り戻して歓喜の咆哮を上げる。
「なんという……なんという深い慈悲の心だ……!」
神宮寺は、戦いの最中であるにもかかわらず、その温かな光に包まれながら、空のゲートに向かって思わず涙を流していた。
「敵をただ殲滅するだけではない。彼は、傷ついた我々を案じ、この血塗られた戦場すらも『聖域』へと変えてみせたのだ! 如月拓也……君という男は、戦術の神であると同時に、我々を救済する『慈愛の女神』のような心すら持ち合わせているというのか!!」
「ハッハァ! もうあいつの銅像を新宿に建てるしかねえな!!」
Sランクの猛者たちが、完全に浄化された空域で、見えざる少年指揮官(の慈悲)に向かって熱狂的な祈りを捧げる。
もちろん、彼らは知らない。
この神がかった絶対治癒の聖域バフが、「お腹を空かせた猫耳幼女を保護し、大きな音を出さないように無音で敵を処理した」という、三月の唐突に発現した『お姉ちゃん属性(母性)』のダダ漏れの余波に過ぎないという事実を。
そして、彼らが慈愛の女神のごとく崇め奉る指揮官が、現在自室の机で「むにゃ……胃薬……」と寝言を言いながら爆睡しているという事実も。
かくして。
深淵迷宮の第十六階層は、力任せの破壊ではなく『猫耳幼女の保護とおんぶ』という全く新しい形で踏破され、外で戦うSランクたちは、気絶中の少年指揮官への心酔をいよいよ『救世主』の領域へと昇華させていく。
「ルルちゃん、しっかり掴まっててね! 次の階も一瞬で終わらせるから!」
「う、うんっ! 三月お姉ちゃん、すごーい! にゃははっ!」
『ハッ! お二人の尊き道中、このクロエが最高のBGM(軍歌)で彩らせていただきますわッ!』
パンケーキと新しい妹(仮)のために、無音の凄まじい速度で迷宮を駆け抜ける最強の姉。
そして、自室でよだれを垂らして眠り続ける魔力ゼロの指揮官。
残る34階層。真の深淵(裏ダンジョン)の攻略戦は、新たな仲間を背中に乗せ、さらなる理不尽へと突き進んでいく。
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
「階層丸ごと物理破壊」のパターンを崩し、今回はまさかの猫耳幼女の保護回となりました!
お姉ちゃん属性を刺激された三月は、ルルちゃんを怖がらせないために「真空にして音を消してから斬る」という、力任せ以上のデタラメな精密制御(サイレント無双)を披露してくれました。
そして外のSランクたちは、お姉ちゃんのダダ漏れになった母性(慈愛の波動)を「完璧な広域ヒール」と勘違いし、爆睡中の拓也を慈愛の神として崇めて感涙しています(笑)。
ルルちゃんという新たな仲間(?)を背中に乗せ、アビスゲート攻略はさらに続きます。
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