第294話:第三階層『絶海』。海割り(物理)と、深海魚の末路
第二階層『幻惑の森』を文字通り一直線の更地に変え、むき出しになった階段を下りた先。
深淵迷宮の第三階層へと足を踏み入れた如月三月の目の前には、これまでの赤黒い荒野や鬱蒼とした森とは全く異なる光景が広がっていた。
「わぁ……。今度はお水がいっぱいだね」
階段の終わりは、そのまま『真っ暗な水面』へと繋がっていた。
見渡す限りの海。いや、海というよりも、巨大な地下空間を満たす底知れぬ『深海』である。光源は一切なく、水は墨汁のように黒く濁り、不気味な静寂だけが空間を支配していた。
『……ねえさん、ストップだ。そこから先へは一歩も踏み出すな』
三月の耳元のインカムから、弟である拓也の鋭く、かつ疲労の滲んだ声が響く。
拓也のいる自室。
鉄山厳特製の『絶対防御パーカー』を着込んだ彼は、魔力ゼロの肉体を安全に保ちながら、机の上のモニターと右眼のチート能力『深層言語・限定解析』を完全にリンクさせていた。
彼の右眼の奥では、青い演算陣が限界を超える速度で回転し、第三階層の環境データを凄まじい勢いで数値化していく。
『いいか、ねえさん。そこは第三階層【絶海の深淵】だ。ダンジョン全体が水没している水中エリアで、水圧はざっと見積もって水深一万メートルに匹敵する。普通の人間なら、足を踏み入れた瞬間にペチャンコに潰される絶圧空間だ』
拓也は、ズキズキと痛む胃を押さえながら、必死にナビゲートを続ける。
『おまけに、あの黒い水には魔力の伝導を阻害するジャミング効果がある。水中に潜めば視界ゼロ、探知魔法も無効化される最悪の環境だ。俺の右眼で、水圧の薄いルートと息継ぎできるエアポケットを計算する。ねえさんは水圧に耐えながら、俺の指示通りに泳いで――』
「えーっ。泳ぐの?」
三月は、階段の波打ち際にしゃがみ込み、パシャパシャと黒い水を指先で弾きながら不満そうに頬を膨らませた。
「あのね、拓也。お姉ちゃん、今日はこのサマードレスでお出かけしてるんだよ。このお洋服、お気に入りなの。あんな真っ暗で汚いお水の中を泳いだら、お洋服がビショビショになっちゃうし、磯の匂いがついたらパンケーキが美味しくなくなっちゃうじゃない」
『いや、ドレスが濡れるとか匂いとか、そういう次元の場所じゃないんだよ! 水深一万メートルの水圧と、Sランク相当の深海魔獣がウヨウヨしてる死地なんだぞ!? 頼むから我慢して潜ってくれ……!』
拓也が自室の椅子で悲痛な叫びを上げるが、最強の主人公である三月は「うーん」と首を傾げたまま立ち上がった。
そして、目の前に広がる真っ黒な深淵の海に向かって、スッと右手をかざす。
「大丈夫だよ、拓也。お洋服が濡れるのが嫌なら、お水の方にどいてもらえばいいんだから」
『……は? ねえさん、まさかお前……っ、いや、ねえさん! 何をする気だ!?』
拓也が嫌な予感に顔を青ざめさせた、次の瞬間であった。
三月は、魔法陣を展開することも、呪文を詠唱することもなく、ただ純粋な『物理法則への絶対的な命令』として、右手の手のひらを左右にパカッと開く仕草をした。
市民プールを数秒で神話級の聖水に変えた、あの特異点崩壊のエネルギーを吸って神の領域へと進化した固有スキル、『流体操作』である。
「お水さん、ちょっと道を開けてね」
ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴッ……!!!!!!!
深淵迷宮が、壊れたように激しく振動した。
三月の手の動きに合わせて、第三階層を満たしていた数億トンという規格外の質量を持つ『真っ黒な深海』が、文字通り【真っ二つに割れた】のである。
水深一万メートル分の漆黒の海水が、まるで目に見えない巨大な壁に押し退けられるように、左右へと暴力的な速度で分断されていく。
海が割れたその中央には、底の泥すら完全に乾ききった『幅五十メートルの真っ直ぐな道』が、遥か彼方の第四階層へと続く階段まで一直線に開通していた。左右には、天を突くような黒い水の壁が、物理法則を完全に無視してそそり立っている。
かつて神話で語られた、海を割って道を作る奇跡。
それを、絶世の美女が「服が濡れるのが嫌だから」という理由だけで、一切の魔力詠唱もなしに物理と流体操作のゴリ押しでやってのけたのだ。
『ガハッ……!? ゲホッ、ゴホォォォッ!!』
インカムの向こうから、拓也がかつてないほど激しく咽せ返り、むせび泣くような声が聞こえてきた。
「あっ、拓也!? 大丈夫!? また胃が痛いの!?」
『い、痛いどころの騒ぎじゃない……ッ!! 俺の右眼は今、あの海の【流体力学】と【水圧分布】を超絶並列処理で計算してたんだぞ!? それがいきなり流体が消滅して【空間の真空断層】なんていうデタラメな物理エラーに置き換わったせいで、処理落ちで脳の血管が何本かキレそうに……ッ!!』
「拓也様ッ!! お気を確かにッ!! 今すぐ最高級の鎮痛剤を……ッ!!」
自室のモニターの前で、拓也は頭を抱えて机に突っ伏していた。
指揮官がどれだけ完璧なルート演算を行おうと、手駒(主人公)が盤面ごと物理で叩き割って進んでいくため、もはや彼の右眼は『姉の引き起こすバグの観測とエラー処理』だけで限界を迎えていたのである。
「おお……なんと神々しき御姿……! 神話の海割り(モーセの奇跡)すら、お姉様にとってはただの『水たまり避け』に過ぎないのですね……ッ!!」
クロエの狂信的な祈りが、拓也の耳元でうるさく響く。
「ごめんね拓也! 早く終わらせてパンケーキ食べようね!」
三月は、左右にそそり立つ数千メートルの水の壁に挟まれた乾いた海底を、ルンルン気分でスキップしながら進んでいく。
そんな彼女の足元で、ビチビチッ、ビチビチビチッ! と、巨大な何かが跳ね回る音がした。
「ん?」
三月が立ち止まって見下ろすと、そこには、体長百メートルを超える巨大な漆黒のイカのような化け物が、完全に乾ききった海底の泥の上で、情けなくのたうち回っていた。
第三階層を統括するボス魔獣、『アビス・クラーケン(Sランク)』である。
本来ならば、ジャミングの効いた深海の暗闇から、無数の触手と水圧弾で探索者をなぶり殺しにする絶対的な捕食者。
しかし、彼が生きるための『海』そのものが三月の手によって真っ二つに割られ、完全な陸地へと変貌してしまったため、エラ呼吸しかできない深海ボスは、ただ陸に打ち上げられた巨大な魚介類として酸欠で苦しむことしかできなかったのだ。
「あーあ。こんなところで暴れたら、お洋服に泥が跳ねちゃうじゃない」
三月は、無慈悲に冷ややかな視線を向けると、ビチビチと跳ねるSランクボスの巨大な頭を、サマードレスの裾を少しだけ持ち上げて、細い足で『ポンッ』と軽く踏みつけた。
ドグシャァァァァァァンッ!!!!
それだけで、百メートルを超えるアビス・クラーケンの巨体は、スイカのようにあっさりと爆散し、沈黙した。ボスの証である巨大な魔核だけが、乾いた泥の上にコロンと転がる。
『……Sランクの深海ボスが、酸欠で陸に打ち上げられた挙句に、泥はねを嫌がる姉の踏みつけで即死した……』
インカム越しに、拓也の魂の抜けたような呟きが聞こえる。
『もうやだ……。俺の、俺の完璧なダンジョン攻略マニュアルが、全部物理で破壊されていく……。俺はもう、何も指揮しなくていいんじゃないか……?』
「そんなことないよ拓也! 拓也が一緒に見ててくれないと、お姉ちゃん寂しいもん! あとでパンケーキのシロップ、いっぱいかけてあげるから元気出してね!」
三月は、ドロップしたボスの魔核をひょいっと拾い上げると、再び一直線の海底をスキップで進み始めた。
一方その頃。
アビスゲートの外、東京・新宿の上空で死闘を繰り広げていたSランク探索者たちの頭上に、奇妙な現象が起きていた。
「……ん? なんだ、雨か……?」
レオン・カーターが、空から降り注ぐ細かな水滴に気づいて顔を上げる。
新宿の上空に開いた漆黒のアビスゲートから、突如として大量の『水』がゲリラ豪雨のように降り注いできたのだ。
しかし、それはただの雨ではない。
三月が第三階層で『海割り』を行った際、行き場を失ってゲートの外(現実空間)へと弾き出された数億トンの海水。それが、三月の『流体操作』の魔力フィルターを通ったことで、皮脂汚れや猛毒の瘴気を完全に濾過された【超純度の神話級聖水】へと変貌して降り注いでいたのである。
「こ、これは……ッ! なんだこの雨は!?」
神宮寺が、驚愕の声を上げる。
聖水の雨を浴びた瞬間、Sランク探索者たちの肉体に蓄積していた疲労が嘘のように消え去り、魔力回路がフルチャージされていく。
それどころか、魔獣たちの毒や爪で負っていた傷すらも、細胞レベルで瞬時に再生していくではないか。
「ハッハァ! 凄まじいヒーリングバフじゃねえか! あの少年指揮官と姉君は、ゲートの内部を攻略しながら、外にいる俺たちのサポート(広域回復)までこなしてやがるのか!」
レオンが、漲る力に歓喜の咆哮を上げ、再び雷光を纏ってワイバーンの群れへと突っ込んでいく。
「見事だ……。我々の被害状況を完璧に予測し、このタイミングで回復魔法の雨を降らせるとは……。如月拓也、底知れぬ天才指揮官よ……!」
神宮寺もまた、感動に打ち震えながら刀を構え直した。
もちろん、彼らは知らない。
この奇跡のヒーリングバフの雨が、「お洋服が濡れるのが嫌だから」という理由で三月が海を割った際に溢れ出た、ただの『排水』に過ぎないという事実を。
かくして。
深淵迷宮の第三階層は、服を濡らしたくない主人公の海割りと、泥はねを嫌う踏みつけによって一瞬で踏破され、外で戦うSランクたちは勝手な解釈で拓也への心酔を深めていく。
自室で胃痛に苦しむ魔力ゼロの少年指揮官の戦いは、まだまだ終わる気配がなかった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
服を濡らしたくないという理由だけで「海割り(物理)」を成し遂げたお姉ちゃんと、その余波の雨で勘違いを深めるSランクたち。そして今日も胃痛と処理落ちに苦しむ拓也でした。
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次回もよろしくお願いいたします。




